📓古を知る

髪の毛なんてただあればよくて、鬱陶しくなったら誰かが切ってくれればいいと考えていた私にとって、彼らとの出会いはとても刺激的で、一生手放したくないと思えるものだった。

前職の最後の３年間はとても忙しく、わずかに与えられた休暇は、残業代や休日出勤手当とともに、ただただマッサージ屋に費やすだけで終わるという生活をしていた。
100時間超の時間外勤務をしているにもかかわらず「やる気を出せばもっとできるのにやる気が感じられない」と言われたことは一生根にもつし、私はそれ以来、だいたいのことにやる気を出せなくなった気がする。

髪の毛なんてただあればよくて、鬱陶しくなったら誰かが切ってくれればいいと考えていたので、美容院は、午前中の段階で自分の体調が良さそうで、早めに仕事を切り上げても問題なさそうな日の昼休みに、その日の夜の予約をとることにしていた。
会社からも駅からもそんなに離れておらず、そこそこ遅い時間までやっていること、電話するのが面倒なので、ホットペッパービューティーで予約できることだけが条件だった。
よっぽどひどいことをされない限り、「話かみ合わないな〜」とか思っても変える必要性を感じなかった。

そんな感じだったから、会社を辞めたとき、どこの美容院に行けばいいかが悩みの種となった。
美容院のためにわざわざ電車に乗るなんて面倒くさい。

ある日、夜の少し遅い時間に、ちょっと離れたスーパーまで歩いて買い物に行った帰りのこと。
よく通る道で、浮かれたパリピみたいな人たちが数人、建物から出てきて鍵を閉めているところに遭遇した。
私とはちょっと違うな、近寄らないでおこう、と思ったのだが、なんとなく目が離せなかった。

「違う」んだけど、なんとなくその輪に「入ってみたい」と思った。
ほんとうに一瞬の、偶然のすれ違い。

３日くらい考えたと思う。
答えの出ている考え。

あの人たちはたぶんあの店のスタッフなのだろう。
あの、美容院の。

私はあいかわらずホットペッパービューティーからその店を探して予約した。

そこは、私がいままで体験したことのない空間だった。
ただ髪を切ってくれればいい、染めてくれればいい、高いトリートメントとかいりませんマッサージもいりませんただただ鬱陶しいこの髪を何とかしてください、そんな気持ちで行ってはいけないところだった。

一見怖い人っぽいなかなかに破天荒なオーナーは同世代で、スタッフは皆勉強熱心、そして何よりとてもアーティスティックだった。
私が美容院に「髪を切る、染める」しか求めていなかったのは、それしかしない美容院が多かったからかもしれない、と思った。
ここは、いろいろな「美」そして「アート」を提供してくれる場所だ。

置いてある本や雑誌もとても良いものばかりで、私が書籍や雑誌をつくる仕事だと知ると、いろいろなことを聞いてくれ、ほんとうに、心の底から感心してくれている様子がわかった。

そして、最初に私を担当してくれた女性が、私のもつさまざまな意識を壊したり丸めたり、こねくりまわしてスパっとすっきりさせてくれる、たいせつな存在になった。

彼らはすでにプロとして活躍しているにもかかわらず、勉強の手を止めない。
勉強会のために店休日を設けることもある。
そして、そこで学んだことを、私たちに還元してくれる。

私が彼女とよく話す内容に「いくら勉強を積み重ねたって、結局は“基礎・基本”だよね」というのがある。
「古を知る」ということ。
ここを疎かにする愚かな人のなんと多いことか。

どの業界でも、いまでは用いない道具ややり方があったとして、それでもそのやり方があったからこその新しい技術や考えができたわけで、「昔のことだから」とか「いまはそんなもの使わないから」とかいった理由でないがしろにする人たち。

多くの先人たちの苦労や努力を知ろうともしない人たち。

私が完ぺきに理解してるかといったらそんなことはないし、彼らだってそんなことはないだろう。
「理解」というより「姿勢」の問題。

「知らなくていい」と思っている人たちがいるということ。

私にとって美容院とは、髪を切り、染めてもらっている間に、さまざまなことを吸収できる空間となった。

一瞬の偶然が、近所であったことも幸運だった。

彼らからいろいろなことを教わりに行く時間が、いまの私の貴重な癒し時間となっている。