短編集 | ある夢想家の思い出 / 第1の物語
第1の物語
(1)
「お隣りの席、よろしいでしょうか?」
「あなたもお一人なら」
一人で飲んでいるところへ、見知らぬ女が話しかけてきた。
「土曜日の夜は、いつもこちらへいらっしゃるようですね」
「はぁ、なんとなくですが。あなたもここへはよくいらっしゃるのですか?」
「はい、毎週。あなたのことは、いつもあちらの席から眺めていました」
女のこの言葉を聞いたとき、はじめてその顔を見た。記憶が定かではないが、たしかにどこかで出会ったことのある女に相違ない。
「失礼ですが、あなたにお会いしたことがあったでしょうか?」
「いつも遠くからあなたのことを見ていましたが、こうして直接お話するのは初めてです。もしかしたら、夢の中で何度かお話したことがあったかしら」
夢か。
もう一度女の横顔を見たとき、「あっ」と叫びそうになった。そうだ!この女には何度も夢の中で会ったことがある!
(2)
「やっと、お気づきになりましたか。そうです。あなたの夢の中で何度も愛し合いました」と女は答えた。
「奈那か?知り合ってからもうすぐ1年だね」
「そうです。きっかり1年です。ずっと付き合っていた彼と別れたあと、私は現実世界の中では生きていけなくなりました。だから、他人の夢の中に潜り込み、その中で生きていく決意をしたのです」
これは夢なのか?そんなことがあり得るのか?
「にわかには信じられないね。だって、今こうして君と話しているのは、夢の中じゃないだろう?」
女がクスッと笑った。
「もちろん、これはあなたの夢の中ではありません。今日1日だけ、あなたの夢の中から現実の世界へ戻ってきました。あなたの夢の中で逢瀬を重ねるたびに、リアルな世界にいるあなたとお話がしてみたくなったのです」
(3)
奈那と会話するのは、いつも眠っているときだったから、こうして覚醒しているときに彼女と話していると、不思議な気持ちになった。
「奈那、君はどうして僕のような男と、夢の中とはいえ、付き合ってくれるんだい?」
「それはあなたも夢想家だからですよ。リアルな世界にいるあなたは、本当は優しい人なのに、なるべく人を遠ざけようとしていますよね。他の人のように、要領よく生きればいいのに。でもね、わたしはそういう不器用なあなたに惹かれたんです。この人はきっと夢の中で出会ったなら、本来の優しい部分に触れられるんじゃないかと思って」
「しかし、こうやってリアルな私に会って話したら、幻滅するんじゃないだろうか?」
「いいえ、そんなことはありません。夢の中で私たちは恋愛のトレーニングを重ねたじゃありませんか。やっぱり私の目に狂いはありませんでした」
(4)
奈那の話を聞いているうちに、今現実に私の前にいる奈那と、夢の中で逢瀬を重ねた奈那との境界線が消えていくような気持ちになっていった。
「もう少し一緒に飲もうか、奈那」
「ええ、あなたがよろしければ。私はいくらでもお付き合いしますよ」
(6)
私たちは夢の中での思い出話に華を咲かせた。一緒にフィンランドの湖をめぐったこと。アンコール・ワットを見るために、タイからカンボジアへ一緒に向かったこと。サイパンのマニャガハ島で熱帯魚と一緒に泳いだこと。
すべて私の夢の中の出来事であるが、こうやって現実世界の奈那と話していると、すべてのことが現実の思い出となるかのような気がしてきた。
(7)
いったいどれくらいの時間が過ぎたことだろう。窓から朝日がさしこんで来て、私たちのいる暗いバーの店内が徐々に明るさを増してきた。
「もうそろそろお暇しなければなりませんね」と、奈那が静かに言った。
「そうだね。しかし、君はいったいどこへ帰るんだい?」
「もちろん、あなたの夢の中ですよ」
「そうか、夢の中か」
「はい。でも1つだけ、夢の中へ帰る前に、最後にお願いがあるのですが」
(8)
しばらく沈黙の時間が流れた。
「君の願いとは?」
「私、夢の中に帰る前に一度、あなたと一緒に歩きながら、外の空気を少し吸ってみたい」
「あぁ、そんな簡単な願い事か。じゃあ、これから少し外を一緒に歩こうか」
(9)
私たちはバーの外へ出た。奈那は酔ったせいか、それとも愛情表現なのか、私の腕をつかんだ。
「大丈夫かい?」
「ちょっと酔ったみたい。本物のお酒を飲むのは久しぶりだったから」
「そうか。そろそろ休もうか、つづきは夢の中で… …」
(10)
奈那とともに家路につこうとしたとき、「あっ」と奈那が小さな叫び声をあげた。
奈那の視線の先には、一人の男が立っていた。
私は直感した。この男は奈那の元カレであると。
「ごめんなさい。私、やっぱり彼のことが忘れられない。やっぱり、彼の元に帰りたい。本当にごめんなさい」
私は静かに、奈那と元カレの後ろ姿を見送るしかなかった。
私も現実の世界へ戻ろう。。。
おしまい
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします