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【おはなし】 水の予兆

雨がやんだ数時間後、彼女はピアノの前に座っている。

両手は膝の上にそろえられ、視線は鍵盤を捉えているが、彼女が実際に見ているモノは何もない。

穴の空いた天井からは、雲が残していった水滴がポツリぽつりと落ちてきては地面に水の溜まりをこしらえていく。流れていった暑い雲がさっきまでいた場所には明るい日差しが溢れ、古びた建屋にぬくもりを与えている。

彼女が捉えようとしているのは、言葉にならない言葉であり、音にならない音でもある。

この先どれくらいの時間をその姿勢で過ごすことになるのかは彼女さえもわかっていない。ただこうしてピアノの前に座って音が、音のカケラが生まれ出てくるのをじっと、じーっと待つことがなによりも自分自身にとって、広くは世界にとってこれ以上ないくらいに重要なできごとであるという予兆だけが彼女を支えている。

志穂が暮らしている水の国では、雨上がりの翌日に子供たちを連れて出歩くことが習慣となっている。

幼稚園児は外に出かけることを単純によろこび、小学生の中には不規則な時間割になることをほんの少し疑問に感じる者がいるくらい。その他の者たちは臨時の遠足程度にしか理解していない。

中学生になると、中間試験や期末試験中であっても校舎の外に連れ出されることに対してある者は宗教的な響きを感じ、またある者は秩序に対する反抗的な精神、すなわち不協和音を奏でる重要性の1/2ページ分くらいの理解は持ち合わせるようになっている。

学生服を着た中学生の数名が廃墟の出口から中に入ってきたとき、彼女はまだピアノの前に座っていた。

少年少女たちは鍵盤を見つめる彼女に軽く一礼をしてからホールの中に足を踏み入れた。会話をすることや物音を立てることは禁止されているわけではないため、生徒たちは学校の中でするのと同じような会話をしながら歩いていく。

「2組の斉藤と丸山のふたりは、やっぱり好き好き同士なんだって」

「ええっ、やっぱりそうなんだ」

「でもよぉ、杉谷は斎藤のことが好きなんだよな?」

「だから、複雑なのよ」

「三角関係ってこと?」

「それがそうでもないみたいで・・・」

思春期の男女が他のクラスで進行中の恋愛事情についてのうわさ話をはじめたのが鍵となり、彼女の右手はそっと鍵盤の上を這い始めた。

小指が黒色の鍵盤のひとつを半分ほど抑えると、親指が白色の鍵盤を同じように半分ほど抑えた。

ひとつ、ふたつ。

音がつながりはじめると、右手は鍵盤の上をゆっくりと空白を含みながら音を生み出していく。

ひとつ、ふたつ。

彼女の左手は膝の上。

伴奏者の姿は、まだ見えないけれど。




おしまい




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