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『三体』読了、および本を読み切るのに時間がかかる話

『三体』読了までの道程

夜が更けても仄かに蒸し暑い時節に、劉慈欣『三体』を読み終えた。2019年の夏に大森望、光吉さくら、ワン・チャイによる翻訳が早川書房より出版され、すぐに購入したが、結局読まずの期間が続いて、ようやく一頁目を開いたのは去年の12月になってからだった。読み始めてから読み終えるまで、およそ五ヶ月に及ぶ道程となった。

『三体』のあらすじを紹介することはしない。Amazonには既に2000件以上のレビューがついているし、私が良く利用する読書管理・記録サービス「ブクログ」では8000名以上の利用ユーザの本棚に、この『三体』が存在する。『三体』が発売された翌日には、Twitterのタイムラインに読了報告ツイートが並び、大方は好意的な評価を呟きていたと記憶している。だから私が今更この場であらすじを語っても益は殆どないだろう。また、『三体』についての私の感想も、すでに発信されている大方の感想と大同小異であるから、この場で語ることは多くない。

私が以下で書くのは『三体』の感想ではなく、なぜ私が『三体』を読み切るのに5ヵ月(購入から数えると2年以上)もかかったかである。

私がこの本を読もうとするときの思考回路を、今一度見つめてみる。

まず、私の部屋の四方を囲む本棚に、過去の私が購入した本が並べられている。その本の列に先ほど購入したばかりの『三体』(私が持っているのは初版だったので、本当に発売すぐに購入していたようだ)を新たに加える。私はそれで満足する。

翌日になって、『三体』は本棚の一部となっている。つまり、単一の本という存在が希釈され、本棚という場所を形成する要素の1つとなる。すると昨日まで私が向けていた『三体』に対する一種の熱は、その向かう先を失い、本棚全体に発散していく。私は『三体』の背表紙を見て、「また分厚い本を買ってしまった」と思う。私は『三体』を手に取る代わりに、コンパクトで軽く、薄い何らかの文庫本を手に取って、大学へ通学するときにいつも背負っているリュックのなかに放り込む。『三体』はこうして、暫くの暇を与えられ、私の脳内にある「いつか読む本のリスト」の末尾に加わり、当時から大量にあった積読のうちの一冊になる。

私が再び『三体』を手に取り、今度は読もうと決意したきっかけは、2021年の12月に急に訪れた。私はそのとき用事があり、かなりの距離を移動する必要があった(あえて旅行とは云わない。実際、旅行といえるほど楽しいモノではなく、むしろこの用事は私の精神をいくらか消耗させたからである)。移動の時間をどう潰すか、昔の自分なら間違いなくスマホのゲームか、寝るかの二択だったが、今の私には第三の選択肢として読書が加わっていた。私は迷いなく読書を選択し、さっそく選書を始めた。移動時間は、およそ10時間以下である。中編小説では、いくら文章を読むのが遅い私でも、余裕で読み切れてしまうだろう。ならば長編小説一択、それも、長い移動時間の先に待つ難事を忘れさせてくれるような、娯楽小説がふさわしい。そこで白羽の矢が『三体』にたった。なぜ『三体』なのか、他に選択肢がなかったのか、いまとなっては思い出せないが、私の中で『三体』を読むタイミングが、ここで読み始めねばあと数年は読まないだろうと直感するタイミングが訪れたのは確かである。

では、読み始めてからなぜ5ヶ月も経って、ようやく『三体』を読み終えたか。それは『三体』を読み進めるのに難渋していたからではない。単純に、12月の用事が終わり、家に辿り着いたとき、私の中の「次に読み始める本のリスト」に新たな一冊が加わり、代わりに『三体』が外されただけである。『三体』は間違いなく面白いのだが、第二章の中盤あたりで、読書ペースが急速に落ち込んだのである。

それでも完全に読むのを止めたわけではなかったので、他の本を読む合間で少しずつ、数日おき、ときには数週間おきに、一節を読み、読み終われば閉じ、それでもいつでも読むのを再開できるよう、机の上において、一日の大半を『三体』が視界にちらつく環境で過ごした結果、2022年5月8日の深夜、ようやく最後の節を読み終わるこことなった。発売翌日にTLを騒がせていた評判の嵐に偽りがなかったことが、私の中でようやく確かめられた。


