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■読書日記<第11回>ノンフィクションとフィクションとのあいだ

地政学的リスクの高い中央ヨーロッパで戦争が始まりました。これによって、政治、社会、経済など、いろいろと世界の構造が変わっていくようです。国際的には、米英の相対的な地位が下がり、ますます中露の存在感が高まることで世界の多極化が進み、種々の軋轢が進むのでしょうか。とにかく、ウクライナ侵攻がアフガニスタン情勢のように泥沼化しないことを祈ります。
呑気に読書を楽しんでいいのだろうかと、後ろめたい気もします。困ったものです。

≪今月の購入リスト≫
『感染症としての文学と哲学』福嶋亮大(光文社新書)
『セレンディピティ 点をつなぐ力』クリスチャン・ブッシュ(東洋経済新報社)
『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬(早川書房)

※大垣書店烏丸御池店にて購入
「『戦場のメリークリスマス』知られざる真実」WOWWOW「ノンフィクションW」取材班/吉村栄一(講談社/発行:東京ニュース通信社)
『ロシア革命100年の謎』亀山郁夫×沼野充義(河出書房新社新書)
『人間を守る読書』四方田犬彦(中公新書)
『シナリオ 神聖喜劇』原作:大西巨人/脚本:荒井晴彦(太田出版)

※丸善京都本店で購入(『人間~』『シナリオ~』の2点は、同店催事の古本市にて)
『マルクス「資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』斎藤幸平+NHK「100分で名著」制作班・監修/前山三都里・マンガ(宝島社)
※紀伊國屋書店あらおシティモール店にて購入
『増補普及版 日本の最終講義』鈴木大拙ほか(KADOKAWA)
※くまざわ書店京都ポルタ店で購入。2020年の刊行時には定価4,950円でした。それが増補されて半額(1,980円)となると、つい買ってしまいます。今後、「普及版」とすれば、一般書(専門書)の文庫化のようなものになるでしょうか。

■2月19日
『戦争は女の顔をしていない』⇒兵士として戦った女性たちの貴重な証言録

『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)というスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの著作があります。第二次世界大戦に従軍した(旧・ソ連下100万人とも言われます)女性たちへの聞き取り調査をもとに執筆されたものです。

延べ500 人にものぼる女性たちの声に圧倒されます。この後に続く著者のノンフィクション・シリーズの一作ですが、「新しい文学ジャンルの功績」として2015年にノーベル文学賞を受賞しています。文学として評価されたのが、きわめてユニークだといえます。まさに「生きている文学」「生き続ける文学」だそうです。
本書は、男のものだとされる戦場に「母なる祖国」を守ろうと自ら志願し、兵士として赴き、戦中、戦後を通して女性であるがゆえの苦労を重ねた女性たちの証言録でした。銃後や生活者として、母として妻としての回顧録は多数ありますが、女兵士として戦った証言録は貴重です

―――思い出す。夜、土壕の中に横たわっていて、どこかで砲声が聞こえる。どうしても死にたくなかった。そりゃ、軍隊で宣誓したわ、「必要ならば命も投げ出す」って。でも、どうしても死にたくない・・・。生きて帰っても心はいつまでも傷んでいる。今だったら、足とか手をけがしたほうがいいと思うね。身体が痛む方がいいって。心の痛みはとても辛いの。私たち、まったく子供のうちに戦場に行ったんだからね。小娘で。戦争中に背が伸びたほど。母が計ってくれたけど十センチも伸びてたわ。
―――「洗濯女でもなく電話係でもない女狙撃兵‼そんな女の子を見るのは初めてだ」・・・曹長は「戦争で心をゆがめられないように、五月のバラの花のように娘たちのままであるように」という意味の詩を捧げてくれました。私たちは恋愛はしない、すべては戦争が終わってから、と誓って出征したんです。戦前、キスもしたことがなく、こういうことは今の若者よりもっと厳格に考えていたのです・・・しかし、私たちは恋を胸のうちで大切にしていました。恋愛はしないなんて子供じみた誓いは守りませんでした・・・恋をしていたんです・・・もし、戦争で恋に落ちなかったら、私は生き延びられなかったでしょう。恋の気持ちが救ってくれていました、私を救ってくれたのは恋です・・・
―――死ぬのはこわくありませんでした・・・若かったし、ほかにも何かがあったんでしょう。いたるところに死の臭い、死と隣り合わせ、それなのに私は死のことを考えていませんでした。死は翼をひろげてすぐそばで舞っていたのですが、いつも通り過ぎてくれていました。・・・「勇気を称える」メダルをもらったのが十九歳。すっかり髪が白くなったのが十九歳。最後の戦いで両肺を撃ち抜かれ、二つ目の弾丸が脊椎骨のあいだを貫通し、私の両脚が麻痺して私は戦死したとみなされたのが十九歳でした。十九歳の時に・・・
―――私は罰を受けている・・・でもどうして? もしかして、人を殺したから? 時々そんなふうに思います。年をとると、昔より時間がたくさんあって・・・あれこれ考えてしまう。自分の十字架を背負って行くんです。毎朝、ひざまずいて、窓の外を眺める。みんなのことをお願いするの。すべてを。夫を恨んではいないわ。私が女の子を産んだ時、彼はしげしげと眺めて、少し一緒にいたんだけど、非難の言葉を残して出て行ったんです。「まともな女なら戦争なんか行かないさ。銃撃を覚えるだって? だからまともな赤ん坊を産めないんだ」私は彼のために祈るの。もしかして彼の言う通りかもしれない。そう思うことにする・・・これは私の罪なんだって・・・私はこの世で何よりも祖国を愛していた。私は愛していたんです。誰にこんなことをいま話せます? 自分の娘・・・あの子にだけ・・・私が戦争の思い出話をすると、あの子はおとぎ話を聞いているんだと思っているんです。子供用のおとぎ話を。子供のおそろしいおとぎ話を。
―――わたしも長いこと信じられなかった。我が国の勝利に二つの顔があるということを、すばらしい顔と恐ろしい顔が。見るに耐えない顔が。わたしにはわたしなりの戦争があった・・・

証言録、文学という連想で思い出したのが、石牟礼道子『苦界浄土 全三部』(藤原書店)でした。こちらは第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したにもかかわらず、著者が辞退した作品です。

後年、創作もあったから賞を辞退したのだろうと渡辺京二(評論家)さんは明かしています。もちろん、それで本作の価値が、いささかも貶められるものではありませんし、時代が違えばノーベル文学賞も夢ではなかったかも(?)と思います。
水俣病に冒された患者さんたちの「生の声」ということでは打ちのめされる作品であり、とくに第1部の「ゆき女きき書」「天の魚」「地の魚」を読んだときの衝撃は忘れられません。引用は控えます。
ちなみに石牟礼道子には、『完本 春の城(アニマの鳥)』(藤原書店)という、1637年の島原の乱という百姓一揆であり、同時に切支丹の信仰を守るための戦いを描いた小説があります。

この作品では、優しいけれど男顔負けの肝っ玉母さんのような存在である「下働きのおうめ(50歳)」の登場が忘れられません。仏教徒でありながら、慈悲深い観音様とマリア様との母性的和解を願って一揆に加勢します。この小説もまた、日常を司る女性たちの感動的な戦(いくさ)の話しでした。
本作品の構想を尋ねられて石牟礼道子は、こう答えているそうです。「知り合いが病気すると“もだえてなりともかせ(加勢)せんば”と言う人がいる。何もできないけれど、治ってほしいといういちずな思いが病人の力になれば、という意味。今の世の中が忘れている心ですが、そんな人たちの中にキリスト教が入っていった。失われた日本人の魂を書きたいと思います」。そのとおりの小説でした。

『戦争は女の顔をしていない』について考えてみたいと思ったのは、先のアレクシエーヴィッチの取材法に関して、沼野恭子(ロシア文学者)さんが「100分で名著」で提示した「共感=empathy」エンパシーの力に関してです。沼野さんは著者の、憐れみを意味する「同情=conpassin」ではなく、対等な立場で他者の苦しみや悲しみを共感できる優れた感性を賞揚しています。
とはいえ近年、「共感」することに関しては疑義が呈されているそうです(アメリカの心理学者ポール・ブルーム著『反共感論』白揚社)。それは「共感」が必ずしもよいものとは限らず、感情的なものだけに危険でもあるからです。沼野さんはアレクシエーヴィッチの手法は、その批判に値しないと言います。
ここでのポイントは、本書で得られた証言の圧倒的な絶対数でした。何百という証言にあたり、一人ひとりに共感し、互いに矛盾があってもありのままに受け入れ、「そうすることで、無数の声が全体として一つの有機体、生き物のようになって、お互いの矛盾しているところを少しずつ浄化していくと彼女は語りました」。うーん、もう少し考えないといけません。

最後に、またまた長くなりますが、たまたま思い出したので、大平数子(詩人)のヒロシマ原爆詩『慟哭』を採録します。女優・吉永小百合さんのCD『第二楽章』(ビクターエンタテインメント)を購入して知りました。アルビノーニのアダージョ・ト短調曲をBGMにした、一度聴いたら忘れられない朗読です。いくつかの詩や断片を組み合わせた作品となります。

慟哭 大平数子
逝(い)った人は帰ってこれないから。逝った人叫ぶことができないから。逝った人は嘆く術(すべ)がないから。生き残った人はどうすればいい。生き残った人は何が分かればいい。生き残った人はかなしみを千切って歩く。生き残った人は思い出を凍らせて歩く。生き残った人は固定した面(マスク)を抱いて歩く。
夜をこめて、板戸を叩くは風ばかり、驚かしてよ吾子(わがこ)の帰ると。
今日はいずこへ行くやら。
原爆より三日目、我が家の焼け跡に呆然と立ちました。めぐりめぐって尋ねあてたら、まだ灰が熱うて、やかんを拾うて戻りました。でこぼこのやかんになっておりました。「やかんよ聞かしてくれ、親しい人の消息を」。やかんが可愛ゆうて無性に無性に擦っておりました。
坊さんが来てさ、黒い着物を着てさ、鐘を鳴らしはじめると、母さんに見つめられて、明るい燈明の向こうに、おまえたち照れているのさ。ポロ、ポロ、糸水仙の匂う下で、母さんに叱られたとき、お前たちやったように、ちょっと泣きそうな顔なのさ。
他所(よそ)の国から人が来て、何んとかいう鐘を吊っていんだげな。偉い人が来て、橋のような墓をたててくれたげな。「安らかに眠って下さい」言うたげな。
まだよう寝んと、今夜も、わたしと歩くんかい。
月夜。もう寝たかい、もう寝たかい、まだかい、もう寝たろう、早う、寝てくれよ。
呼んでいる、誰かが呼んでいる、向こうの方で呼んでいる、崩れながら、寄せてきながら。母(ママン)――どこかで呼んでいる。母(ママン)――沖の方で呼んでいる。
夕方。花屋の前を通ると、花たちが一斉にこっちを見る。チューリップもスイートピーもアネモネもヒヤシンスも、それからフリージャも、みいんな手を出して、連れて帰ってくれという。母さんに抱かれていたい言う。
夕焼け、小焼け、あーした天気になあれ。からすが泣き泣き帰ったよ。みいこちゃん家に灯りがついた。さあちゃん家に灯りがついた。しょうじ(昇二・次男)ん家に灯りをつけよう。やすし(泰・長男)ん家にも灯りをつけよう。
失ったものに。街にあったかい灯が点(とぼ)るようになった。ふか、ふか、ふかしたての麺麭(パン)が陳列棚に飾られるようになった。中学の帽子が似合うだろう。今宵かじるこの麺麭を食べさしてやりたい。腹いっぱい、食べさしてやりたい。女夜叉になって、おまえたちを殺した者を憎んで、憎んで、憎み殺してやりたいが、今日、母さんは空になって、おまえのために鳩を飛ばそう。豆粒になって消えて行くまで、飛ばし続けよう。
―(中略)―
子どもたちよ、あなたは知っているでしょう。正義ということを。正義とは剣(つるぎ)を抜くことでないことを。正義とは「愛」だということを。正義とは母さんをかなしませないことだということを。みんな、母さんの子だから。子どもたちよ、あなたは知っているでしょう。

まったく、「正義」という徳に思いを馳せることのない人たちに聞かせてやりたいものだと思います。もちろん、私も普段からぼんやりですので、反省します。

■2月23日
『コリーニ裁判』⇒現代までも残るナチスとパルチザン傷痕の書

大学の先輩に誘われて女性ばかりの深夜に及ぶオンライン読書会に参加したのをきっかけに、フェルディナント・フォン・シーラッハ著『コリーニ裁判』(創元社文庫)を読んでしまいました。
まったく知らない著者でしたが、ドイツのいまに続くナチス犯罪弾劾につながる、とんでもない小説でした。私は大学では、いちおう法学を専攻していましたが、なぜか最近になって刑事裁判の話を続けざまに読んで、いろいろ考えさせられました。果たして人間の罪を人間の法が裁くことができるのかと。


この法廷推理小説『コリーニ裁判』では、ところどころ若き主人公の苦悩に身をつまされます。頭脳明晰、優秀な新進弁護士・ライネンと敵役の老練な弁護士・マッティンガーという設定から、最後は主人公が勝利する予定調和的な勧善懲悪ミステリーかなと思いながら読んだのですが、大団円ののち、この小説発刊後、現実のドイツ連邦法務省まで動かすことになったそうで、びっくりです。
現代の殺人事件から古きよきドイツの時代(主人公の少年期)、さまざまな家族、友人との別離を経て、第二次世界大戦時のイタリアでのパルチザン運動、ナチスの弾圧、凄惨な戦時下の悲劇、家族愛、自殺、何があっても生きていかなければならないということ等など、もうネタバレになりそうなのでやめておきます。
なんとなく、村上春樹やスコット・フィッツジェラルド(グレート・ギャツビー』中央公論新社)の影がちらほら垣間見え、『コリーヌ裁判』のエピグラフで引用されたヘミングウェイの猟銃自殺も物語に関わりがありそうで、野心的な文学を志向しているようです。とにかく著者は、この本が書きたくて作家になったのではないでしょうか。

■3月4日
『戦争と平和』⇒無謀にもトルストイに挑む

1853年1月、25歳のトルストイは、ロシア軍4級砲兵下士官としてカフカーズ地方(ロシア帝国南西端、黒海とカスピ海にまたがる山脈あたり)のチェチェン人討伐作戦に参加していました。そこでトルストイは、人間の不正義と罪悪について初期の日記に認めています。「戦争参加者は良心の声を押し殺そうと努めている。わたしの行為は果たして正しいか?

近代の世界文学の最高峰となると、それはレフ・トルストイの『戦争と平和』(岩波文庫)となります。端的で壮大な主題から登場人物の総数(500人!)の行く末まで、映画やTVドラマを観て粗筋が理解できたとしても、小説(歴史・哲学・思想)自体の全容は、とても汲めども尽きせぬ気がします。それでも、いつかは、ちゃんと読んで考えてみたいものです。
トルストイの小説はまた改めてと思い、埃のかむっていた次の作品、『コザック ハジ・ムラート』中村白葉・翻訳/辻原登&山城むつみ・編集(中央公論新社)に取り組みます。この項、次回に続く(かも)。

■3月5日
『人間を守る読書』⇒本の読み方は難しい

せっかくなので、今月購入した『人間を守る読書』から、「読書」についての箇所を備忘録として写します。

―――本を読むさいにもっとも理想的な読み方とは、勉強とも仕事とも無関係に読むことである。ただ好きな本だけを気の向くままに読み、途中で飽きたら放り出し、またその気になったら手に取り直すといった、気ままな戯れのうちに読むこと。雨が降って外に出たくない日、本棚から雑然と何冊もの書物を取り出して、ベッドのなかで読み続ける。読んでいるうちに、あれはこうだろうとか、これはどうだったっけなといった考えが浮かんできて、思いもよらぬアイデアに結実することがある。魂は気ままに遊んでいるように見えて、実は見えないところで探求を続けていたのだ。
―――書物を手にとって読むというのは、人間のあらゆる知的活動のうちにあって、もっとも基本的なものである。インターネット時代に書物などもう古いという人がいたら、わたしは尋ねてみたい。いったい牢獄にパソコンを持ち込むことができるかと。電気が断ち切られてしまった難民キャンプで、キーボードが打てるのかと。

実際に書籍を手にする基本は大事だと思います。四方田犬彦さん(評論家)の作品は、中上健次の評論『貴種と転生・中上健次』(新潮社)を読んだのが最初ですが、漫画、映画、韓国など、どのテーマのものを読んでも、本当に刺激的な著者だと思います。

■3月6日
『道をひらく』⇒初版1968年、おかげさまで271刷551万部

このコロナ禍が終わったあとには、さまざまな分野で検証がなされることと思います。果たして世界では、どんな著作が刊行されることになるのでしょうか。政治、経済、医療、哲学、文学、美術……大いに期待したいものです。
北京冬季オリンピックでの日本勢の最多メダル獲得は、明るい話題でした。さらに嬉しいことに今月には、ようやく甲子園で選抜高校野球をリアルで観戦できそうです。

松下幸之助の著作『道をひらく』を先日、日本テレビの番組「世界一受けたい授業」で作家・今村翔吾さんに紹介してもらいました。そこでは本のみならず、『道をひらく』をベースに読書会で学ぶ「松下幸之助女子会」の活動まで採り上げていただき、本当にありがたいかぎりです。感謝しかありません。

『道をひらく』は日本におけるビジネス書の歴史のなかでも、もっとも売れた文字どおりベストセラー書籍です。未読の方は、ぜひお手に取ってご覧ください。こっそりお伝えしますと、日本全国には、書店さんによってさまざまなバージョンのオリジナル表紙カバーのものがあったりします(時期は前後しますが、およそ40種ぐらいでしょうか?)。お近くの書店店頭でご確認いただければ幸いです。

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