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「元旦の午後」は間違った日本語なのか? (承前の4)

前回、現代華語の出版物やウェブサイトをいくつかみていく中で、次に挙げるような漢籍における「元旦」の用例が出てきた。

  • 晉書』:「顓帝以孟夏正月為元,其實正朔元旦之春。

  • 南朝梁・蕭子雲介雅」:「四氣新元旦,萬壽初今朝。趨拜齊袞玉,鍾石變簫韶。日升等皇運,洪基邈且遙。」

  • 宋・吳自牧『夢粱錄』卷一「正月」條:「正月朔日,謂之元旦,俗呼為新年。一歲節序,此為之首。」

  • 宋・陸遊父子(參訂)『嘉泰會稽志』:「元旦男女夙興,家主設酒果以奠。」

ここに掲げた5つの用例のうち、最初の『晉書』については前回の記事の終いのところで「中國哲學書電子化計劃」サイトに公開されているテクストデータと、それに対応する影印によりチェックしてみたところでは、それらしき一文はあったもののこまごま違いがあって、しかも「元旦」は含まれていない、ということが確認できた。

この「引用」をお持ち出しになったのはどこが最初か、というのをさらに探してみたところ、どうやら☟2007年に公がお出しになった記事が大元らしいことが判明……。

そうであれば、それなりの根拠をもって書いておられるのだろう。だから、あちらでもこちらでも安心してコピペなさったものとおもわれる。

今のところいえるのは「唐代に編まれた『晉書』の中國哲學書電子化計劃サイト上で公開されているデータでは、似たようなフレーズはたしかに出てくるけれども、全く同じ文言が載っている箇所は確認できないことが確認できた」ということだけ。というわけで、ひとつ目はわからないことがわかった」という結論に……。

さて、気を取り直してほかの3つを、漢籍に探してみることにしよう。

『夢粱錄』の「元旦」

まずは、「卷一」の「正月」のところに載っている、と書いてある『夢粱錄』からみてみよう。巻号が書いていない、とか「介雅」のように収録されている書名がわからない、とかの用例は、きっと素直には見つからない展開が経験則から予想されちゃうww ので、すんなり出てきそうなヤツから。

この本自体は十三世紀に成立した

そうだが、清朝期に刊行された「知不足齋叢書」30集

のうちの第二十八集に収められていて、「中國哲學書電子化計劃」に含まれているのもこのヴァージョン。

で、引用の箇所は卷一の冒頭部分に出てくる。

正月
正月朔日謂之元旦俗呼爲新年一歲節序此爲之首官放公私僦屋錢三日士夫皆交相賀細民男女亦皆鮮衣往來拜節街坊以食物動使冠梳領抹緞匹花朶玩具等物沿門歌呌關撲不論貧富遊玩琳宮梵宇竟日不絕家家飲宴笑語諠譁此杭城風俗疇昔侈靡之習至今不改也(引用者註:テクストデータは印影に合わせて修正)

よかった〜、これはすんなりそのとおりだった☆

咸淳十年(1274年)の南宋では、「正月朔日」を「元旦」と呼び、またその俗称として「新年」ともいったが、この日が1年のはじまりだった、というのが確認できた

なお前回

で取り上げた「今天頭條」サイト「一個蟲蟲的旅行」の記事「元旦與春節的歷史溯源

一個蟲蟲的旅行 - 元旦與春節的歷史溯源 - 今天頭條https://twgreatdaily.com/513968132_611440-sh.html

をみると、下の方の「「春節」:因立春而產生的節日」のところに「今日では一緒くたになっている「歳」と「年」とは、古代では明確に意味が違っていた」という説明がある。

今天意思差不多的「」和「」,在古代是有嚴格區別的從上一個冬至到下一個冬至,或從上一個立春到下一個立春共365日,稱為「一歲」;從上一個正月初一到下一個正月初一平年354日閏年384日,謂之「一年」。 因為立春為一年中的第一個節氣,故古人視立春為「歲始」。這時的春節也因此被稱為「歲節」,而以一月為一年中的第一個月,在一月一日過年的元旦,則被稱為「年節」。 古人過「歲節」,往往比過「年節」的聲勢還大

これによれば、「1」は冬至から次の冬至まで、または立春から次の立春までのひとめぐりのこと、つまり太陽の昇ってくる位置が再び元に戻るまでの期間365日のことを指していた。そして「1」の方は、太陰暦の正月1日から次の正月1日までの期間を指していたが、こちらはときどき閏月が挟まって13ヶ月になるため、「1」は354日のこともあれば384日のこともあった。「春節」は「」、「元旦」は「」の始まりの日をいったが、こうした太陰太陽暦を用いていた古代人は「節」つまり「春節」の方を、「節」つまり「元旦」よりも重くみる傾向があったようだ。

ここでちょっと「ありゃ?」とおもうことがあるのだけれども、話が漢籍から逸れていっちゃうので、それはまた後ほど取り上げるつもり。

「介雅」の「元旦」

次は「介雅」という題名のついた詩。華北と江南とにわかれて王国の興亡が繰り返された五〜六世紀の、いわゆる「南北朝時代」

のうち、六世紀前半に建康に都を置いた梁王朝

の人の作品らしい。

引用している記事には何に載っているのか書いていないので調べてみると、十八世紀後期に清朝第6代乾隆帝の命によって編まれた、総数7万巻を超えるという厖大な欽定叢書『四庫全書

のなかの『古詩紀』卷一百五に「梁三朝雅樂歌六首 蕭子雲」というのが含まれていることがわかった。

これの「俊雅三曲」「𦙍雅(「𦙍」は「胤」の最後の一画がない字)」「寅雅」につづいて、「介雅三曲」が載っていた。

その3曲目に、あったあった☆

四氣新元旦萬夀初今朝趨拜齊袞玉鍾石變簫韶日升等皇運洪基邈日遙

これも同じのがちゃんと載っていた。記事によっては、「四季新元旦」などと書いてあるものも見かけたが、これは間違いなくうっかりさん。

たしかに春夏秋冬にはちがいないけれども、その季節の移りかわりにともなって植物がみせる「(はゆ)」「(そだつ)」「(おさむ)」「(かくる)」という変化に代表される大自然の動きをうながす四時の「氣」、つまり「溫熱凉寒」のひと巡りのことをここではいっている。

なお作者の蕭子雲は齊朝の皇族出身で、その後王朝が梁に換わってからは官僚として仕えていたようだが、叛乱が起きて国内が大混乱に陥った際に非業の最期を遂げたようだ。

季節が順当にめぐって、また春がやってきたことをことほぐ詩なのだから、この六世紀の元旦」は「朝」という意味にとれないこともないけれども、ここは素直に「新年最初の日」と考えてよいのではないかしらん。

『嘉泰會稽志』の「元旦」

残るひとつ、『嘉泰會稽志』という本は南宋の地方誌で、嘉泰元年(1201年)に成立した20巻本という。施宿らが編んだものに、詩人の陸游父子が修訂を加えたものだそうだ。

さて、これに引用の文言が出てくるか、「中國哲學書電子化計劃」で検索してみたのだが……

引っ掛からない。ありゃ。

こんな大冊を人力で文字起こししておられるわけがないからOCRのはずだが、だとすると字の形や版面の状態などによっては機械が誤読して、本来とは違う文字になってしまっているおそれがある。

そこで「元旦」「男女」「夙興」「家主」「酒果」などと、切り分けた単語でそれぞれ探してみたのだが、やはりそれらしいのが全く出てこない

さてはこの本じゃなくて、何か別の資料に載っているのでは……と考えて、引用文を手がかりに探してみたところ、「壹讀」というサイトの記事「【春節7天樂】正月初一,開門見喜!

【春節7天樂】正月初一,開門見喜! - 壹讀
https://read01.com/KDLAM0R.html

の中に、

拜過長輩和本家祖先,關係要好的街坊鄰居要互相登門拜訪,一起追憶如煙往事,共同憧憬即將到來的好日子。街坊鄰居間的這種串門式拜年,主家一般不招待。而在過去,親朋拜年,主家必須設宴款待,而且酒肉異常豐盛。如《嘉泰會稽志》記載: 「元旦男女夙興,家主設酒果以奠,男女序拜,竣乃盛服,詣親屬賀,設酒食相款,日歲假,凡五日而畢。」

と、続きの部分まで引用されているのが見つかった。しかし、これを含めてみても、相変わらず『嘉泰會稽志』では一向にヒットしてくれない。

そこで再び「中國哲學書電子化計劃」サイトに戻り、「漢代之後」資料群に対してキーワード検索をかけてみたところ、『四庫全書』のうちの『浙江通志』卷九十九「新昌縣」(この本の字形や版面はOCRが苦手としている部類らしくてだいぶ誤字がひどく、標題も誤って「新呂縣」になっている)

のところに、次のような一文が載っているのを発見。

墓祭
嘉泰會稽志元旦男女夙興家主設酒果以奠男女序拜竣乃盛服詣親屬賀設酒食相款曰歲假凡五日乃畢(引用者註:テクストデータは印影に合わせて修正)

な〜んだ、『嘉泰會稽志』そのものじゃなくて、他の地誌書にある要約文なんじゃないの。そりゃ〜見つかるわけがない。

で、これが「新昌縣」の記事だから、ということで試しに『嘉泰會稽志』の方のキーワード検索をしてみたのだが……

引っ掛かってきた30件それぞれの該当箇所を一応全部眺めてみたものの、『浙江通志にあった記事に相当するとおもわれる文章は(単に見方がわるいだけなのかもしれないけれども)見つからなかった。徒労感満点……。

それはさておき、十三世紀初頭前後の南宋での「元旦」は、家のあるじによるお供えとか年始回りのお振舞いとかの新年行事はたしかに朝からはじめるのだろうから、「元日の朝」とも「正月1日」とも解釈はできそう、といえなくはない。

ただ、前々回記事「承前の3」で取り上げた『婦人寳典』鼇頭記事の、主婦のお年始客応対シミュレーションシナリオをおもい起こすと、お供えはともかくとして、お客さまへの酒食のおもてなしはおひる以降もあるのでは、という可能性が、時代も文化も異なるとはいえ考えられなくはないから、「朝」と限定してしまうのにはちょっと迷う気持ちも出てしまう。

「元旦」用例を「中國哲學書電子化計劃」でひろってみる

さて、「元旦」の由来を解説したインターネット上の記事に引用されている文言を漢籍にあたってみて、六世紀梁朝期の「介雅」が中では一番古いのかな〜、というのはみえてきたが、しかしこれだけ「原典調べないで記事書いているでしょ」感を見せつけられちゃうと、とても「これが初出らしい」とかはいえない。

そこで、「中國哲學書電子化計劃」サイト全体対象で「元旦」をキーワード検索してみることにしよう。ただしもちろん、先にも書いたようにOCRが読み間違いをしている可能性はあるから、あくまで「キーワードで拾える範囲」という前提で。

古代文献にあたる「先秦兩漢」は該当なし。

そして「漢代之後」は19件引っ掛かった。

といっても、より細かくいえば「魏晉南北朝」「隋唐」もやはり該当なしで、「宋明」のところでようやく、明朝期のよくしられた作品群があらわれるのだが、だからといってそれ以前の文献には「元旦」という語が使われていなかった、ということはもちろん意味しない。

清代の『知不足齋叢書』や『四庫全書』のうちに南宋の『夢粱錄』や梁の「介雅」があるように、オリジナルはとうの昔に滅失散逸してしまい、その内容が一部なりとも後の文献に収録されたり引用されたりしているからこそ存在が知られている、というケースは非常に多いとおもわれる。

だから、真の意味での「初出」を知るすべがもはや失われているのは、いたし方のないことだろう。むしろ、度重なる天災や人災を乗り越えて、1000年以上も昔の書物に何が書いてあったのかがよくぞ今日まで伝わったものよ、と感歎してしまう。

それではリストの順に、「いつ書かれたものか」を特定しつつ、それぞれの「元旦」をささっと眺めていくことにしよう。

明代に編まれた『三國演義』。影印版はないので、句読点を追加したとおもわれるテクストデータをそのまま引用する。

第二十三回「禰正平裸衣罵賊 吉太醫下毒遭刑」。

且說董承自劉玄德去後,日夜與王子服等商議,無計可施。建安五年,元旦朝賀,見曹操驕橫愈甚,感憤成疾。帝知國舅染病,令隨朝太醫前去醫治。此醫乃洛陽人:姓吉,名太,字稱平,人皆呼為吉平,當時名醫也。平到董承府用藥調治,旦夕不離;常見董承長吁短歎,不敢動問。

『後漢書董卓傳』などにある、後漢最後の皇帝獻帝が曹操の専横を憎み、彼の治療に当たっている侍医をまき込んでの暗殺を董承に命じる場面

のようだが、「朝賀」は朝に百官が参賀する行事ゆえにその名があるのだから、この「元旦」は「元日」の意味とおもわれる。

第五十五回「玄德智激孫夫人 孔明二氣周公瑾」。

兩個商議已定。玄德密喚趙雲分付:「正旦日,你先引軍士出城,於官道等候。吾推祭祖,與夫人同走。」雲領諾。建安十五年春正月元旦,吳侯大會文武於堂上。玄德與孫夫人入拜國太。孫夫人曰:「夫主想父母宗祖墳墓,俱在涿郡,晝夜傷感不已。今日欲往江邊,望北遙祭,須告母親得知。」國太曰:「此孝道也,豈有不從?汝雖不識舅姑,可同汝夫前去祭拜,亦見為婦之禮。」孫夫人同玄德拜謝而出。

奪われた荊州を劉備から取り戻したいと考えていた孫權が、周瑜の発案した策略により劉備を吳の館に引き留めおいてその隙に攻め入ろうとしたが、諸葛亮の策を得た趙雲の手配により劉備は孫夫人ともども首尾よく脱出した、という場面らしい。

「國太」というのは孫夫人の生母という設定だが、実在の人ではないそうだ……という話の筋はともかく、劉備が趙雲に「正旦日,你先引軍士出城」と脱出計画を指示していることからして、これは「元日の朝」というよりは「元日」と捉えた方がよさそうな気がする。

次は同じ明代ながらもう少し後に成立したらしい『金瓶梅』。

この作品は遺憾ながら、図版研には読んだ者がいなくて筋書きが全くわからないため、該当箇所の引用だけにとどめておく。

第七十一回「李瓶兒何家托夢 提刑官引奏朝儀」。

這皇帝生得堯眉舜目,禹背湯肩,才俊過人,口工詩韻,善寫墨君竹,能揮薛稷書,通三教之書,曉九流之典。……良久,聖旨下來:「賢卿獻頌,益見忠誠,朕心嘉悅。詔改明年為重和元年,正月元旦受定命寶,肄赦覃賞有差。」蔡大師承旨下來。殿頭官口傳聖旨:「有事出班早奏,無事捲簾退朝。」言未畢,見一人出離班部,倒笏躬身,緋袍象簡,玉帶金魚,跪在金階,口稱:「光祿大夫掌金吾衛事太尉太保兼太子太保臣朱勔,引天下提刑官員章隆等二十六員,例該考察,已更改補、繳換札付,合當引奏。未敢擅便,請旨定奪。」於是二十六員提刑官都跪在後面。…… 

第七十八回「林太太鴛幃再戰 如意兒莖露獨嘗」。

到次日,重和元年新正月元旦,西門慶早起冠冕,穿大紅,天地上燒了紙,吃了點心,備馬就拜巡按賀節去了。月娘與眾婦人早起來,施朱傅粉,插花插翠,錦裙繡襖,羅襪弓鞋,妝點妖嬈,打扮可喜,都來月娘房裡行禮。那平安兒與該日節級在門首接拜貼,上門簿,答應往來官長士夫。玳安與王經穿著新衣裳,新靴新帽,在門首踢毽子,放炮仗,磕瓜子兒。眾伙計主管,伺候見節者,不計其數,都是陳敬濟一人管待。……

第九十七回「假弟妹暗續鸞膠 真夫婦明諧花燭」。

看官聽說,若論周守備與西門慶相交,也該認得陳敬濟,原來守備為人老成正氣,舊時雖然來往,並不留心管他家閑事。就是時常宴會,皆同的是荊都監、夏提刑一班官長,並未與敬濟見面。……每日飯食,春梅請進後邊吃。正是:一朝時運至,半點不由人。光陰迅速,日月如梭,但見:
行見梅花臘底,忽逢元旦新正。不覺艷杏盈枝,又早新荷貼水。

これも同じころに成立した『封神演義』。

第二回「冀州侯蘇護反商」。

其日元旦吉晨,天子早朝,設聚兩班文武,眾官拜賀畢。黃門官啓奏陛下:「今年乃朝賀之年,天下諸侯皆在午門外朝賀,聽候玉音發落。」紂王問首相商容,容曰:「陛下止可宣四鎮首領臣面君,採問民風土俗,淳龐澆競,國治邦安;其餘諸侯俱在午門外朝賀。」天子聞言大悅:「卿言極善。」隨命黃門官傳旨:「宣四鎮諸侯見駕,其餘午門朝賀。」

