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ニコライ・ヴァヴィロフ (ロシア・ソ連の生物学者・農学者、1887-1943) ブラジル版百人一語 岸和田仁 2021年8月号

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#ブラジル版百人一語
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#岸和田仁 (きしわだひとし) 文

 矛盾による行き詰まり状態は気違いじみた出来事を引き起こした。国全体の予算を事実上決定し、残りのすべての州の財政をも賄い、経済的行き詰まりの状況下にあるこの国のすべての行政機関が事実上存在しているサンパウロ州が、独立国家として分離する、という問題が持ち上がった。騒動が発生し、州と州の間で戦争が始まった。しかしこれは蜂起したサンパウロ州側が崩壊することで終わった。この戦争という出来事は、またそれでなくても緊迫した財政下にあるこの国に、また大きな混乱をもたらしている。

 ブラジルの広大な内陸地帯はいくらか標高が高くなっていて、排水は良好であり、熱帯森林地域とは著しいコントラストを示している。ここはかなり乾燥性の土地であり、しばしば干ばつが起こる。周期的に何か月間も降雨がなく、植生は乾き切ってしまう。この地域の境界の辺りのところ、または灌漑をしている地域の範囲内にある地域においてさえ、もっともっと広範囲にわたって綿花栽培が可能である。綿花は本質的に乾燥地帯の植物である。

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 かつて、「ルイセンコ学説」なるエセ科学理論が一世を風靡していた時代があった。1940年年代から1950年代にかけて、独裁権力者スターリンにすり寄って、非科学的屁理屈を“正統科学理論”に”昇格”させた“学説”でしかなかったのだが、戦後の日本でも科学者から歴史学者まで多くの「ルイセンコ信奉者」が権勢を振るっていた時代があったのだ。

 俗っぽい解説を試みると、まず、ロシア革命後のソ連が直面した食料不足問題があり、そこに登場したのが、小麦の生産性を“革命的に向上できる”という科学理論(を装ったもの)であった。ルイセンコ学説のポイントは、「生物体の遺伝性を規定するのは、固定的な遺伝子ではなく、環境の変化によって生物体の物質交代の変化が起き、その変化が生殖細胞形成の過程に関係すると、これが遺伝的になる」というものだ。

 ルイセンコ(1898-1976)によれば、生物学の基礎学説とされるメンデル遺伝学は、“ブルジョア理論”でニセ科学に過ぎないから、遺伝子そのものを認めない、という立場だ。

 このムチャクチャ学説をルイセンコが発表したのは、1936年だったが、これを政治的に利用できると判断したスターリンが大絶賛したことで、一挙に、ソビエト党官僚制社会の階段を飛び上っていく。彼がソ連科学界の最高地位であるソ連科学アカデミー遺伝学研究所所長に抜擢されたのが、1940年だった。スターリン永眠(1953年)のあとは、フルフチョフに取り入り、この地位に1965年までしがみついた。

 この「偉大な科学理論」に反対した科学者は職を追われ、収容所送りとなったが、3千人を超える科学者が投獄され、その多くが収容所や刑務所で獄死している。

 メンデル遺伝学の世界的権威であったニコライ・ヴァヴィロフもこの「大粛清」の被害者であった。彼は、植物学、生物学、遺伝学を専門としたが、語学の天才でもあり、西洋主要語はもちろんペルシャ語にも堪能であったから、1916年のイランとパミールへの調査行を手始めに、1940年まで65か国を訪問し、資源植物のルーツを探索した地理学者でもあった。サラトフ総合大学教授などを務めた後、国立実験農学研究所所長、全ソビエト応用植物学・新栽培植物研究所所長、ソ連邦科学アカデミー正会員をへて、1929年ソ連邦科学アカデミー総裁に任命されたが、1940年逮捕され、苛酷な取り調べの後、1941年有罪(銃殺刑)の判決を受け、1943年サラトフ刑務所にて病死した。彼の名誉回復は1955年であった。

 世界中の訪問先には、日本(1929年、北海道から九州まで)も米大陸(北米からチリまで、ブラジルは1932年末から33年初め)もはいっており、その主要な旅行記録は『ヴァヴィロフの資源植物探索紀行』(原著1962年、木原記念横浜生命科学振興財団完訳、八坂書房、1992年)で読むことができる。   

 冒頭に引用したのは、サンパウロと中西部の部分であるが、アマゾンの章からも下記を引用しておく。

 アマゾン川には青色、バラ色、空色、まだら色など多彩な色彩のアマゾン固有の魚が豊富にいる。水の深度によって色調が変わり、そこを数多くの魚が通り過ぎるという、しばしば普段とはまったく異なった光景から目を離せなかった。しかしこのアマゾン川の岸辺でもっとも顕著に見えること、それは豪華な植物相、そしてなによりもまずヤシの多様性である。植物学者はアマゾン流域で800種に達するヤシを数えており、本当の意味でヤシの王国である。ここで見られるような多様性、変異性の幅の広さは、世界中どこを見渡しても存在しない。


岸和田仁(きしわだひとし)​
東京外国語大学卒。
3回のブラジル駐在はのべ21年間。居住地はレシーフェ、ペトロリーナ、サンパロなど。
2014年帰国。
著書に『熱帯の多人種社会』(つげ書房新社)など。
日本ブラジル中央協会情報誌『ブラジル特報』編集人。


月刊ピンドラーマ2021年8月号
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