「日本」の英語呼称「Japan」マレー語移入説について考えてみた
オリンピックのような(実況中継放送のある)国際競技会が催されるたび、「どうして日本の英語名は「JAPAN」なのか?」という話題が持ち上がるものらしい。
裏返せば、ふだんは当たり前のように「JAPAN」という英語を「日本」の呼び名のひとつとして受け容れている日本人が、いつもはおねんねしている「日本人」という集団への帰属意識がよび覚まされたときだけ、「なぜ日本語らしくない音の呼び名が使われているのかな?」という「素朴な疑問」がわき上がる、ということになるのだろう。これは「共通の母語を持つ」者同士だからこそ盛り上がる話題、ともいえる。
「母語」というものは、ほとんどの人にとって文字通り「母親の胎内」以来のつき合いで、個人のアイデンティティに直接結びつくものだし、それゆえにてんでんばらばらな方向へ向き勝ちな個人個人の顔を同じ方へ向けさせるのに効くわかりやすいツールだから、厄介なことにしばしば政治利用されてしまう。
その枠からはみ出した少数派は、ことあるごとに二級市民扱いの憂き目をみることが少なくないし、特定の地域では別の母語を話す人々が多数派だったりすると、たとえばスペインのカタルーニャのように、経済などほかの要因もからんで独立機運が持ち上がって、国内ががたがたしっぱなしのケースもある。また、ベルギーのように国の統一があやぶまれて、フラマン語・ワロン語・ドイツ語3地域の連邦制に移行せざるを得なくなったところもある。
渦中にあるウクライナにしても、比較経済体制学会『比較経済研究』誌52巻2号(2015年)に載った☟石郷岡建「ウクライナ危機の背景の東西分裂とその行方」
を読んでみると、東部へいくほど話者が増えるロシア語を公用語とすべきかどうか、という問いに対して肯定的か否定的かの傾向と、親EUと親ロシアどちらの政治体制を求めるかの傾向とを、地域ごとに比較するとおどろくほどそっくりで、隣接する東西どちらのスーパーパワーに与するか、で独立以来国内対立の絶えない歴史をもっている、ということがわかる。
☟十九世紀末〜二十世紀初頭くらいとおもわれる、ヨーロッパ・ロシアの地図。当時は「ウクライナ」というまとまりは描かれておらず、小ロシア・西ロシア・南ロシア・ドン゠コサック地方などに分かれていた。色の塗られていない、南西部のハルィチー(ガリツィア)3州やザカルパッチャにあたる地域は帝政時代にはオーストリア・ハンガリー二重帝国領で、欧州大戦後にソヴィエト連邦が分捕った地域なのだそうだ。
今回の戦争が火を吹く口実となったドンバス地方の2「人民共和国」が「独立」に動いたきっかけは、ロシア政府からの圧力にまけてEUとの連合協定を反故にした親ロシア政権がEU指向派市民の抗議活動で倒れたあと、暫定政府が前大統領の導入したロシア語などの第二公用語法をいきなり廃止してしまったことへの、当地のロシア語話者のはげしい反撥があったという。
戦争は文化の破壊行為以外の何ものでもない、とおもう。しかしほかの要因もいろいろとあるにせよ、「母語」の取り扱いをめぐる反目がこたびの戦争につながった、という側面は否定できないことをおもうと、言語文化というものはなかなか一筋縄ではいかないものだ、とため息が出る。
英語で書かれた書物にみられる最初期の「JAPAN」
それはさておき、いまだに「これだ!」という誰もが納得できるような定説がないからこそ、機会あるごとに「JAPAN」の起原が取りざたされるのだろうとおもわれる。
しかし英語の語源の話をしているはずなのに、具体的な書名が出てくるのはマルコ・ポーロ Marco Polo の『東方見聞録』くらいで、なぜか英語で書かれた書物の初出例はどれなのか? といった話は、日本語サイトにはほとんど出てこないようだ。
☝よーく見ると、いろいろツッコミどころのある日本地図(笑)。
王室御用達の地図製作者だったジョン・ジョージ・バーソロミュー John George Bartholomew の「エディンバラ地學硏󠄀究所 Edinburgh Geographical Institute」製地図帳。気軽に持ち歩ける判型の上、全図多色刷りなのに安い! というので人気があったらしい。
☝WorldCatサイトにも