本を時間を掛けて地道に読んでいくことの意味について

つい先日、TwitterのTLにて「Z世代は映画を倍速でみる」といった内容の画像が流れてきた。私もZ世代だが、この映画を倍速でみるというのには失笑した。年を取ると一日が早く過ぎ去るように感じられるとよく言われるが、それを自ら早めようというのか。しかし、この話題はなにも映画に限ったことではなく、読書界隈にも、この流れの萌芽があるようだ。例えば「月○○〇冊読了!」などとTwitterのプロフィールに書くのがいい例で、それを達成できずメンタルをやられている読者人を見つけるのはまったく難しくない。本来、読書とは時間のかかる趣味である。長編小説であれば、少なくとも100回以上ページをめくるのにかかる時間、文字の1つ1つに目を通し、文脈からその意味を理解するのにかかる時間、わからない言葉にぶち当たり辞書をあたる時間、欠伸をする時間、飲み物を飲む時間、寝落ちする時間、それらを総合すれば、1日を潰すのはとても簡単な話に思える。

私はそうやって、長い時間を掛けて本を読むことになんら不自由を感じていないし、月に何冊読めようがどうでもいいと思っている。しかしなかにはそうではない人もいる。早く本を読み終えるために、文章を飛ばし飛ばしして、1時間かそこらで本を読む終えるのである。これは私にはまったくわからない文化圏である。

なぜそのような読書法をしてしまうかといえば、それは結局のところ、読みたい本が多すぎるからだろう。それは私も同じである。読みたい本全てを読み終える前に人生が終わってしまう、いやその前に老いにより視力と集中力が低下して、本を読む能力を欠如してしまうだろう。だからこそ、早く、大量に読みたい本を読もうと努力しようとする人がいるのは納得のいく話である。だが私にはむしろ、そのような読み方こそ、本当に読みたい本を満足に読めなくなる原因になる気がする。

私が本を読む理由の一つに、私の心を驚かせたり、幸福感に満たしたりしてくれる、素晴らしい文章に出会うため、というのがある。どんな本にも、一つか二つ、心をくすぐる優れた文章があるものである。そういうのを見つけ出した時、私は読書をする喜びを感じる。

私が文章を読み飛ばし、映画を倍速再生するかの如く、高速で物語を駆け抜けていくような読書法に対し懸念するのは、そのような優れた文章と巡り合う機会を逃すことである。どんな優れた映画も、倍速では、その映画の名シーンや名言、または優れた音楽を満足に味わうことができないだろう。本に対しても同じことが言えるのではないか? どんな優れた本を読み終えても、そこにある文章の1つ1つを、少なくとも目に通していないなら、私にとっては本を読む喜びをみすみす逃すことに他ならない。だって、そうやって読み飛ばしてしまった文章が、私にとって喜びを得られる文章でないと誰が保証できようか。ヒトの記憶力は有限で、どんなに心に刺さった文章もいずれは忘れ去られるだろうが、「一度読んだ後忘れてしまった」ことと「そもそもまだ読んだことがない」ことは、別物である。

と、ここまで『三体』の話から離れ、いろいろと最近読書について思っていることを好き勝手書いてきたが、それで終わるのでは『三体』を最初に紹介した意味がないので、最後に、私が『三体』を読んで発見した、心に刺さった文章を引用しておく。

地球人を虫けら扱いする三体人は、どうやら、ひとつの事実を忘れちまってるらしい。すなわち、虫けらはいままで一度も敗北したことがないって事実をな

劉慈欣『三体』(大森望、光吉さくら、ワン・チャイ[訳]、立原透耶[監修]), p. 430.

私はこの一文が『三体』という壮大な物語のスタートの合図だと思った。『三体』はその内容からして、壮大な物語、という感じではなく、壮大な物語の序章であり、次に続く『三体Ⅱ 黒暗森林』と『三体Ⅲ 死神永生』こそが、『三体』の本編であろうと思う(もちろんまだ読んでいないのでわからないが)。だがいずれにしても、私の本の読み方は変わらない。地道に文章の1つ1つを読んでいくだけである。そして、きっと『三体Ⅱ 黒暗森林』と『三体Ⅲ 死神永生』でも、心に刺さる文章を発見できるだろうと確信できるだけの、物語を先に進ませる文章の力強さと完成度の高さが『三体』にはある。



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