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【感情紀行記】未知なる自然

 自然の中で生きていきたい、とか、自然と共存した生活をしたいとかいう人は、一定数いる。確かに、ふとしたときに自分もそう考えることもある。しかし、本当にその状況になったら、そうは思わないかもしれない。

 数日前、散歩をしていると、建物が解体され、地表が見えていた。20年近く生きてきて初めて見たこの土地の地表に思いを巡らせた。土を見たことがないわけではないのだが、植木とか、道路の脇にある花々など、人工的に区画整備された、人工的な自然の土でしかない。先述した空き地のようなものも、都心の真ん中では、すぐに新しい建物を建てるために覆われ、目を離した隙に新しく立派な建物が立ってしまう。母なる大地というのは、自分にとって、国土交通省のお役人さん達が戦後になって、頭に汗をかいてデザインした、コンクリートの地続きなのだ。海だって、湾岸整備され、舶来品がコンテナに積まれて、我々の生活に届く玄関口でしかない。「母なる大地」や、「母なる海」という言葉が、神話の大地母神から来ているとしたら、「天空父神」はどうだろう。大地に恵みをもたらす天の役目は、コンクリートの大地に、灼熱の光を降り注ぎ、大量の熱射病を発症させている。そして、バベルの塔のような高層ビルが、父神にすら手を伸ばし、今にも触れようとしている。自分が生まれた頃には、すでに横にまで広がる空というものはなかった。上を見上げれば空はあるものの、横の空というのはない。ウクライナの国旗のモチーフとなっている、果てまで続く小麦畑と、その先で交わる空というものは、現代日本の首都にはない。

 そういった生活をしていると、段々と人間以外のものに抵抗感を生むようになってきた。子供の頃は、人工的とはいえ、自然をわずかに感じられる公園で、虫を探したりした。時は、謎の白骨化した動物の頭蓋骨を家に持って帰ろうとして必死に止められたこともあった。しかし、今や、虫一匹を見かけるのにも抵抗感がある。虫は愚か、人間以外の生きとし生けるもの達に違和感を覚える。犬や猫は、人間の生活に馴染んでいるので、なんとなくわかるが、それ以外の動物にはどうしても距離を置いてしまう。自然から隔離され、目にみえるほとんどが人工的なもので埋め尽くされている人間社会に生まれ、育った末路である。

 しかし、もはや完全なる自然というのはこの地球上にほとんど残されていないのではないか、と思うが、海外留学中に一度だけ、完璧に近い自然を体験した。ニュージーランドの雄大な自然は、自分に無力感を与える共に、何か力を得させてくれるようなものであった。そして、畏怖するべき自然というのを感じさせてくれた。「映画の世界みたい」という感想が先んじた自分の現代人ぶりと、現代社会の与える薄っぺらさに恥は覚えたものの、その経験は今でも覚えているほどに衝撃的であった。

 よく、縄文時代の人々や、弥生時代の人々の生活というものを展示した模型などが、博物館に展示されている。不便そうだし、何か暮らしづらそうだが、定時に出社し、働いたお金で週末に楽しみ、人間関係に苦悩するバベルの塔の住人達よりも、よっぽど良さそうだ。自然から物事や力を享受し、畏怖する。そういう生活こそが本来の人間らしい生活なのではないだろうか。現代社会は、自分らしい、などという概念を創造し生きがいのようなものを模索しているが、それよりも手前のことを忘れてしまったようだ。神に近づき、災害や、疫病など、神を超越しつつある、現代の人間達の行く末は本当に幸せなのだろうか。そう、問いを投げかける自分は、数分に一本の電車が来る現代日本の首都圏以外では暮らせない体へと、落ちぶれてしまっている。

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