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読書 | ドストエフスキー「地下室の手記」

[ 1 ] 「地下室の手記」とは。

 ドストエフスキーに関しては、noteを始めるようになってから何度も書いている。
 この文豪の代表作と言えば、言うまでもなく、「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」「悪霊」という長編小説である。この四大長編に「未成年」を加えて、「五大長編」と呼ぶ人もいるが、長編小説以外にも、中編小説・短編小説も残している。

 この記事では、中編小説「地下室の手記」を取り上げる。
 最初に言っておくと、この小説の主人公は、現代の言葉で言うと「引きこもり」である。
 引きこもり、あるいは、無職になれば誰でも考えそうなことを、延々と語っているような印象である。
 しかしながら、やはり文豪は文豪であって、ところどころに、ハッとする言葉が散りばめられている。物語の最初のほうから、いくつか引用してみよう。
(⚠️引用はすべて、私の持っている、新潮文庫[ 江川卓 (えがわ・たく) ]による)


いっぱしの人並みの人間が、もっとも好んで話題にできることといったら、何だろうか?
答え---自分自身のこと。

(前掲書p10)


絶望のなかにこそじんと灼けつくような快楽がひそんでいることだって多いのだ。

(前掲書p14)


意趣返しなんぞに血道をあげたところで、結局は、復讐の相手より当の自分が百倍も苦しむだけの話で、相手は、おそらく、痛くもかゆくもないだろう

(前掲書p19)


歯痛にだって快楽はあるさ。

(前掲書p23)


およそ直情型の人間ないし活動家が行動的であるのは、彼らが愚鈍で視野が狭いからである。

人間が復讐をするのは、そこに正義を見出だすからだ。

(前掲書p28)


心安らかに生き、誇らかに死ぬ---これは実にすばらしいことではないか。いや、こんなにすばらしいことなんてないほどだ!

(前掲書p32)


[ 2 ] 「嘘」に関する考察。

 [ 1 ]では、私が「地下室の手記」を読んだときに、色鉛筆で線を引いたところを中心に引用してみた。
 たくさん線を引いたので、すべてを紹介することはできないが、「地下室の手記」の中で、私がもっともよく想起することが多い箇所を、(少し長いが)引用する。

どんな人の思い出のなかにも、だれかれなしには打ちあけられず、ほんとうの親友にしか打ちあけられないようなことがあるものである。また、親友にも打ちあけることができず、自分自身にだけ、それもこっそりとしか明かせないようなこともある。さらに、最後に、もうひとつ、自分にさえ打ちあけるのを恐れるようなこともあり、しかも、そういうことは、どんなにきちんとした人の心にも、かなりの量、積りたまっているものなのだ。いや、むしろ、きちんとした人であればあるほど、そうしたことがますます多いとさえいえる。

(中略)

せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれぬものか、真実のすべてを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたい

(前掲書p61)


図示すると、こんな感じになるだろうか?

嘘あるいは真実の類型化

 少し話が逸れるが、カントは、「実践理性批判」や「道徳形而上学原論」の中で、「定言命法」のひとつの例として、「嘘をつかない」という例を挙げている。
 私が日常生活の中で、他人に「嘘をつくな!」と言うとすれば、「他人が私に対して語る言葉」についてである。
 心の中で思っても、口に出さなければ「嘘をついたことにはならない」と思っていたのだが、どうなのだろう?
 うろ覚えだが、綿矢りさ「夢を与える」を読んでいて、「黙っているのは嘘をついているのと同じ」(みたいな感じのセリフ)ということが書いてあった(と思う)。

 カントが「嘘をつくな!」というとき、内心の嘘もきっと含まれると思うが、「ハードルが高いなぁ」なんて、たまに「地下室の手記」や「実践理性批判」のことを、ふと思い出しながら考えたりしている。


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