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偶然から必然へ

  松下友香さんの企画へ参加します。よろしくお願いいたします。
 趣旨とズレていたら、申し訳ありません。



#大事にしていたから大切なものに変化する話


(1)「偶然から必然へ」


 今回の企画のタイトルは「 #大事にしていたから大切なものに変化する話 」。このタイトルを見て、最初に思い出したのは、中学三年生だったときの担任の先生の言葉。
 クラス替えがあった4月の最初の日に、先生はこんなことをおっしゃいました。

「こうやって、このクラスのみんなと顔を合わせるのは、偶然に過ぎない。けれども、卒業式の時には必然だったと思えるようなクラスにしたいですね」と。

 先生というものは、みな同じような気持ちを抱くのでしょうね😊。というわけで、この記事の題名は「偶然から必然へ」としました。
 
 では本題に入ります。


(2) 「つづけた」というより、結局残ったものが「大切だった」ということなのだろう


 別に飽きっぽい性格ではないけれども、今までの人生の中で、10年以上継続的につづいたものはそんなに多くない。
 その中でも30年以上となると2つだけ。今回はその2つのものについて書きます。


(3) 水泳


 1つ目に私にとって大切なものは、水泳。最初にスイミングスクールに行ったのは、幼稚園の年長のとき。当時住んでいた町にスイミングスクールが出来て、仲の良かった友だちが最初に通い始めた。

 友だちがスイミングスクールに行っている間、遊び相手がいなくなった。寂しそうに家で1人で遊んでいたら、母が「あきらも、スイミング通う?」と言った。「別にいいよ」って私は言った記憶がある。何となく私も通うことになった。

 スイミングスクールに通い出し、小学生に上がる頃には50m以上泳げるようになった。けれども、これくらい泳げればいいと思ったし、そんなに楽しいと思ったわけでもなく、いやいや通っている感じだった。

 小学1年生の1学期の終わりに、父の仕事の都合で盛岡に引っ越すことになった。
 当時、盛岡には、スイミングスクールはなく、「あぁもう行かなくていいんだ」とホッとした。
 
 しかし、2年生になった頃、比較的自宅から近いところにスイミングスクールが出来て、母から「せっかく泳げるようになったんだから、また通う?」と言われた。
 当時、友だちも何人かいたが、友だちの家に呼ばれて遊ぶことに違和感を持っていたから、今回は私の意思で通うことになった。

 月曜日から土曜日まで週6日通ったから、すぐにバタフライを含めて4泳法で50m以上泳げるようになった。
 ここまで来ると、今度は記録が気になりだす。自己記録をどんどん更新出来て楽しかった。

 けれども、ある程度何かを身につけると、記録が伸びない時期が来るもの。中学3年生のとき、県の代表になって関東大会に出場したのを最後に、選手としては水泳をやめた。
 その後通った高校は進学校で、半分くらいの人は部活に入っていなかったから、私も部活はしていない。高校では体育の授業以外では泳いでいない。

 でも、今でも、季節を問わず、泳ぎたくなることがある。体で覚えたものは勉強とは異なり、歩き方と同じで、泳ぎ方を忘れてしまうことはない。今でもゆる~く水泳を続けている。半年に1回くらいの頻度のときもある。

 泳いでいるときの水を切る感覚や、水面に浮上するときの感覚は、今でも他では体感出来ない感覚で、やっぱり泳ぐのが、私の体の大切な機能の1つになっている証左なのだろうと思う。

 水泳は、他の人より唯一うまく出来るものだったりする。同年齢で私より早く泳げる人は市内にはいない(と思う)。小っちゃな町だけど。


(4) 英語


 2つ目に大切にしているもの。英語。確か小学6年生の頃、週1回、塾で英語を習っていた。
 英語を学ぶ必然性をまったく感じることはなく、アルファベットは覚えたけれども、ローマ字さえ覚えることなく中学生になった。自分の名前も書けなかったと記憶している。英語より、漢字練習のほうがスキだった。

 とはいえ、暗記することはスキだったから、試験前には、教科書は文字通り丸暗記していた。中学生・高校生の英語の教科書は、すべて暗唱していた。
 英語だけでなく、漢文の書き下し文、詩の朗読がスキなのです。

 とはいえ、意味はほとんど考えていない。何でも良いけれども、何かを暗唱したり、朗読している間は、他のすべてのことが頭の外に出ていく。
 勉強しているというよりも、もしかしたら宗教的な癒しみたいなものかもしれない。

 意味が分かると、癒し効果が下がる。意味が頭の中を空っぽにすることを阻害するからだと思う。
 そういうときは、初見の英語の本とか、ドイツ語を朗読する。ロシア語のときもある。ほとんど意味はわかっていないから気分が良い。

 日常生活の中で英語を使わざるを得ない状況ではない。使うのはほとんどnote上だけ。
 気持ちを落ち着かせるには、英文を読むに限る。朗読・暗唱している間は、嫌なことはだいたい忘れられる。だから、勉強しているという感覚はほとんどない。

 そういう意味で英語は大切なものだ。


まとめ


 今回は特に大切なものを2つだけ書いてみた。
 振り返って考えてみると、私が大事にしてきたものは、「1人でいる」ということ。誰かと一緒でなければ出来ないような趣味というものはない。

 古墳を見に行くのは1人でも出来るし、読書も1人で出来る。
 読書会みたいなものに参加する人もいるけれども、それでは自分で本を選べなくなるんじゃないかなぁ。

 私が大事にしていたのは、1人の時間。それが大切になった。

 みんなで一緒にいたほうが得るものが大きいと考えるのを否定するわけではないし、多くの人に揉まれながら磨かれるものもある。けれども、1人でも楽しめるものが私にとっては大切なこと。

 1人でいても、完全に1人で生きている感覚はない。
 本を読むときは、著書と対話しているし、泳いでいるときは「水」と対話している。




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