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読書 | 河盛好蔵「人とつき合う法」(新潮文庫)

河盛好蔵「人とつき合う法」

 河盛好蔵。名前だけはフランス文学の翻訳者として知っていたが、著作を読んだことがなかった。
 タイトルが「人とつき合う法」なので、どうせ処世術の本だと思っていた。しかし、読み始めたら面白過ぎる!
 ここ数年の内に読んだ本の中で、最もはまったかもしれない。
 私は読書をするときに、青鉛筆で「いいね👍️」と思った箇所に線を引きながら読む。この本に関しては、線を引こうと思うと、文章全部に青線を引きたくなる。
 実際に手にとって、私が引用した箇所以外も読んでみることを強くオススメしたい。


「交際術」

われわれはすべての人を愛することも、すべての人から愛されることもできない。しかし社会生活においては、自分の気にいった人間だけとつき合うこともできなければ、自分を好まない、自分を「イヤなやつ」と考えている人間に、つき合ってもらわなければならないばあいも、たびたび出来てくる。いやむしろ、そういうばあいのほうが多いであろう。人と付き合う法について工夫をしなければならないのはまさにそのようなばあいである。お互に親愛の情を感じ合える人間同士のあいだには、交際術は必要はないのである。
(前掲書、p12)

→最後の一文が素晴らしい。互いに信頼し、親愛の情をもっている場合、交際術はいらない。仲のいい人が多いことは、必ずしも交際術に長けているとは言えない。むしろ嫌な奴とどう向き合うかが、交際術である。なるほど。


「悪口」

何を言っても誤解されない、というのが本当の友人であると、いつか中村光夫君が書いていた。至言である。いつも相手の顔色を見てものを言わねばならぬつき合いはたまらない。悪口が誤解されないで相手に通じるような交友こそ、最も望ましい。しかし悪口を言うのも一つの才能である。友情のこもった悪口は、お世辞よりもむずかしい。悪口の才能のない人は、だまって笑っているほうが無難であろう。
(前掲書、p44)

→悪口・毒舌がうまい人と下手な人がいますね。同じ内容のことを言われても、心地よい人と胸くそ悪く思う人がいます。


「聞き上手」

そのなかで彼*は
「インターヴューをするときに最も大切なことは素朴であることだ。何らの成心なしに物を聞く人間の方が、なにか議論を吹きかけてやろうという下心のある物識りより、会見の相手によろこばれ、歓迎される。また相手に向って彼らの専門のことについて質問するよりも、一般的な、実際的な問題について、その意見をたたく方が、相手から話を引き出しやすい。というのは彼らは自己の専門の領域においてのみならず、一般的な問題についても、彼らの意見が、世間でもたれているということを知って悪い気持がしないからである」と書いている。
(前掲書、p61)

⚠️彼*→エミール・ルートヴィヒ『パリ評論』に載ったエッセイの引用

→専門の話になると、今の言葉で言うと、(意識的にか無意識的にか分からないが)「マウント」をとろうとする人がいる。それよりは、他の一般的な話題を選んだほうがいいだろう。話題選びも難しいのだが。


「待たされる身」

私は生れつきせっかちなためか、よろず待たされることは大きらいである。「時は金なり」ということを金科玉条にしているほど、一刻を惜しんで働いている人間ではなく、むしろぼんやりと、何もせずに、取りとめのないことを考えていることの好きなほうであるが、自分で自分の時間をムダにすることは一向平気でありながら、他人のために、自分の時間をムダにされると、その時間が急に貴重なものに思えて、むやみに惜しくなってくる。そして、そんなムダにさせる人間に腹が立ってくるのである。まして、その時間を、その人間が楽しんで使っているのだと思うと、二重に損をしたような気がして、ますます腹が立ってくる。
(前掲書pp72-73)

→ははは🤣。これは良く分かる😄。そんなに忙しくなくても、約束の時間を守らない人はとても嫌なものである。どんな理由を並べようが、「私より優先することがあったんだ!」と思うと腹立たしい。待たされて嬉しかったことなど一度もない。


「相手の気持」

いつも言葉づかいに気をつけなければならぬようなつき合いは、おことわりだという人があるかもしれないが、親しきなかにも礼儀ありで、お互に相手の神経をいたわるつき合いでなければ、永い友情は結べないであろう。
(前掲書、p80)

→当たり前すぎることだが、むずかしい。


「交友」

私は人間には、古い友人で満足してそれを大切にしている人と、絶えず新しい友人と交わらなければ、精神の沈滞を感じる人と、二つの型があるように思われる。生活力が旺盛で、絶えず積極的に仕事をしている人には後者の型が多いようである。しかしその種の人も年がよってくると、昔の友人を懐しみ、新しい友人はもう沢山だと考えるようになる。ジード自身も、「ある年齢以後になると、友人を選ぶよりは、友人に選ばれる場合のほうが多い」と書いている。
(前掲書、p95)


「ぷりぷりしてる人」

全く、なにが気に入らなくてぷりぷりしているのか分らない人間ほど軽蔑に値するものはない。どうせ大した理由はないのである。朝ヒゲを剃るときに顔を切ったとか、バスに乗りおくれたとか、電車のなかで立っている美人に席をゆずろうとしたら、その美人の亭主がありがとうもいわずにあとに座ったとか、そんなくだらないことが多いのである。ぷりぷりしているのは当人の勝手だが、それとつき合わなければならないこちらがたまらない。まして相手が上役や先輩だと、被害は甚大である。
(前掲書、p107)

→「電車の美人」の話が、妙に詳しい。河盛さん自身の経験談なのだろうか。くだらないと言えばくだらないが、似たような経験は誰にでもありそう🤣。


「虫のいどころ」

虫のいどころが悪かったり、ふさぎの虫に取りつかれたりして、いつも仏頂面をしているのは、人とつき合う道ではない。われわれには、自分が愉快でないからといって、他人までを不愉快にさせる権利はないからである。世間には、いつもにが虫をかみつぶしたような顔をして、ひとが笑う時にも決して笑わず、ひとが楽しんでいるのを見ると、「可哀そうに、お前たちは知らないな」といった深刻面をし、それが良心的だと思っている人間がいるものだが、ああいう連中を見ても、どこか虫のいどころが悪いんだろうと考えて、気にしないことが第一である。
(前掲書、p109)

→議論をするとき、ずっーとこわばったような真剣な顔をしている人がいる。
「笑うこと=不真面目」だと思っているのだろうか?
もちろん時と場合によるが、ずっと苦虫を噛んでいるような人とは距離をおきたくなる。


むすび

ここまでで、この本の半分くらい。残りは、また、稿を改めて書きたいと思う。


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