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短編小説| 1年前の僕から届いた手紙

 ただ歩くだけでも気が紛れるだろうか?
 夕涼みをかねて、僕は公園へ散歩に出掛けた。

エッセイ|君に届けたい僕の言葉

 文章とは不思議なものである。
 誰でも下手な文章よりは、上手に文章を書きたいと思うだろう。しかし、うまくはないのだけれども、うまい文章よりも心に響く言葉というものがある。

 だいぶ前のことだが、新渡戸稲造の「武士道」という本を読んだことがある。その中に、プレゼントを手渡すときの西洋的な発想と日本的な発想の違いについて述べた箇所がある。

 日本人がプレゼントを相手に手渡すとき、「つまらないものですが」「もしよろしければ」と前置きすることが多い。それに対して西洋的な発想では、「これは君に最善のものだから」「いいものだから」というような言葉を添えて手渡す。

 日本的な発想の裏には「君は素晴らしい人だから、どんな物を差し上げても、君という存在には劣る。だから、このプレゼントは私の気持ちを伝える印にすぎません」という想いがある。
 それに対して、西洋的な発想では、「私はあなたより劣っている。けれども、私のベストを尽くしてこのプレゼントを差し上げます」という想いがある。

 どちらがより優れているかということではない。どちらも相手に対して払う敬意や想う気持ちは同じである。

 今、あなたと僕は、炎天下のもとで佇んでいる。僕のもっている日傘は一本しかない。二人で入るには小さすぎる。
 僕は君に言うだろう。
「これ、差してください」と。
 君は僕に言うだろう。
「いえ、あなたが差してください」と。

 君と僕の主張は平行線だ。結局、僕たちは日傘を使わないことにして、お互いに声をかけあった。

「今日は暑いね」
「今日は暑いですね」


 「今日は暑い」なんて、小学生でも言うことができる。何のひねりもなく、文学的な表現でもない稚拙な言葉だけれども、気持ちに届く言葉だ。日傘1本が炎天下のもとで、何の役にも立たないものになってしまったけれど。

 うまい文章なんて、頭がいい人なら心に思ってなくても書くことができる。けれども、決してこころに響くことはないだろう。
 うまくなくてもいい。稚拙な言葉でも、こころに響く言葉を書いてみたい、聞いてみたい。


 これはちょうど1年くらい前の夏、公園の木陰のベンチに座りながら、10分程度で書き上げて、そのまま投稿した僕の記事だ。

 とても暑い日だった。別にネタに困っていたわけでもないが、ふとかつて読んだ本を思い出して、いい話だったなってね。

 本当だったら、家にまだ捨てずに持っている本だから、ちゃんと引用して書いたほうがよかったのかもしれない。でも、その時に思い浮かんだ言葉のままに書き上げたほうが伝わるものがあるような気がして。


 たまにふと、去年のいま頃はいったい何を書いたんだろうって、僕は自分の過去記事を読み返したりする。
 noteを書き始めてまる2年が経って、それなりにたくさん文章を書いてきたから、今のほうが過去の自分よりすこしはましになったと信じたいが、果たしてどうなんだろう?

 最初の頃のように、自分の書きたいことを書きたいままに、つづれているだろうか?
 自分に素直になれているだろうか?
 
 なんかね、言葉だけはたくさん思い浮かぶんだけどね、着実に死へ、一歩一歩進んでいる自分がいる。
 明日、もし、この世から僕が消えてしまうとしたら、いったいどんな言葉を残したいと思うのだろう?

 人間、いつ死ぬかなんて、わからないではないか?
 事故、災害に遭遇するかもしれない。自ら命を断とうと思うかもしれない。未来は変えられると信じている人も多いが、未来はもうすでに決まっていて、そのレールの上を歩んでいるに過ぎない。そんなふうに思うことも多い。

 今、君はどこで何をしていますか。あの頃は楽しかったよ。さようなら。





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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします