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読まないと読まれない

 本を読むとき、私はその著者の文章を読みたくて読むだけ。買った本であれ、図書館で借りた本であれ、基本的には同じ。面白くても、面白くなかったとしても、著者に何か見返りを求めることはない。

 けれども、SNSで他の人の文章を読むときは、自分の文章も相手に読んでもらえることを心のどこかで期待する。もちろん、読みたくて読むわけだが、相手からなんのリアクションもなければ、次第に読まなくなっていく。


 いま上に書いたことは当たり前のことなんだけど、noteをはじめた当初はわからなかった。一生懸命に書いてもほとんどなんのリアクションもない。その一方で、「えっ?なんでこんなありふれたことしか書いていない記事が読まれているの?」と思うことが度々あった。しかし、いま思い返してみると、当時私がたくさんの人に読まれていると思い込んでいただけで、本当は大して読まれていない記事だったのではないか?、と考えている。


 どれだけ読まれているかの目安は、noteの場合、ダッシュボードを見れば確認できる「スキ数」「ビュー数」「コメント数」。外から見えるのは、「スキ数」と「コメント数」だが、パッと見て分かりやすいのは「スキ数」。だから、noteをはじめた最初の頃は「スキ数」の多寡で、読まれる記事・読まれない記事を考えていた。


 私がnoteをはじめた頃に比べると、ダッシュボードのスクショを貼って、「○○ビュー達成」とか「○○スキ達成」とか書いている記事は少なくなったが、「えっ?、その程度なの?」と思ったりする。
 別にそれはそれでいいのだが、ちょっと勉強になるのが、「ビュー数」と「スキ数」の割合。
 
 ダッシュボードをスクショして記事にする人は、私の皮膚感覚では、
「スキ数÷ビュー×100」の割合が高い傾向がある。
 
値が30~50くらいの人が多い印象。

 これも最初の頃は単純に「100人読んだ人の中で3割から5割の人が『良い記事だ』と評価している」と思っていた。だが、それは違いますね、きっと。

 自分の記事に「スキ」を押されれば、反射的に「スキ」を返す人も多いから、記事の良し悪しにはあまり関係ない。読まないで押してるだけの人は多いだろうし、読んでみてよっぽどひどい内容じゃない限り社交として挨拶代わりに押すだけのことも多いだろう。

 「スキ数÷ビュー×100」の値を高めよう!、なんて思ったこともあったけど、私の場合、いちばん高いときで17くらいで、記事が増えるごとにどんどん低下している。今では一桁のときが多い。

 いちばん目に付きやすいのはスキ数だが、記事の内容とは関連があまりないし、ビュー数にいたっては「定義」すら明確ではない。「画面に表示された回数」という以上のことはわからない。ただ、開かれなくてもビュー数が増えるのは間違いがないようだ。読まれたかどうかはまた別の話。


 「読まれたか・読まれていないか」を把握するには、客観的な指標によらない限り信憑性が低い。しかし、数字と作品の質とは、必ずしも相関関係が成り立つわけではない。なのに、数字に依らないものには「エヴィデンスがない」とか「単なる思い込み」というレッテルが貼られることが多い。

 元も子もない話をすれば、たとえ数字が物を言ったとしても、「だから何?」ということである。
 他人との比較という意味以上の意味はない。

 自分自身が「楽しい!」と思えるかどうかがいちばん大切なんじゃないのかな?

 最近、「エヴィデンスがないものには価値がない!」という圧が強い。
 「他人の意見を無視しろ!」とか「客観的なデータを軽視しろ!」とか言うつもりはないが、もっと自分自身が感じる「主観的事実」に価値を見いだすことを大切にしたほうが楽しいんじゃないかな?

 数字とか「あの人がこう言ってる」というのは、客観的なことで説得力があるようにも思うが、考えに考えた末に「いや、それはおかしい!」という心の叫びを聞いたなら、自分の心の叫びに従ってみたらどうだろう?

 いま、あなたはnoteを楽しんでいますか?
 書きたいことを書きたいように書いていますか?
 読みたくもない記事を社交で読んだりしていませんか?



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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします