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エッセイ | 議論の作法

 自分の確固たる信念と対立する考え方に接したとき、議論することがある。そのようなとき、いくら声高に自説を主張しても議論が噛み合わないことがある。

 議論を始める前にすることは、お互いの考え方の前提を探ることである。同じ前提に立てば、出てくる結論も同じになるはずだが、異なる前提に立てば、出てくる結論も異なって当然である。

 前提に関して合意できないならば、議論しても不毛だ。前提に関して合意できれば、議論する価値がある。前提が同じであるにも関わらず異なった答えが出てくる場合は、おそらく二人のうち、どちらかの論理がおかしいか、あるいは、二人とも論理がおかしいのかのどちらかだ。

 論理というものは、与えられた前提が同じならば、同じ結論を導き出せるという道標である。単に理屈っぽいことを論理と言うのではない。

海を泳ぐ生き物はすべて魚である。
クジラは海を泳ぐ。
だからクジラは魚である。

★「クジラは魚だ」

★はきわめて論理的である。
海で泳ぐ生き物がすべて魚であるならば、クジラも海を泳ぐから「クジラは魚だ!」という結論になる。

 しかし私たちは、クジラは魚ではなく、哺乳類だということを知っている。
だからといって★のような主張をする者に「非論理的だ!」とは言ってはならない。「『海に泳ぐ生き物はすべて魚である』という前提がおかしい」ことを指摘すべきだろう。


 上に書いたことは、比較的単純なことだが、日常生活で経験する議論はもっと複雑だ。

 前提条件を共有できる人との議論は、自分の誤りに気付きやすいが、こちらの前提条件というものをまったく考慮しない人とは議論にならない。

 何とか相手の前提条件を探って相手の主張に耳を傾けようとしても、それには答えようとしない。ただ自説をゴリ押しするだけ。

 自分の気分を声高に主張するのは自由だが、こちらの話をつづける気力は失せ、なるべく関わりたくない。

 論理的な思考から導き出せるのは、「~である」「~である」「~である」の連鎖だけであり、「~すべき」という結論にはならない。そこには必ず飛躍がある。

 「~である」がなくて、「~すべき」を連発する者には論理などない。




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