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小説 | 虚空の彼方に


「久し振りだね。なおくん。1年も前の約束なのに、ちゃんと覚えていてくれたんだね」

 約束の場所に、百合は僕よりも先に来ていた。僕は少し驚いた。約束の時間よりも、まだ1時間も前だったからだ。というより、百合が本当にここに来るとは思っていなかった。

「忘れるわけない。ぼくはあれから、1日も、百合のこと、忘れたことなかったんだ」
 僕は少し気色ばんでしまった。悪い癖だ。

 百合は伏し目がちになった。しばらく沈黙が続いた。ようやく百合が口を開いた。

「そうなんだね。忘れてたかと思った。私のこと、面倒くさい女だと思ったでしょ?もう別れた間柄なのに、いまさら会ってどうするんだろうって」

 百合はゆっくりとした口調で、非難するわけでもなく、冷静に言った。そのときはじめて、百合は僕の目を潤んだ瞳で見つめた。なにと言ったらよいのか、言葉が浮かんでこなかった。1年間も溜め込んできた言葉でいっぱいだったのに。

「わたしね。1年前、なおくんのこと、さんざん責めたでしょう?でもね、ほんとは、なおくんのこと、そんなに責める気持ちはなかったの。ただ、あのときは手術後の間もないときだったから。」

 百合の声が涙声になった。

「あの日、ほんとうはね、なおくんにも病院の中で待っていてほしかったんだ。でも、先生はそれはできないと言ったから。やっぱり手術やめてほしいと言われても困るから、相手の男性の方の立ち合いはお断りしているって言われて」

 百合は話し続けた。

「あの日は本当につらかった。覚悟して、服を着替えて、静かに手術を待っていた。冷静なつもりだった。でもね、待っている最中にさ、遠くの産室から喜ぶ声が聞こえてきて。赤ちゃんて、みんな祝福されて生まれてくるのに。なんで、私は自分の赤ちゃんを殺さなければならないんだろうって思うと、悲しくて、悲しくて」

 百合は震える声で話し続けた。

「わたしにだって、責任があるのは分かってる。でもね、体が傷つくのは私だけだし、精神的に辛いのも私のほうだし」

「ぼくだって、同じくらいつらかったんだ」という言葉が脳裏をよぎったが、ぼく自身が空々しい言葉だと気がついて、なにも言えなかった。ぼくの言葉はいつも口先だけで軽い。百合のことだけをこの期に及んでまで考えることが出来ない自責の念に駆られた。

「生理が遅れるのは、よくあることだし。でも、乳首が張ってくると、張り裂けそうな気持ちになった。なおくんはちゃんと事実を受け止めてくれているんだろうか、ってね。でも、たぶん、わたしたちはさ、親になんかなれないんだよね。本気で産みたいと思えば産めたんだからさ。お互いに自分のことで精一杯だったから」

 ぼくは、ただ、百合の話を聞き続けるしかなかった。

「なおくん、わたし、なおくんの話も聞こうとしてここに来たけど、もう少しわたしのほうからしゃべってもいいかな?」

「なおくんに会うのって、手術の日以来でしょ?手術の1か月後、経過を見るために病院に行ったとき、先生から、『おなかの中、きれいになっていますよ』って言われたの。すごくせつなかった。だって、自分のお腹の中の子供がいなくなって、『お腹の中がきれいになりました』なんて言われたって、どう反応したらいいの?」

「納得していた、そのつもりだった。やっぱり、わたしたち、ダメなんだよね」
 百合はここまで、ほとんど淀みなく語った。

 ぼくは、何か百合に伝えなければ、と思ったものの、結局なにも言えなかった。ことごとく、何か言おうとしても虚しさばかりがつのった。

「じゃあ、線香に火をつけるね」
 そう言うのが僕の精一杯の言葉だった。

「うん」

 ライターでともした線香の煙が、ゆっくりと漂いながら、上空へのぼっていった。

 この世の空気を1度も吸わせることなく、闇に葬ってしまった我が子は、わたしのことをどう思うだろう?


 ぼくと百合はずっと、線香の日が燃え尽きるまで、ずっと煙の流れをぼんやりと見ていた。

「なおくん、今日だけ、もう少しだけ一緒にいてくれないかな?あそこのベンチに一緒に座ってくれるだけでいいから」

 徐々に日没に近づきつつあった。
 本当に百合は、二人でベンチに座ってから、一言も発することがなかった。だが、少しずつ寒さが増してきたとき、そっとぼくの手を求めてきた。ぼくは肩に手をかけて、百合を抱き寄せてキスをした。百合は抵抗しなかった。

「こんなふうに、会うたびにキスしていたこともあったね。なんか懐かしいな。そんなに昔のことでもないのにね」

「そうだね。百合に会うのがいつも楽しくて」

 百合はぼくの手を握ったまま、視線をそらした。


 手術のあった日、本当は百合は病院に泊まる予定だった。ぼくは病院まで百合を送っただけだった。中には入らないように言われていたから。
 また明日にならなければ会うことは出来ないから、そのまま帰ろうとしたが、近くにいなければならないという気持ちもあり、なにも出来なくても出来る限り百合のそばにいようと思っていた。

 日没の時間が近づいてきて、また明日改めてここに来ようと決めたとき、電話が鳴った。百合からだった。

「やっぱり私、病院には泊まれない。なおくん、迎えに来てくれないかな?」

「わかった。今すぐに行きます」


 玄関前で百合を待った。泊まる予定だったのに、なぜ帰ることになったのか?

「あぁ、来てくれたんだ。来ないと思ってた」

「そんなことはあり得ない」と次の言葉を探したが、ぼくから言える言葉はなにもなかった。

「ちょっと、あそこに座って話したい」

 少し先に見えた公園のベンチを指さして百合が言った。

「あのね、本当は今も手術からまもないからゆっくり休みたいの。先生からも『無理しないほうがいいよ、今日は泊まっていきなさい』って言われたの」

 しばらく沈黙したあと、百合は泣き崩れながら言った。

「耐えられなかった。手術自体は麻酔をうたれたあと、気がついたら車イスにのせられていて。部屋に横になった。頭は朦朧としているし、そのまま、眠りたい気持ちだった。だけど…」


「私は耐えられなかった。遠くから、赤ちゃんの産声が聞こえてきたり。歓声が聞こえてきたり。この病院ってさ、赤ちゃんが生まれてくるためのところだよね。そして、私のまわりにいる人は、人生の中でも、最高の1日を過ごしている。なのに、私だけ、1人だけ、人生最悪の日を迎えている。みんなは、みんなに囲まれて祝福されているのに、私のまわりには誰もいない。むなしくて、むなしくて、何のために私は生きているんだろう?なんのために私は生まれて来たんだろう?そればっかり考えてた。こんな喜びの声しか聞こえて来ない部屋で、私1人だけ、誰からも祝福もされないで、一晩中過ごすなんて出来るはずがない」

 ぼくには、なにも言う言葉がみつからなかった。


「なおくん。もう帰っていいよ。私にはもうなにも用事はないでしょ?」

「いや、百合の家まで送るよ。ゆっくり休んだほうがいい」

「なおくん、本気で言ってるの?なんか友だちから聞いていた話とは違うなぁ」

 百合は憔悴しつつも、少し驚いた表情で言った。

「違う?違うってなにが?」

「私の友達はね、妊娠がわかったことを話した時にすぐに捨てられたって言ってた。車から降ろされて、それっきりになったって」

「そんなことぼくには出来ない」

 百合は少し考えたあと、こう言った。

「もしかして、私はともくんから愛されていたのかな?」

 なぜそんなことを今さら言うのだろう?

「百合のことはずっと好きだった。今も」

 好きとは言えても、愛してるとは言えなかったもどかしさを感じながらぼくは応えた。

「そうだったんだね。私は今朝、病院の中に入った時には、もう二度とともくんに会うことはないんだろうな、と思ってた。私が赤ちゃんをおろしたら、私はともくんとは何の関係もない女になると思っていたから。今もちょっと信じられない。こうやって、ともくんと普通に話をしていることが」

 思ったより百合は、体力がありそうだったが、今朝の今だから、そろそろ百合を自宅まで送らなければ、とぼくは思い始めた。

「そろそろ、帰ろう。タクシーを呼ぶから、自宅まで送るよ」


 しばらくして、タクシーが来た。百合の手をとり、一緒に乗り込んだ。行き先をドライバーに告げたあとは、お互いに終始無言だった。

 タクシーが到着して、二人で一緒に降りた。百合の家はここから、目と鼻の先だ。

 ゆっくりと百合のアパートの前まで、手をつなぎながら歩いた。

「ともくん、ありがとう。これで最後だね」とつぶやくように百合が言った。

「いや、少なくても百合が回復するまでは、また来るよ」
 その時出てきたぼくの精一杯の言葉だった。

「悪いけど、いいや。私はともくんのことより、殺してしまったこの子のことを考えていたいから。でもさ、この子に私たちは誕生日すら与えず、別の世界へ送ってしまった、それは可哀想すぎる。だから、今から1年後、また3人で会いたい。今はつらすぎて、それ以上のことを考えられない。このまま、ともくんと会い続けても、お互いに傷つけ合うだけだし、この子には、お父さんとお母さんが喧嘩してるところなんか、見せたくないの」


「もうあれから1年経ったんだね。もうお互いに前を向いて歩いていかなきゃね」と少し凍えながら、百合がつぶやいた。

「手術の前に、ともくんが私のことをちゃんと愛してくれていると、思えていたなら、私はあの子を産んでいたと思う。ともくんに愛されていないかもしれない、って自信が持てなかったの」

「いや、それは違う。ちゃんと百合を見ていなかったぼくが悪いんだ」

「あの子が今、戻って来てくれたら、私、絶対あの子を産みたいのにな。なにを言っても、後の祭りだね。一緒にいると、お互いにつらくなるだけだし、前に進めなくなるから、私たち、会うのは今日で終わりにしましょう。幸せになっちゃいけないんだよ。私たちはもう。ただ、あの子のことを忘れたら、それがいちばんあの子に申し訳ないことだから、ただ生きていくために生きていこう」


 もうあの子のことは取り返しがつかない。ぼくがいけなかったんだ。もうこれ以上、考えていることが出来ないという瞬間が訪れてもなお、百合に産んでほしいと、積極的に言ってあげることが出来なかったのだから。

「なおくん、なおくんはまた幸せになれるよ。私は自分の体の中に、あの子がいた時の感触がまだ残ってる。たぶん、それはずっと忘れることは出来ないし、忘れてはいけないことだと思っているの。でもね、これは嫌味でも何でもなく、なおくんには、この子と一心同体だった時間はない。それに、お腹の中にこの子がいたときも、なおくんにはお腹を触れさせなかったし。だから、なおくんは今日ここで私と別れたら、ぜんぶ忘れてくれていい。この子のことは、私だけが記憶してるだけでいい。なおくんにはもう、私のことで苦しんでほしくないの。さっき『私たちは幸せになっちゃいけない』って言ったけど、せめてなおくんには幸せになってほしい。この子もその方が喜ぶと思うの」

 ぼくは百合の決心を感じた。けれども、ぼくも百合と同じ十字架を背負って生きていきたいと思った。

「最後にさ、もう一本だけ、線香に火を灯しましょう。燃え尽きるまで、二人であの子に謝ろうね」

 僕たちは一緒に線香に火を着けた。
 気がつけば、辺りはもう既に暗闇に包まれていた。
 線香の小さな明かりと、星の光以外、ほとんどなにも見えなかった。

 線香の煙がゆらゆらと星空へ登っていくのが微かに見えた。
 その時、ぼくと百合は、たしかにあの子の声を聞いていた。ひときわ輝く星が一つだけハッキリと見えた。


なつかしいよ、お母さん。
となりにいるのはお父さんだよね。

お線香の煙りにのってきた
お母さんのなつかしい香り。

最後に病院で
お別れしてから
ずっと探していました。

空中を漂って
一年間ずっと探してたんだ。
でも、ようやく今日出会えた。
うれしいよ。ほんとうに。

わたしがつらい思いをしないように
お母さんとお父さんは
わたしが生まれてこない
つらい選択をしたんだよね。

お父さんとお母さんは
世界中でいちばん好きだよ。
こんなにやさしい人
ほかにはいないと思うから。

わたしと同じように
お父さんとお母さんから
はぐれてしまった子は
たくさんいるから
心配しないでね。

わたしの一年間いた虚空には
男の子も女の子もいません。
だから、恋だとか愛だとか
わたしにはよくわかりません。

男の子のお父さん。
女の子のお母さん。
違う性別の世界に住む人が
この世では出会ってしまうこと。
一年間、学んできました。

わたしには性別なんてないから
お父さんとお母さんの間に
起こった出来事は
ほんとうのことを言うと
よくわからないんだ。

でもね、お母さんも
お父さんも
わたしのことを
真剣に考えてくれました。
感謝しています。

この世では
お父さんやお母さんよりも
早く死んでしまった子は
天国には行けないと
言われていますね。

でも、今日この場所で
お父さんとお母さんとわたしと
3人いっしょになれた奇跡。

わたしは
この奇跡を胸に刻んだから
お父さんとお母さんのことを
ずっとずっと
忘れることはないでしょう。

わたしが真ん中にいて
右手でお父さんの
左手を握って
左手でお母さんの
右手を握ること。

わたしには
もう体がないから
両手で
お父さんとお母さんの
ぬくもりを
感じることができません。
それだけが
わたしの心残りです。

一年間
別の世界へと
引き寄せられながら
なんとか
踏みとどまってきたけれど
もうこれ以上
この世に
とどまることは
できないみたいです。

だんだん
暗くなってきましたね。
お母さんも
お父さんも
寒いよね。

わたしもなんだか
眠くなってきました。

もうわたしのことは
忘れていいからね。
もうわたしは
お父さんとお母さんとは
会うことができないけど
二人がずっとずっと
仲良くしていてくれたら
わたしはほんとうにうれしいよ。
さようなら、お父さん。
さようなら、お母さん。
元気でね。



…おわり


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