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ペルー編 せきらら☆難民レポート 第29回 月刊ピンドラーマ2022年11月号


◆フジモリ元大統領に敬意を表する

「フジモリ元大統領(1990-2000)はテロを縮小させた立派な管理者でした。今も尊敬しています」
と話すのは、サンパウロ在住のペルー人カルロス・エルネスト・ドゥラン・リャノスさん(69歳)。1980〜90年代にかけてペルー各地でテロを引き起こしていたセンデロ・ルミノソ(ペルーの極左武装組織)の恐怖から、妻や子供たちが安心して生活できる場を求めて、ブラジルに逃れてきた。ブラジルに暮らして今年で31年になる。

「当時のテロ関係者たちは、今はそのような事実はなかったと過去の事実を否定します。しかし、リマを中心に多くの市民を恐怖に陥れ、ペルーを後にした人々は少なくありませんでした」
と、ブラジルに来た当時のペルーの状況を振り返る。

カルロスさんとマルタさん


◆テロの恐怖を逃れて

「ブラジルの生活はカーニバル!」
と冗談交えに笑うカルロスさん。そのくらい、30年以上前のリマの生活は、いつ誰が死んでも不思議ではない不穏な空気に包まれていた。

ペルーのアンカシュ地方、標高約3000mのポマバンバ県で生まれたカルロスさんは、祖父の代まで同地で大農園を所有していた。牛を飼い、トウモロコシなどの穀物を生産し、アマゾン地方で生産されたカフェやお茶などと物々交換するのを生業としていた。1960年代に軍部主導で行われた農地改革で、ペルーの伝統的な地主支配層の解体が行われ、カルロスさん一族も同地を後にすることを余儀なくされた。

カルロスさんは先住民ケチュア族とのメスチソ(混血)であるが、スペイン人の血を濃く引いている。幼少期は政府によってケチュア語を話すことが禁止されていたが、ベビーシッターの息子がケチュア語を話せたため、カルロスさんもケチュア語を話せる。

リマのスペイン系の会社でタバコ生産技師として働き、妻のマルタさんと結婚。4人の子供が生まれるのと同時期に、センデロ・ルミノソは都市部でも活動を開始し、1987年にはリマ市の労働組合や貧民街に浸透し、テロによる殺害や爆破事件が社会を震撼させた。テロ活動はより強化され、従わない者は殺害するなど、やがて思想に関わらず無差別殺人事件も起こり、カルロスさんの同僚にも活動家がいて、マルタさんは「夜も怖くて眠れない」と訴える日々が続いた。


◆国境を超えると別世界が広がった

1991年、カルロスさんはブラジルでの生活に可能性を求め、一人ブラジルに向かった。リマからバスでアレキパへ、そこから電車でボリビアを横断し、国境の橋を渡ってブラジルに入国した。リマからブラジルの国境の町コルンバまで、途中、鉄道のストにも巻き込まれて約5日を要した。シャワーを浴びることもできない不衛生な環境が続き、当時のボリビアの衛生状態の劣悪さに比べると、ブラジルに入った途端、あまりにもきれいなことで天国に到着したような気分だった。

コルンバからさらに電車でサンパウロ州バウルーへ、そこで乗り換えてサンパウロ市のルス駅に到着した。ルス駅周辺の安宿に滞在しながらサンパウロの状況を視察した。観光ビザでの滞在だったため、3か月ごとに安い航空券を入手し、ボリビアに出てはブラジルに再入国することを繰り返し、ビザの延長を続けた。ブラジルを気に入り、友人もできて生活の目途が立ったため、翌年にはマルタさんを呼んだ。マルタさんが来る時は、ボリビア経由の旅路の劣悪さを避けて、チリ、アルゼンチンを陸路経由し、サンパウロに到着した。サンパウロにはマルタさんの親戚もおり、人の温かさや、テロのない生活に安堵し、マルタさんは一旦リマに戻り、1993年に13歳、11歳、9歳、4歳の4人の子供を連れてサンパウロに来た。

ペルー時代のカルロスさん、マルタさんと娘たち


◆子供たちの学校不適応がきっかけで難民申請

家族6人でサンパウロの生活が始まり、カルロスさんはフェイラでペルーの雑貨を販売して生計を立てた。他にも、今日まで複数の学校でスペイン語を教えている。マルタさんも資格を取り、今も保険会社や不動産業者として働いている。

ブラジルに来て最も悩んだのは、上3人の子供たちが言葉の違いなどでブラジルの学校への適応に苦労したことだった。泣いていた子供たちを見て、ブラジル人の友人から教会の神父を紹介され、そこから難民受け入れセンターであるカリタスを知った。子供たちが到着してからはビザの有効期限が切れていたことも、ブラジルでの生活や子供たちの学校の選択肢に制限があった理由だった。カリタスで難民申請をすれば合法的に就労や生活ができることを知り、1995年に「テロの脅威」という理由で難民申請を行い、短期間で認定された。

「現在のカリタスは椅子もあり部屋も明るく、当時と比べるとVIP待遇です。私が初めて訪ねた時は殺風景で、扉を叩いても中に人がいるのかいないのかわからないような応対でした」
と振り返る。

カルロスさん夫婦がブラジルに来た当時は、ペルーを出てもブラジルを選ぶ人はほぼおらず、多くはチリやコロンビア、スペインに向かい、サンパウロでも身近にペルー人の難民はいなかった。


◆日系人と隣り合わせで暮らす

カルロスさん家族はブラジルに来てから、日系人の多く暮らすサウーデ地区で暮らしてきた。ペルーで日系社会は身近だったが、ブラジルに来るまでは世界最大の日系コミュニティがあるとは知らなかった。日系人に対しては勤勉で真面目というイメージはペルーでもブラジルでも変わらない。また、「日本人の肌は実年齢より10歳も20歳も若く見えるのはどうして?」と、夫婦でアンチエイジングに関する日本人の習慣に高い関心を寄せる。

子供たちはブラジルで無事に大学まで卒業し、今は2人の孫にも恵まれ、ゆったりとした日常を送っている。実母と一人の姉もブラジルに暮らし、他の兄弟とその家族も米国に移住している。

ブラジルの生活は満足しているが、マルタさんは「私の心はペルー。本当はいつでもペルーで暮らしたい」と話す。サンパウロの不便な点について、「急な坂道が多く、ハイヒールを履いて通りを歩けない」と、車がなかった時は困ったと振り返る。


企画/ピンドラーマ編集部 
取材・文/おおうらともこ


おおうらともこ
1979年兵庫県生まれ。
2001年よりサンパウロ在住。
ブラジル民族文化研究センターに所属。
子どもの発達にときどき悩み励まされる生活を送る。

月刊ピンドラーマ2022年11月号
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