紂王の寵臣のひとり費仲が、権力を嵩に諸侯へ賄賂を求めたのに対し、冀州侯の蘇護がひとり応じなかったためこれに腹を立て、報復としてその娘妲己を無理に王へ献上させようと画策する場面。これも朝賀のことだから、☝『三國演義』の董承のエピソードに書いたのと同じ。

第三十回「周紀激反武成王」。

時光迅速,不覺又是年終。次年乃紂二十一年,正月元旦之辰,百官朝賀畢,聖駕回宮。大凡元旦日,各王位併大臣的夫人俱入內朝賀正宮蘇皇后。各親王夫人朝賀畢,出朝。──禍因此起。

且說黃妃的差官打聽信息,忙報西宮:「啟娘娘:其禍不淺!」黃妃曰:「有甚麼禍事?」差官報道:「賈夫人墜了摘星樓,不知何故。」黃妃大哭曰:「妲己潑賤!與吾兄有隙,今將吾嫂嫂陷害無辜……」黃妃步行往摘星樓下,逕上樓,指定紂王罵曰:「昏君!你成湯社稷虧誰?我兄與你東拒海寇,南戰蠻夷。掌兵權,一點丹心,助國家,未敢安枕。我父黃滾鎮守界牌關,訓練士卒,日夕勞苦。一門忠烈,報國憂民。今元旦,遵守朝廷國禮,進宮朝賀,乃敬上守法之臣。任信潑賤,誆彼上樓。昏君!你愛色不分綱常,絕滅彝倫!你有辱先王,污名簡冊!」黃妃把紂王罵得默默無言。……

且說賈氏侍兒隨夫人往宮朝賀,只在九間殿等候;到下晚也不見出來。只見一內侍問曰:「你們是那裏的侍兒?」答曰:「我們是武成王府裏的,隨夫人朝宮,在此伺候。」內使曰:「你夫人墜了摘星樓;黃娘娘為你夫人辨明,反被天子摔下樓,跌得粉骨碎身。你們快去罷!」侍兒聽說,急急回王府來。武成王在內殿同弟黃飛彪、飛豹,黃明、周紀、龍環、吳謙、黃天祿、天爵、天祥三子,元旦良辰歡飲。……

話說飛虎聽得此信,無語沉吟;又見三子哭得酸楚。……黃飛虎急出府,大叫曰:「四弟速回!就反也要商議往何地方?投于何主?打點車輛,裝載行囊,同出朝歌。為何四人獨自前去!」四將聽罷,回馬,至府下馬,進了內殿。黃飛虎持劍在手,大喝曰:「黃明等!你這四賊!不思報本,反陷害我合門之禍!我家妻子死于摘星樓,與你何干?你等口稱『反』字,黃氏一門七世忠良,享國恩二百餘年,難道為一女人造反。你借此乘機要反朝歌而圖據掠,你不思金帶垂腰,官居神武,盡忠報國,而終成狼子野心,不絕綠林本色耳!」罵的四人默默無語。黃明笑曰:「長兄,你罵得有理。又不是我們的事,惱他怎的!」四人在旁,抬一桌酒吃。四人大笑不止。黃飛虎心下如火燎一般,又見三子哭聲不絕,聽得四人撫掌歡欣,黃飛虎問曰:「你們那些兒歡喜?」黃明曰:「兄長家下有事撓心,小弟們心上無事。今元旦吉辰,吃酒作樂,與你何干?」飛虎氣不過,惱曰:「你見我有事,反大笑,這是怎麼說?」周紀曰:「不瞞兄說,笑的是你。」

且說紂王敗至大殿坐下,懊悔不及。都城百姓官員已知武成王反了,家家閉戶,路少人行。又聞天子大戰黃飛虎,百官忙入朝,見紂王問安,曰:「黃飛虎因何事造反?」天子怎肯認錯,乃曰:「賈氏進宮朝賀,觸忤皇后,自己墜樓而死。黃妃倚仗伊兄,恃強毆辱正宮,推跌下樓,亦是誤傷。不知黃飛虎自己因何造反,殺入午門,深屬不道!諸臣為朕作速議處!」百官聽紂王言說,皆默默無語,莫敢先立意見。正沉思間,探事馬報進午門曰:「聞太師征東海奏凱回兵。」百官大喜,齊辭朝上馬,出郭迎接。只見人馬遠遠行至,中軍官報入營中曰:「啟太師,百官轅門迎接。」聞太師曰:「眾官請回,午門相會。」眾官進城至朝門,見聞太師騎墨麒麟來至,眾官躬身。太師曰:「列位請了!」眾官同進朝,見天子,行禮畢起身,不見武成王,太師心下疑惑,奏曰:「武成王為何不來隨朝?」王曰:「黃飛虎反了。」太師驚問:「為何事反?」紂王曰:「元旦賈氏進宮,朝賀中宮,觸犯蘇后,自知罪戾,負愧墜樓而死,──此是自取。西宮黃妃聽知賈氏已死,忿怒上樓,毀打蘇后,辱朕不堪;是朕怒起相攘,誤跌下樓,非朕有意。不知黃飛虎輒敢率眾殺入午門,與朕對敵,幸而未遭毒手,今已擁眾反出西門。朕正在此沉思,適太師奏捷,乞與朕擒來,以正國法!」太師聽罷,厲聲言曰:「此一件事,據老臣愚見,還是陛下有負于臣子!黃飛虎素有忠君愛國之心,今賈氏進宮朝賀,此臣下之禮,豈有無故而死!況摘星樓乃陛下所居,與中宮相間,賈氏因何上此樓,其中必有主使、引誘之人,故陷陛下于不義。陛下不自詳察,而有辱此貞潔之婦。黃娘娘見嫂死無辜,必定上樓直諫,陛下亦不能容受,溺愛偏向,又將黃娘娘摔跌下樓。致賈氏忿怨死,黃娘娘遭冤,實君有負臣子,與臣下何干。況語云:『君不正則臣投外國。』今黃飛虎以報國赤衷,功在社稷,不能榮子封妻,享久長富貴,反致骨肉無辜慘死,情實傷心。乞陛下可赦黃飛虎一概大罪,待臣追趕飛虎回來,社稷可保,家國太平。」……

周の鎭國武成王・黃飛虎の妻・賈氏と妹・黃貴妃が妲己の謀略により自死に追い込まれ、怒りのあまり叛逆を企てる場面。これも朝賀の話だし、「今元旦」「元旦日」という表現が出てくることからしても、やはり「朝」よりも「日」と解釈してよいのでは。

第三十二回「黃天化潼關會父」。

話說黃飛彪出來迎請道童,一見舉止色相,恍如飛虎。飛彪忙請裏面相見。……天化元是聖神,性如烈火,一時面發通紅,向前對飛虎曰:「父親,你好狠心!」把牙一咬。飛虎曰:「我兒,今日相逢,何故突發此言?」天化曰:「父親既反朝歌,兄弟卻都帶來,獨不見吾母親,何也?他是女流,倘被朝廷拿問,露面拋頭,武成王體面何在?」飛虎聞說,頓足淚流,哭曰:「我兒言之痛心!我父親為何事而反?為你母親元旦朝賀蘇后,因君欺臣妻,你母親誓守貞潔,辱君自墜摘星樓而死。你姑姑為你母親直諫,被紂王摔下樓來,跌得粉骨碎身,俱死非命。今苦不勝言。」天化聽罷,大叫一聲,氣死在地。……

黃飛虎が商から脱出する途中、潼關の守将・陳桐に命を奪われたが、崑崙十二大師のひとり淸虚道德眞君のもとで仙術を学んでいた息子の黃天化によって復活する場面。飛彪は飛虎の弟。母が朝賀の際に妲己に陥れられたことについて陳べているところだから、これも☝と同じ。

第三十四回「飛虎歸周見子牙」。

話說黃家眾將過了首陽山,桃花嶺,度了燕山,非止一日,到了西岐山。只七十里便是西岐城。……子牙忙扶起,分賓主序坐。飛虎曰:「末將乃商之叛臣,怎敢列坐丞相之傍?」子牙曰:「大王言之太重!尚雖忝列相位,昔曾在大王治下,今日何故太謙?」飛虎方纔告坐。子牙躬身請問曰:「大王何事棄商?」武成王曰:「紂王荒淫,權臣當道,不納忠良,專近小人。貪色不分晝夜,不以社稷為重,殘殺忠良,全無忌憚,施土木陷害萬民。今元旦,末將元配朝賀中宮,妲己設計,誣陷末將元配,以致墜樓而死。末將妹子在西宮,得知此情,上摘星樓明正其非,紂王偏向,又將吾妹採宮衣,揪後鬢,摔下摘星樓,跌為齏粉。末將自揣:『君不正,臣投外國。』此亦理之當然。故此反了朝歌,殺出五關,特來相投,願效犬馬。若肯納吾父子,乃丞相莫大之恩。」子牙大喜:「大王既肯相投,竭力扶持社稷,武王不勝幸甚!豈有不容納之理?」

汜水關の守将・余化に捕らえられた黃飛虎が、崑崙十二大師のひとり太乙眞人の弟子・李哪吒に救い出されて周に帰還し、姜子牙と再会する場面。これも☝ひとつ前と同じ話題。

第三十五回「晁田兵探西岐事」。

話說聞太師自從追趕黃飛虎至臨潼關,被道德真君一捏神砂退了聞太師兵回。……忽聽得報:「臨潼關蕭銀開栓鎖,殺張鳳,放了黃飛虎出關。」太師不語。又報:「黃飛虎潼關殺陳桐。」又報:「穿雲關殺了陳梧。」又報:「界牌關黃滾縱子投西岐。」又報:「汜水關韓榮有告急又書。」聞太師看過,大怒曰:「吾掌朝歌先君托孤之重。不料當今失政,刀兵四起,先反東南二路;豈知禍生蕭牆,元旦災來,反了股肱重臣,追之不及,中途中計而歸,此乃天命。如今成敗未知,興亡怎定,吾不敢負先帝托孤之恩,盡人臣之節,以死報先帝可也。」……

西岐攻撃の先頭に立つ商の太師・聞仲が、裏切り者の黃飛虎が守将を次々にたおして西岐へ逃げたという報を続々受けて怒りまくっている場面。この「元旦」の「災」も、☝と同じ話だとおもう。

今度はだいぶ時代を遡って、十世紀北宋の『太平御覽』。

四庫全書』子部にあたる、卷第三十三「時序部十八」の「」に「元旦」が出てくる。

徐爰家儀曰蠟本施祭故不賀其明日為小歲賀稱初歲福始罄無不宜正旦賀稱元旦首慶百物惟新小歲之賀既非大慶禮止門內

この「正旦」「元旦」も、「朝」というよりは「日」を指しているのではないだろうか。

ちなみに、静嘉堂文庫ご所蔵の宋刊本影印版『四部叢刊三編』の同じ箇所

では「元旦」ではなく「元正」になっている。ということは、「元旦」となったのは宋代ではなく清代、ということになりそうにおもえる。

清朝康煕帝の命により編まれた『全唐詩

卷七十六に収められている七〜八世紀唐朝徐彥伯

の詩題「同韋舍人元旦早朝」に含まれている。

康煕四十二年御定189冊本

で該当箇所の影印を表示してみる。

御定全唐詩卷七十一~卷七十六 121/126
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=62467&page=121

「朝」の意味とすると「早朝」とかぶってしまうので、この「元旦」は「日」の意だろう。

康煕字典』の「目部」の「八」、「」字のところに『拾遺記』の引用として

堯時秪支國獻重明鳥,一名雙睛。能逐猛獸,使羣惡不爲害。今人元旦或刻木鑄金或晝雞牖上,卽其遺像。

とある。『摛藻堂四庫全書薈要』子部に載っている「拾遺記」冒頭「提要」

によれば晉代の本のようだ。「雙睛」という語を探してみると、卷一の十丁裏に

集麒麟遊於藪澤梟鴟迯於絶漠有秪支之國獻重明之鳥一名雙睛雙睛在目狀如雞鳴似鳳時解落毛羽以肉翮而飛能搏逐猛獸虎狼使妖災羣惡不能為害飴以瓊膏或一歲數來或數歳不至國人莫不掃灑門戸以望重明之集其未至之時國人或刻木或鑄金為此鳥之狀置於戸牖之間則魑魅醜𩔖自然退伏今人每歳元日或刻木鑄金或圖畫為雞於牖上此遺像也(引用者註:テクストデータは影印に合わせ修正)

