「元旦の午後」は間違った日本語なのか? (承前の4)
前回、現代華語の出版物やウェブサイトをいくつかみていく中で、次に挙げるような漢籍における「元旦」の用例が出てきた。
『晉書』:「顓帝以孟夏正月為元,其實正朔元旦之春。」
南朝梁・蕭子雲「介雅」:「四氣新元旦,萬壽初今朝。趨拜齊袞玉,鍾石變簫韶。日升等皇運,洪基邈且遙。」
宋・吳自牧『夢粱錄』卷一「正月」條:「正月朔日,謂之元旦,俗呼為新年。一歲節序,此為之首。」
宋・陸遊父子(參訂)『嘉泰會稽志』:「元旦男女夙興,家主設酒果以奠。」
ここに掲げた5つの用例のうち、最初の『晉書』については前回の記事の終いのところで「中國哲學書電子化計劃」サイトに公開されているテクストデータと、それに対応する影印によりチェックしてみたところでは、それらしき一文はあったもののこまごま違いがあって、しかも「元旦」は含まれていない、ということが確認できた。
この「引用」をお持ち出しになったのはどこが最初か、というのをさらに探してみたところ、どうやら☟2007年に公がお出しになった記事が大元らしいことが判明……。
そうであれば、それなりの根拠をもって書いておられるのだろう。だから、あちらでもこちらでも安心してコピペなさったものとおもわれる。
今のところいえるのは「唐代に編まれた『晉書』の「中國哲學書電子化計劃」サイト上で公開されているデータでは、似たようなフレーズはたしかに出てくるけれども、全く同じ文言が載っている箇所は確認できないことが確認できた」ということだけ。というわけで、ひとつ目は「わからないことがわかった」という結論に……。
さて、気を取り直してほかの3つを、漢籍に探してみることにしよう。
『夢粱錄』の「元旦」
まずは、「卷一」の「正月」のところに載っている、と書いてある『夢粱錄』からみてみよう。巻号が書いていない、とか「介雅」のように収録されている書名がわからない、とかの用例は、きっと素直には見つからない展開が経験則から予想されちゃうww ので、すんなり出てきそうなヤツから。
この本自体は十三世紀に成立した
そうだが、清朝期に刊行された「知不足齋叢書」30集
のうちの第二十八集に収められていて、「中國哲學書電子化計劃」に含まれているのもこのヴァージョン。
で、引用の箇所は卷一の冒頭部分に出てくる。
よかった〜、これはすんなりそのとおりだった☆
咸淳十年(1274年)の南宋では、「正月朔日」を「元旦」と呼び、またその俗称として「新年」ともいったが、この日が1年のはじまりだった、というのが確認できた。
なお前回
で取り上げた「今天頭條」サイト「一個蟲蟲的旅行」の記事「元旦與春節的歷史溯源」
一個蟲蟲的旅行 - 元旦與春節的歷史溯源 - 今天頭條https://twgreatdaily.com/513968132_611440-sh.html
をみると、下の方の「「春節」:因立春而產生的節日」のところに「今日では一緒くたになっている「歳」と「年」とは、古代では明確に意味が違っていた」という説明がある。
これによれば、「1歳」は冬至から次の冬至まで、または立春から次の立春までのひとめぐりのこと、つまり太陽の昇ってくる位置が再び元に戻るまでの期間365日のことを指していた。そして「1年」の方は、太陰暦の正月1日から次の正月1日までの期間を指していたが、こちらはときどき閏月が挟まって13ヶ月になるため、「1年」は354日のこともあれば384日のこともあった。「春節」は「歳」、「元旦」は「年」の始まりの日をいったが、こうした太陰太陽暦を用いていた古代人は「歳節」つまり「春節」の方を、「年節」つまり「元旦」よりも重くみる傾向があったようだ。
ここでちょっと「ありゃ?」とおもうことがあるのだけれども、話が漢籍から逸れていっちゃうので、それはまた後ほど取り上げるつもり。
「介雅」の「元旦」
次は「介雅」という題名のついた詩。華北と江南とにわかれて王国の興亡が繰り返された五〜六世紀の、いわゆる「南北朝時代」
のうち、六世紀前半に建康に都を置いた梁王朝
の人の作品らしい。
引用している記事には何に載っているのか書いていないので調べてみると、十八世紀後期に清朝第6代乾隆帝の命によって編まれた、総数7万巻を超えるという厖大な欽定叢書『四庫全書』
のなかの『古詩紀』卷一百五に「梁三朝雅樂歌六首 蕭子雲」というのが含まれていることがわかった。
これの「俊雅三曲」「𦙍雅(「𦙍」は「胤」の最後の一画がない字)」「寅雅」につづいて、「介雅三曲」が載っていた。
その3曲目に、あったあった☆
四氣新元旦萬夀初今朝趨拜齊袞玉鍾石變簫韶日升等皇運洪基邈日遙
これも同じのがちゃんと載っていた。記事によっては、「四季新元旦」などと書いてあるものも見かけたが、これは間違いなくうっかりさん。
たしかに春夏秋冬にはちがいないけれども、その季節の移りかわりにともなって植物がみせる「生(はゆ)」「長(そだつ)」「收(おさむ)」「藏(かくる)」という変化に代表される大自然の動きをうながす四時の「氣」、つまり「溫熱凉寒」のひと巡りのことをここではいっている。
なお作者の蕭子雲は齊朝の皇族出身で、その後王朝が梁に換わってからは官僚として仕えていたようだが、叛乱が起きて国内が大混乱に陥った際に非業の最期を遂げたようだ。
季節が順当にめぐって、また春がやってきたことをことほぐ詩なのだから、この六世紀の「元旦」は「朝」という意味にとれないこともないけれども、ここは素直に「新年最初の日」と考えてよいのではないかしらん。
『嘉泰會稽志』の「元旦」
残るひとつ、『嘉泰會稽志』という本は南宋の地方誌で、嘉泰元年(1201年)に成立した20巻本という。施宿らが編んだものに、詩人の陸游父子が修訂を加えたものだそうだ。
さて、これに引用の文言が出てくるか、「中國哲學書電子化計劃」で検索してみたのだが……
引っ掛からない。ありゃ。
こんな大冊を人力で文字起こししておられるわけがないからOCRのはずだが、だとすると字の形や版面の状態などによっては機械が誤読して、本来とは違う文字になってしまっているおそれがある。
そこで「元旦」「男女」「夙興」「家主」「酒果」などと、切り分けた単語でそれぞれ探してみたのだが、やはりそれらしいのが全く出てこない。
さてはこの本じゃなくて、何か別の資料に載っているのでは……と考えて、引用文を手がかりに探してみたところ、「壹讀」というサイトの記事「【春節7天樂】正月初一,開門見喜!」
【春節7天樂】正月初一,開門見喜! - 壹讀
https://read01.com/KDLAM0R.html
の中に、
と、続きの部分まで引用されているのが見つかった。しかし、これを含めてみても、相変わらず『嘉泰會稽志』では一向にヒットしてくれない。
そこで再び「中國哲學書電子化計劃」サイトに戻り、「漢代之後」資料群に対してキーワード検索をかけてみたところ、『四庫全書』のうちの『浙江通志』卷九十九「新昌縣」(この本の字形や版面はOCRが苦手としている部類らしくてだいぶ誤字がひどく、標題も誤って「新呂縣」になっている)
のところに、次のような一文が載っているのを発見。
な〜んだ、『嘉泰會稽志』そのものじゃなくて、他の地誌書にある要約文なんじゃないの。そりゃ〜見つかるわけがない。
で、これが「新昌縣」の記事だから、ということで試しに『嘉泰會稽志』の方のキーワード検索をしてみたのだが……
引っ掛かってきた30件それぞれの該当箇所を一応全部眺めてみたものの、『浙江通志』にあった記事に相当するとおもわれる文章は(単に見方がわるいだけなのかもしれないけれども)見つからなかった。徒労感満点……。
それはさておき、十三世紀初頭前後の南宋での「元旦」は、家のあるじによるお供えとか年始回りのお振舞いとかの新年行事はたしかに朝からはじめるのだろうから、「元日の朝」とも「正月1日」とも解釈はできそう、といえなくはない。
ただ、前々回記事「承前の3」で取り上げた『婦人寳典』鼇頭記事の、主婦のお年始客応対シミュレーションシナリオをおもい起こすと、お供えはともかくとして、お客さまへの酒食のおもてなしはお午以降もあるのでは、という可能性が、時代も文化も異なるとはいえ考えられなくはないから、「朝」と限定してしまうのにはちょっと迷う気持ちも出てしまう。
「元旦」用例を「中國哲學書電子化計劃」でひろってみる
さて、「元旦」の由来を解説したインターネット上の記事に引用されている文言を漢籍にあたってみて、六世紀梁朝期の「介雅」が中では一番古いのかな〜、というのはみえてきたが、しかしこれだけ「原典調べないで記事書いているでしょ」感を見せつけられちゃうと、とても「これが初出らしい」とかはいえない。
そこで、「中國哲學書電子化計劃」サイト全体対象で「元旦」をキーワード検索してみることにしよう。ただしもちろん、先にも書いたようにOCRが読み間違いをしている可能性はあるから、あくまで「キーワードで拾える範囲」という前提で。
古代文献にあたる「先秦兩漢」は該当なし。
そして「漢代之後」は19件引っ掛かった。
といっても、より細かくいえば「魏晉南北朝」「隋唐」もやはり該当なしで、「宋明」のところでようやく、明朝期のよくしられた作品群があらわれるのだが、だからといってそれ以前の文献には「元旦」という語が使われていなかった、ということはもちろん意味しない。
清代の『知不足齋叢書』や『四庫全書』のうちに南宋の『夢粱錄』や梁の「介雅」があるように、オリジナルはとうの昔に滅失散逸してしまい、その内容が一部なりとも後の文献に収録されたり引用されたりしているからこそ存在が知られている、というケースは非常に多いとおもわれる。
だから、真の意味での「初出」を知るすべがもはや失われているのは、いたし方のないことだろう。むしろ、度重なる天災や人災を乗り越えて、1000年以上も昔の書物に何が書いてあったのかがよくぞ今日まで伝わったものよ、と感歎してしまう。
それではリストの順に、「いつ書かれたものか」を特定しつつ、それぞれの「元旦」をささっと眺めていくことにしよう。
明代に編まれた『三國演義』。影印版はないので、句読点を追加したとおもわれるテクストデータをそのまま引用する。
第二十三回「禰正平裸衣罵賊 吉太醫下毒遭刑」。
『後漢書董卓傳』などにある、後漢最後の皇帝獻帝が曹操の専横を憎み、彼の治療に当たっている侍医をまき込んでの暗殺を董承に命じる場面
のようだが、「朝賀」は朝に百官が参賀する行事ゆえにその名があるのだから、この「元旦」は「元日」の意味とおもわれる。
第五十五回「玄德智激孫夫人 孔明二氣周公瑾」。
奪われた荊州を劉備から取り戻したいと考えていた孫權が、周瑜の発案した策略により劉備を吳の館に引き留めおいてその隙に攻め入ろうとしたが、諸葛亮の策を得た趙雲の手配により劉備は孫夫人ともども首尾よく脱出した、という場面らしい。
「國太」というのは孫夫人の生母という設定だが、実在の人ではないそうだ……という話の筋はともかく、劉備が趙雲に「正旦日,你先引軍士出城」と脱出計画を指示していることからして、これは「元日の朝」というよりは「元日」と捉えた方がよさそうな気がする。
次は同じ明代ながらもう少し後に成立したらしい『金瓶梅』。
この作品は遺憾ながら、図版研には読んだ者がいなくて筋書きが全くわからないため、該当箇所の引用だけにとどめておく。
第七十一回「李瓶兒何家托夢 提刑官引奏朝儀」。
這皇帝生得堯眉舜目,禹背湯肩,才俊過人,口工詩韻,善寫墨君竹,能揮薛稷書,通三教之書,曉九流之典。……良久,聖旨下來:「賢卿獻頌,益見忠誠,朕心嘉悅。詔改明年為重和元年,正月元旦受定命寶,肄赦覃賞有差。」蔡大師承旨下來。殿頭官口傳聖旨:「有事出班早奏,無事捲簾退朝。」言未畢,見一人出離班部,倒笏躬身,緋袍象簡,玉帶金魚,跪在金階,口稱:「光祿大夫掌金吾衛事太尉太保兼太子太保臣朱勔,引天下提刑官員章隆等二十六員,例該考察,已更改補、繳換札付,合當引奏。未敢擅便,請旨定奪。」於是二十六員提刑官都跪在後面。……
第七十八回「林太太鴛幃再戰 如意兒莖露獨嘗」。
第九十七回「假弟妹暗續鸞膠 真夫婦明諧花燭」。
これも同じころに成立した『封神演義』。
第二回「冀州侯蘇護反商」。
紂王の寵臣のひとり費仲が、権力を嵩に諸侯へ賄賂を求めたのに対し、冀州侯の蘇護がひとり応じなかったためこれに腹を立て、報復としてその娘妲己を無理に王へ献上させようと画策する場面。これも朝賀のことだから、☝『三國演義』の董承のエピソードに書いたのと同じ。
第三十回「周紀激反武成王」。
周の鎭國武成王・黃飛虎の妻・賈氏と妹・黃貴妃が妲己の謀略により自死に追い込まれ、怒りのあまり叛逆を企てる場面。これも朝賀の話だし、「今元旦」「元旦日」という表現が出てくることからしても、やはり「朝」よりも「日」と解釈してよいのでは。
第三十二回「黃天化潼關會父」。
黃飛虎が商から脱出する途中、潼關の守将・陳桐に命を奪われたが、崑崙十二大師のひとり淸虚道德眞君のもとで仙術を学んでいた息子の黃天化によって復活する場面。飛彪は飛虎の弟。母が朝賀の際に妲己に陥れられたことについて陳べているところだから、これも☝と同じ。
第三十四回「飛虎歸周見子牙」。
汜水關の守将・余化に捕らえられた黃飛虎が、崑崙十二大師のひとり太乙眞人の弟子・李哪吒に救い出されて周に帰還し、姜子牙と再会する場面。これも☝ひとつ前と同じ話題。
第三十五回「晁田兵探西岐事」。
西岐攻撃の先頭に立つ商の太師・聞仲が、裏切り者の黃飛虎が守将を次々にたおして西岐へ逃げたという報を続々受けて怒りまくっている場面。この「元旦」の「災」も、☝と同じ話だとおもう。
今度はだいぶ時代を遡って、十世紀北宋の『太平御覽』。
『四庫全書』子部にあたる、卷第三十三「時序部十八」の「臘」に「元旦」が出てくる。
この「正旦」「元旦」も、「朝」というよりは「日」を指しているのではないだろうか。
ちなみに、静嘉堂文庫ご所蔵の宋刊本影印版『四部叢刊三編』の同じ箇所
では「元旦」ではなく「元正」になっている。ということは、「元旦」となったのは宋代ではなく清代、ということになりそうにおもえる。
清朝康煕帝の命により編まれた『全唐詩』
卷七十六に収められている七〜八世紀唐朝の徐彥伯
の詩題「同韋舍人元旦早朝」に含まれている。
康煕四十二年御定189冊本
で該当箇所の影印を表示してみる。
御定全唐詩卷七十一~卷七十六 121/126
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=62467&page=121
「朝」の意味とすると「早朝」とかぶってしまうので、この「元旦」は「日」の意だろう。
『康煕字典』の「目部」の「八」、「睛」字のところに『拾遺記』の引用として
とある。『摛藻堂四庫全書薈要』子部に載っている「拾遺記」冒頭「提要」
によれば晉代の本のようだ。「雙睛」という語を探してみると、卷一の十丁裏に
と書いてあった。な〜んだ、「元旦」じゃないのか……。
『古今逸史』版でも、やはり同様に「元日」だった。
つまり、これは『康煕字典』を編む際に「元日」から「元旦」に変わった、ということではないかとおもわれる。なぜだかはわからないけれども……。
同じく「辛部」にある「辛」字、『風土記』からの引用として「元旦」が出てくる。
ただ「風土記」っていわれたって、たくさんあってどれだかわから〜ん、とおもったのだが、ここで取り上げられている「五辛盤」という正月料理について書かれた記事「五辛盤」が「百科知識」というサイトに載っていた。
晉代の、とあるので「魏晉南北朝」に絞って「風土記」を検索してみると、『水經注』卷四「河水」のところに「周處《風土記》曰……」とあるのが見つかった。つまりこれは、周處
が編んだ二世紀の『陽羨風土記』を指していることがわかる。
『粟香室叢書』版をみてみると、
これもオリジナルは「元日」のようだ。
というわけで、「元旦」が載っているのが確認できたものをならべてみると、
梁・「梁三朝雅樂歌六首」のうち「介雅」……六世紀(ただし十八世紀の版本)
唐・「同韋舍人元旦早朝」……七〜八世紀(ただし十八世紀の版本)
宋・『夢粱錄』……十三世紀(ただし十八世紀の版本)
明・『三國演義』……十四世紀(ただし原本印影未確認)
明・『封神演義』……十六世紀(ただし原本印影未確認)
明・『金瓶梅』……十六世紀(ただし原本印影未確認)
淸・『浙江通志』……十八世紀
淸・『康煕字典』……十八世紀
……という結果に。やはり「介雅」が早そうだ……が、結局十八世紀よりも前の漢籍については、オリジナルに本当にそう書かれているのかは確認できなかった。
ところで、中央研究院・歷史語言研究所「漢籍電子文獻資料庫」サイト
という、また別の漢籍資料公開データベースで「元旦」を拾ってみると、今回取り上げていない資料が引っ掛かる。こちらの影印版は有料サーヴィスなので、テクストデータを元に「中國哲學書電子化計劃」サイトで探してみると……ありゃりゃ、たしかに「元旦」って書いてあるよ。むむ〜。
今回みた限りでは、明らかに「夜明け」とか「朝」とかの意味での用例はなかったようにおもえる(『金瓶梅』はわからないけれども)のだが、もしかするとまだみていない資料にそうした使い方の例があるかもしれない……。
図版研に漢籍などないので、にぎやかしに古い(ぼろぼろの)節用集の写真でも。
鼇頭の図は、全然関係のない『二十四孝』の絵らしいけれども、まぁ雰囲気だけは今回のテーマに合いそうだしww
次回に(まだ)続く。
#名前の由来
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