とあるように、奥附がないので刊年がわからない、という意味では困った本なのだが、☟明治三十九年(1906年)発行の『慶應義塾圖書館洋書目錄』 p. 124 「6.GEOGRAPHY AND TRAVELS.」3番目にこの新訂版(NEW REVISED EDITION)が載っている
のと、1904年刊の「The Publishers' Circular and Booksellers' Records」誌 No. 1964 Vol. 80
に新訂版ではない方の広告として
というのが載っていることから、まぁそんなところだろう、と納得がいく。
閑話休題、手はじめに英語の語源情報が豊富な辞書としてあげられる『The Oxford English Dictionary』にはどう書かれているか知りたかったのだが、インターネット公開されている最新版の「Japan」項のところは、どうやら有料ヴァージョンしかないようだ。
ただし、慶應義塾大学文学部で教鞭を執っておられる堀田隆一による「hellog~英語史ブログ」の2014年のご記事「#1774. Japan の語源[etymology]」
で、版数はわからないがOEDからの引用をまじえて、次のように説明されていた。
Oxford University Press の公式サイト「OED」には、☟「From anime to zen: Japanese words in the OED」というブログ記事が載っている
のだが、ここに日本語からの最古の借用語「Bonze(坊主)」「Kuge(公家)」の出典という形で、☝堀田のおっしゃる「英語での初出」の文献のことがもう少し具体的に書かれている。
つまり、これは『The History of Trauayle in the West and East Indies(西及び東インド旅行史)』という本の中に載っているリチャード・ウィリス(と読むんじゃないかな)の「Of the Ilande Giapan, and other litle Iſles in the Eaſt Ocean(東海に於けるジャパン島、並びにその他の小さな島々について)」という一章で、正確には「初出」というよりも、「最も早い例のひとつとみられている」ということのようだ。ちなみに 「Trauayle」は「Travel」の古い形。
これの実物が「INTERNET ARCHIVE」サイトに公開されているので、それをみてみることにしよう。
現代とは綴りが結構異なる「中英語」の上、書体も Black Letter のため、読み間違えるといけないから、ミシガン大学で運営しておられる「Early English Books Online」サイトに載っている同じ箇所のテクスト書き出しデータを利用して、冒頭の部分を引用してみる。
ここに、「Giapan」が「written otherwyse Iapon and Iapan(また「Iapon」「Iapan」とも書く)」と書いてある。
古い英語では「J」という字は「I」の異体字で、音による使い分けをしていなかった(ついでにいうと、☝の「vnto vs」のように「u」を「v」と書いたし、☝の扉にみられる「VVest」「VVith」のように、「W」は元々「VV」と綴っていた。この字を「ダブル・ユー」と呼ぶのはそのためだが、ただし8行目最初の「South」のように、綴りによっては「u」も出てくるからややこしいww なおこの4文字については、十五世紀ごろから次第に今のような使い分け方に変わっていったというから、この本はどちらかというと古風な綴り方をしている、ということになろうか)。
これが「Japan」という語の初出(に限りなく近い用例)でもある、といってよいとおもう。
☟英語版 Wikipedia の「Names of Japan」項には、「History」章に☝の記事についての言及がある。
しかし☝この記事も含め、 Wylles の「Of the Ilande Giapan, and other litle Isles in the East Ocean.」に「「Giapan」は「Iapon(=Japon)」「Iapan(=Japan)」ともいう」と書いてあることについては、なぜかどこでもあんまり指摘されていないようなのが不思議。
「ユールのマレー語経由説」を否定したとされる岡本良知の説とは?