と書いてあった。な〜んだ、「元旦」じゃないのか……。

古今逸史』版でも、やはり同様に「元日」だった。

つまり、これは『康煕字典』を編む際に「元日」から「元旦」に変わった、ということではないかとおもわれる。なぜだかはわからないけれども……。

同じく「辛部」にある「」字、『風土記』からの引用として「元旦」が出てくる。

《風土記》元旦,以蔥、蒜、韭、蓼、蒿芥,雜和而食之,名五辛盤,取迎新之意。又股象也。

ただ「風土記」っていわれたって、たくさんあってどれだかわから〜ん、とおもったのだが、ここで取り上げられている「五辛盤」という正月料理について書かれた記事「五辛盤」が「百科知識」というサイトに載っていた。

五辛盤又稱辛盤、春盤。即在盤中盛上五種帶有辛辣味的蔬菜,作為冷盤食用。魏晉以下元旦日有食五辛盤的漢族傳統民俗。意在嘗新。源於漢代立春日食生菜。立春吃五辛盤,是古人在立春之日以蔬菜、水果、餅餌盛於盤中饋贈親友的習俗。晉代《風土記》中說:“元日造五辛盤”,“五辛所以發五臟氣,即蔥、蒜、韭菜、蕓薹、胡荽是也”,也就是現在的:蔥、蒜、韭菜、油菜、香菜。

晉代の、とあるので「魏晉南北朝」に絞って「風土記」を検索してみると、『水經注』卷四「河水」のところに「周處風土記》曰……」とあるのが見つかった。つまりこれは、周處

が編んだ二世紀の『陽羨風土記』を指していることがわかる。

粟香室叢書』版をみてみると、

元日造五辛盤[白帖引此云楚人元日上五辛盤]月正元日五董鍊形注曰五薰五辛也所以發五臟之氣莊子所謂春日飲酒茹蔥以通五藏也〔荊楚歲時記○書鈔引此云元日吞雞子噉五辛菜注曰呑生鷄子人一枚謂之鍊形食五辛菜以助發五臟之氣也〕(引用者註:〔〕内は割註 テクストデータは影印に合わせ修正)

これもオリジナルは「元日」のようだ。

というわけで、「元旦」が載っているのが確認できたものをならべてみると、

  • 梁・「梁三朝雅樂歌六首」のうち「介雅」……六世紀(ただし十八世紀の版本)

  • 唐・「同韋舍人元旦早朝」……七〜八世紀(ただし十八世紀の版本)

  • 宋・『夢粱錄』……十三世紀(ただし十八世紀の版本)

  • 明・『三國演義』……十四世紀(ただし原本印影未確認)

  • 明・『封神演義』……十六世紀(ただし原本印影未確認)

  • 明・『金瓶梅』……十六世紀(ただし原本印影未確認)

  • 淸・『浙江通志』……十八世紀

  • 淸・『康煕字典』……十八世紀

……という結果に。やはり「介雅」が早そうだ……が、結局十八世紀よりも前の漢籍については、オリジナルに本当にそう書かれているのかは確認できなかった

ところで、中央研究院・歷史語言研究所漢籍電子文獻資料庫」サイト

という、また別の漢籍資料公開データベースで「元旦」を拾ってみると、今回取り上げていない資料が引っ掛かる。こちらの影印版は有料サーヴィスなので、テクストデータを元に「中國哲學書電子化計劃」サイトで探してみると……ありゃりゃ、たしかに「元旦」って書いてあるよ。むむ〜。

今回みた限りでは、明らかに「夜明け」とか「朝」とかの意味での用例はなかったようにおもえる(『金瓶梅』はわからないけれども)のだが、もしかするとまだみていない資料にそうした使い方の例があるかもしれない……。

図版研に漢籍などないので、にぎやかしに古い(ぼろぼろの)節用集の写真でも。

高蘆屋+鎌松荷+丹桃溪『都會節用百家通』(文政二年 前川六左衛門+敦賀屋九兵衛+塩屋平助+象牙屋治良兵衛+河内屋木兵衛)

鼇頭の図は、全然関係のない『二十四孝』の絵らしいけれども、まぁ雰囲気だけは今回のテーマに合いそうだしww

高蘆屋+鎌松荷+丹桃溪『都會節用百家通』(文政二年 前川六左衛門+敦賀屋九兵衛+塩屋平助+象牙屋治良兵衛+河内屋木兵衛)
高蘆屋+鎌松荷+丹桃溪『都會節用百家通』(文政二年 前川六左衛門+敦賀屋九兵衛+塩屋平助+象牙屋治良兵衛+河内屋木兵衛)

次回に(まだ)続く。

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