美は分析を拒むものなのだろうか?
美的感覚というものは人それぞれ違う。好みの色、好みの異性、好みの図柄。すべての好みが自分と一致する人など、おそらく世界中を探しても存在しないだろう。自分の好むものを「美」「美しい」という言葉で言うのならば、「美」「美しい」という言葉には普遍性がないかのように思えてくる。
だが、好みの違いはあるにしても、富士山を見たり、桜を見れば、よほどのへそ曲がりでもない限り、誰でも「美しい」と感じるものだ。ただ、同じ「美しい」という言葉で表現される、「富士山」と「桜」との共通点を探し出して、言語化する段になると、意見の一致を見ることはないように思われる。
前言と矛盾するかもしれないが、美の感覚に関して、意見の完全な一致はないにしても、数学的美的センスに関しては、おそらく共通する何かがあるように感じている。次の2つの定理のうち、あなたはどちらに「美」を感じるだろうか?
①素数は無限にある。
②四桁の数で、自らの逆転数の整数倍となるものは、8712と9801のみである。
※ここは読み飛ばしても、差し支えありません。
⚠️(1)⚠️
素数とは、1と自分自身以外の数では割りきれない数のこと。
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, ・・・。
無限に素数があることが証明されている。
⚠️(2) ⚠️
逆転数とは、桁の数字をひっくり返した数のこと。
「1234」ならば「4321」が逆転数。
8712 = 4×2178
9801 = 9×1089
これは、藤原正彦(著)「数学者の言葉では」(新潮文庫、p.229)から引用したものだが、ほとんどの人は①の「素数は無限にある」という定理を「より美しい」と感じるのではないだろうか?
なぜ②より①のほうが美しいと感じるなのだろうか?
ちょっと自分なりに考えて思い付いたことを列挙してみる。
①のほうが②より美しいと感じる理由
簡潔であるから。
まだ見ぬ素数が無限にあることを伝えているから。
四桁の数は、せいぜい1000から9999までだし、虱潰しに調べればいいだけだから。
前提条件が少ないから。
数学的美的感覚についても、感じることは人それぞれあると思うが、「これとこれなら?」と問われたら、一致する場合が多いように思う。しかし、美の要素を1つだけ取り出すと、それはもう美しく感じなくなることが多い。
「美」というものは、分析を拒むものなのだろうか?
美は総合的判断によってしか、とらえられないものだろうか?
話は飛ぶが、分析するのが難しいものに「笑い」がある。
大笑いしたあとに、「なにが面白かったのだろう?」と考えてみると、理由がわからないことがある。
「こう来ると思ったのに、違うものが来た」という予定不調和、「こうあるべきという一般的考え方からのズレ」という認知バイアス・場違い性、とか、自分なりに分析してみるのだが、考えれば考えるほど訳がわからなくなる。
「美」や「笑い」というものほど、ありふれたものはないように思われるが、いずれも私の分析を拒む。パッと見て「美しい」と思う心も、「笑ってしまう」能力はあるのだが。。。謎だ。
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします