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歴史エッセイ | 空海(弘法大師)について。

偶然

 歴史をひもとくと、後世に多大な影響を及ぼすことになった出来事が、ほんの紙一重のところで実現していたことに気が付くことがある。

 唐へ同じ船に乗って留学した最澄と空海が日本へ帰国してその教えを広めたことは、それ以後の日本仏教、もっと大きく言えば、現在に至るまで、日本人の考え方に多大な影響を及ぼした出来事である。

 以前、空海に興味をもって調べたことがあるが、よくもこんなに偶然が重なったものだと驚かざるを得ない。


空海について

 簡単ではあるが、空海の略歴をまとめておく*。

* 空海(加藤純隆・加藤精一[訳])「三教指帰」(角川ソフィア文庫)、pp156-177を参考にした。


略年表

774年(宝亀5年)空海誕生。
15歳で上京(当時の都は長岡京)。
18歳で「大学寮」に入学。中退。
24歳『三教指帰』をあらわす。

*中退してから『三教指帰』をあらわすまでの行動は明らかではない。

804年(延暦23年)、空海31歳、入唐を果たす(中国への渡航)。

805年、徳宗皇帝崩御。順宗皇帝即位。
同年6月13日、恵果と面会を果たす。以後恵果は、空海に密教のすべてを伝授する。しかし、12月15日、恵果入滅。


 略年表をみると、空海が師匠である恵果(けいか)に出会うことができたのが、いかに「奇跡的」であったか分かる。
 仮に半年でも空海が海を渡ることが遅れていたならば、日本に密教(真言宗)の教えが伝わることはなかっただろう。
 また、あと数ヶ月でも恵果との出会いが遅れていたら、密教の教えは中途半端にしか伝授されなかったかもしれない。


空海の帰国後の中国

 空海が日本へ帰国したのは、桓武天皇が崩御され、平城天皇の大同元年(806年)だった。
 その後の空海の足取りも興味深いのだが、ここではその事について書かない。話が長くなりすぎるので。

 この記事では、空海が帰国した後の中国が、どんな様子だったのか、素描するにとどめる。

 唐の時代の前半には、国家の保護のもとに、仏典の翻訳などが行われて、様々な宗派が確立した。しかし、しだいに、禅宗など実践的な宗派が主流となり、密教は弾圧されるようになった。土地の大規模所有や税役逃れなども原因のひとつとされている。

 特に有名な密教の弾圧は、「会昌の廃仏」(かいしょうのはいぶつ)。
 845年(会昌5年)には、武宗による大廃仏が行われた。
 この頃中国を訪れていた、日本人僧の円仁(慈覚大師、天台宗)は、彼の旅行記(日記みたいなもの)「入唐求法巡礼行記」(にっとう・ぐほう・じゅんれい・こうき)に、詳しく記述している。


天子は台上にあって道士をあやしんで言うには、「自分は二度台にのぼったが、お前らはまだ一人として登仙(不老長寿の世界にのぼった)した者のいないということはどうしたことか」と。
(中略)
長安城内の僧尼に対する功徳使の取締まり処分は非常に厳重である。また祠部発行の身分証明書のない者と僧尼の数を勘定して詳しく記録し天子に報告した。すなわち全寺に通達して証明書を持っていない者の家具を没収、官に運ばせた。

「入唐求法巡礼行記」(中公文庫)
pp.564-565

還俗させられることが心配だったのではなく、ただただ写し取った聖教(典籍や仏画)を身につけて日本に持って行くことができなくなることを心配したのであった。
またまた勅があってひどい仏教弾圧が続いているので、帰国途中の諸州や府の点検で荷物の中味が見つかり違勅の罪に処せられるのではないかということを恐れている。

前掲書、p.573

 歴史に「もしも」「~だったら」という仮定を持ち込むのはどうかとも思うが、空海が一世代生まれてくることが早かったとしても、あるいは遅かったとしても、日本に真言宗という「密教」は生まれなかっただろう。
 
 また、真言宗・天台宗という密教が伝わっていなかったとしたら、日本で仏教を学ぶ機会が奪われることになったろう。鎌倉新仏教も生まれなかったに違いない。

 
 空海と恵果との奇跡的な出会いは、現在の私たちにも、強く繋がっているように思える。

 


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