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ペトリコールの共鳴 | [創作大賞感想]



 
 物語を読むとき、その読者である自分をどの登場人物に投影して読むかによって、作品の感じ方は変わる。

 ももまろ作「ペトリコールの共鳴」を読むとき、あなたは誰に自分を投影しただろうか?

 キンクマだろうか?タツジュンだろうか?それとも他の人物だろうか?

 物語の冒頭は、タツジュンのモノローグで始まる。だから、読者はタツジュンに自己を投影して「ペトリコールの共鳴」を読み始めることだろう。

 だが、物語が進むにつれて、いつの間にかキンクマに感情移入している自分に気がつくことだろう。
 キンクマを通してタツジュンを見て、笑ったり泣いたりすることになる。

 作者には作者の思いがあるだろう。タツジュンを主人公とするビルドゥングスロマーンとして読むのか、それともキンクマを主人公とするビルドゥングスロマーンとして読むのか?

 私がペトリコールを読んでいて想起したのは、漱石の「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」だった。

 動物を視点として読めば、「吾輩」のように思える。しかし、私には、「ペトリコール」を読んでいると、「吾輩」というよりもむしろ、「坊っちゃん」のような小説なのではないか、と思えてきたのだ。

 漱石「坊っちゃん」を読む者は、「坊っちゃん=夏目漱石」として読むことだろう。
 しかし、坊っちゃんは数学教師であり、夏目漱石ではない。漱石にいちばん近い経歴を持つのは、坊っちゃんではなく、「赤シャツ」である。

 物語を読むとき、私たちは無意識であれ、意識的であれ、「主人公=作者」だと思いがちである。
 だから、「ペトリコール」で言えば「ももまろ=タツジュン」あるいは「ももまろ=キンクマ」として、作品を読み終えた者も多いことだろう。

 しかし、「ももまろ=愛羅」だとしたら、作品の様相は一変することだろう。果たして、ももまろはどこにいるのだろう?

 もちろん、作品に登場人物というものにはすべて、多少なりとも作者の心が宿るものであり、特定の1つのキャラクターに作者のすべてが投影されていると言えるほど単純なものではないだろう。

 しかし、漱石が「坊っちゃん」でおこなったように、主人公・坊っちゃんが作者だと思わせつつ、実際のところ「赤シャツ」に漱石が自己を託していたとしたら?
 「ペトリコール」も「愛羅=ももまろ」だとしたら、ここまで透徹した突き放したような目付きで内観していたとしたら?、と考えると「ホントにすごいな」と思えるのだ。

 深読みかもしれない。おそらく誤読だろう。
 「ペトリコールの共鳴」には、読者を物語に引き込む力がある。作者・ももまろはどこにいる?、なんて詮索することは、再読、再々読してからで良いだろう。

 粗削りなところもあるが、それも「ペトリコールの共鳴」の魅力の1つになっている。作家・ももまろの次回作にも目が離せない。
 


追記


私は「ペトリコールの共鳴」第32話が好き😊。


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