【感情紀行記】前略、幸せ。
今まで、何度か書き連ねている気がするが、やはり言葉の持つ力というのはすごい。まず、言葉が表す意味というのは、その言葉の使い手のバックグラウンドであるとか、感情であるとか、様々なものを反映している。だからこそ自分は、美しい言葉遣いと、正しい日本語を目指し、心がけてきた。
先日、付き合っている人から思いがけない嬉しい言葉の数々を受け取った。それは、決して聞こえの良い言葉の羅列ではない。心の底から発してくれているメッセージであった。お互いがお互いを想い、いろいろな思いを載せて発してくれたメッセージである。それは、完璧に正しい日本語でも、特筆して美しい日本語でもない。しかし、これほどまでに美しく、そして愛おしく感じる言葉はなかった。言葉としての重みがあり、言葉としての意味が最大限詰まっていたのだ。将来のに対する不安であるとか、二人の仲の心配など様々あるが、本当に心のこもった言葉によって救われた。
あまり話しすぎるとただの惚気話になってしまうので割愛するが、言葉の意味について久々に考えさせられる出来事であったことは間違いない。近年、コミュニーケーションはより身近に、簡単にできるものへと変貌した。日々、様々な人々と連絡を取る中で、その言葉の使い方やコミュニケーションを取ることの意義や重要性をふと忘れてしまっていたような気がする。
正直、この感情紀行記は当初、誰かと付き合った、ということを隠す予定でいた。隠すというのは語弊があるが、何か気恥ずかしいものがあるし、後から見たときに黒歴史になる可能性があると思ったからだ。しかし、自分の感情に素直であるこの文書の中において、さすがに無視できない存在になってきた。自分の意見や考え、行動さえも徐々に変わってきたように感じるほどだ。
感情紀行記の中にはストレートな書き振りではないものの、何回か「大切な人」とか、「パートナー」として出てきている。ここ近年で自分の人生に最も影響を与えている人の一人であることは確実である。昔から何度も書いていたが、やはり自分の人生の物足りなさの大きな要因は、隣に人がいないということが大きかった。その大きな穴を埋めてくれたのだ。いや、穴を埋めるだけではなく、人生の山場を作ってくれたと言っても申し分ない。多くの大切な親友などに人生を色豊かにしてもらったことは確実であるが、やはり付き合うというのは大きいものがあった。普段、一人で行動していたような自分に、隣で一緒に出かけてくれる人ができたのだ。また、自分では普段行かなかったようなところも行くようになった。行動範囲ややれることは格段に増えた。このような自分には勿体無いような、身に余る幸せをいただいている。夢見心地であることは間違いないが、いつの日か黒歴史ではなく、直視できる懐かしい思い出として思い出せるように努力したい。
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