ところで、☝堀田が OED の「Japan」項にある語源解説について触れておられる「英語 Japan はマレー語 Japung から借用されたもの」というのが気になる。引用箇所の終いのところに、
となっていることからすると、何かほかの文献からの引用文とおもわれるからだ。
日本語版 Wikipedia 「ジャパン」項の「「ジパング」と「ジャパン」の関係」章には、次のように書いてある。
OED に書いてあった「(Yule)」が「ヘンリー・ユール Henry Yule」という人物を指すことはわかったが、肝腎の「ユール説」がどんな内容なのかは、これではなんだかよくわからないし、いったい何に書いてあるのかもはっきりしない。
「ユールのマレー語経由説については否定している」とされる岡本良知「Japanといふ語の由来」という論文を読めばわかりそう……ではあるが、まだ著作権保護が切れていないためインターネット公開はされていない。初出の雑誌から転載されているという『キリシタンの時代――その文化と交易』という本は結構いいお値段だし、わざわざ買い求めるほどには図版研では利用場面はないとおもわれる。都内の公立図書館から借り出す、という手はもちろんあるが、図版研が note でやっている「おうち研Q」は「架蔵資料+インターネット上の公開情報だけでどこまで調べモノができるか」という遊びだから、そういうわけにもいかない。
ということでその論文は諦めることにして、まずは岡本のほかの論文のうちに、似たようなテーマのものが公開されていないか探してみた。結果、慶應義塾大學文學部の三田史學會紀要『史學』第十二卷第二號(昭和八年)に、「ジパングよりジャパンへの推移」という記事があることがわかった。
その冒頭には、次のように書かれている。
そして p. 3 には、マレー語経由説を否定しておられるとおもわれる箇所もあった。
一方で、「ジャパンに類するもの」がはじめて出てくるポルトガル人の史書についても p. 4 に書かれている。
ここで邦訳引用されている「Decada da Asia」という史書は、☟「Da Ásia de João de Barros e de Diogo do Couto」を指すとおもわれる。
この本は、「Biblioteca Nacional de Portugal」サイトで全ページ公開されている。
☝各巻のところをクリックすると、いきなり何百ページもあるPDFをダウンロードしようとしはじめるので注意ww
試しに「第九卷」「第十卷」とおもわれる「Década IX - Diogo do Couto」 +「Década X - Parte I - Diogo do Couto」をDLして、このへんかな〜、とおもわれるところをざっと眺めてみたものの、ポルトガル語の文章を読めるわけではないこともあって、どこが岡本が引用なさった箇所なのかは結局わからなかった。
ただ、「Década X」の巻頭目録を追っていたらたまたま「Japão」という語が目に留まったので、その章の最初と、それから「Japão」「Japões」という語が出てくるページをキャプチャして載せておこう。PDFのページとしては p. 515+524 に当たる。
☝キャプションをうっかりクリックすると、570ページもあるPDFが……以下同文ww
なお「Japão」は単数形、「Japões」は複数形らしい。音韻は前者の方が「Japan」に近いはずだが、なぜ岡本が複数形の方しか言及されていないのかはよくわからない。
さて、論文の終いのところには、地図上の日本につけられた呼称の変遷についてまとめられているのだが、 p. 8 に「Giapan」が出てくるので p. 7 後半以降をざっと引用しておこう。
ジャコモ・ガスタルディ Giacomo Gastaldi による1561年の東アジア圖というのは☟に公開されているものだろう。
右上の方、「MARE DE MANGI」と書かれている脇に見切れている島が日本、というか「Cangoſima(カンゴシマ)」という街が描かれているところからすると(向きがおかしいが)九州の南側を描いているようだ。
そしてアブラハム・オルテリウス Abraham Ostelius の1570年のアジア圖が☟これ。
大陸の北の方、東シベリアとかが想像上の海になってしまっているので変な感じだが、大きい方の島が九州、「Tonsa」と書かれている右側の小さいのが四国らしい。
とりあえず「岡本説」がどのようなものだったのか、これでだいたいわかった気がする。
当初は「ジパング」から変化して「ジャパン」になった、というお考えだったものが、その後のご研究の結果「そうではない」という方へお変わりになったようだ。「他國語」から英語へは具体的にどのように伝わったのか、については、☝ウィリスの記事についてのご言及がなさそうなことからすると、「オルテリウスの地図以降「Iapan」「Japan」と普通に書かれるようになったのだから自明」として追求されなかったのかもしれない。そして、マレー語経由説に関しての見方としてはおそらく、☝戦前の説も戦後の説もそれほど方向性は違わないのではないだろうか。
次回は「ユール説」の方を探っていく。
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