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【試し読み】AI社会の恐怖。衝撃のサスペンス! 福田和代『ディープフェイク』

AIを駆使した画像合成技術「ディープフェイク」。米大統領選でもその影響が懸念された技術を題材に、クライシス小説の旗手・福田和代さんが誰の身にも起こりうる恐怖をリアルに描きます。こちらのページでは第2章までを公開します。

ディープフェイク書影

あらすじ

過去、生徒間の事件を解決したことからメディアに採り上げられ、「鉄腕先生」と呼ばれ、コメンテーターとしても活躍する教師・湯川。彼はある日、自分が女生徒とホテルで密会したという週刊誌報道が流れていることを知る。
さらに、「ディープフェイク(AIによる画像合成技術)」で精巧につくられた、湯川が生徒に暴力を振るっている動画もネット上に拡散。出勤停止、テレビ番組の降板、さらに妻子が家を出ていくなか、ネット上では湯川に対する大炎上が巻き起こる。果たして、湯川を陥れようとしているのは誰なのか。
そんななか、湯川の働く学校ではさらなる事件が起き――。

『湯川さん、あの写真は何ですか』
東都テレビの羽田プロデューサーが電話をかけてきた時、私は自宅のパソコンで中間テストの設問を考えているところだった。
まだ一学期。生徒はクラスに馴染み、数学担当の私にも慣れ始めたところだ。中間テストの設問は、すこし易しくするつもりだった。何人か満点を取るだろう。初めから数学に苦手意識を持たせたくない。
「あの写真とは、何の話ですか」
テストに心を残しながらも尋ねた。
『いいですか、正直に話してください。今ならまだ、上を押さえられるかもしれない。じき、手遅れになりますよ』
羽田の声は暗く、詰問口調だ。私は戸惑い、テストから羽田に気持ちを移した。
「そう言われても、何の話か本当にわからないんです」
羽田が黙り込んだ。
『――まさか、湯川さんがそんな人だとは思わなかったな』
吐き捨てるような口ぶりだった。
そのままぷつりと音声が切れ、通信は切断されていた。
「――どうしたんだろう」
羽田の口調は、完全に捨て台詞だった。電話をかけ直したが、応答しない。わけがわからず、私は彼の暴言をひとまず忘れ、テストに集中しようとした。
だが、難しかった。
(手遅れになりますよ)
天を仰いでキーボードから指を離す。あれはどういう意味だろう。
壁の時計を見ると午後十一時だ。帰宅してすぐ、レトルトのカレーを温めて夕食にした。食べながら中間テストを作り始めたので、食卓の上には汚れた食器が置きっぱなしになっている。
食器を重ね、キッチンに持ち込んで洗った。2LDKのマンションは、ひとりで暮らすには広い。妻の茜と、娘の結衣は、先週から茜の実家に帰っている。
冷蔵庫も、今の私にはもてあますサイズだ。そのドアに、マグネットで写真がいくつか貼られている。三人並んだ家族の記念写真に交じり、羽田が送ってきたテレビ収録時のスチール写真もある。
一張羅のスーツを着て、カメラマンに乞われるまま熱血教師を気取った自分のポーズを見ると気恥ずかしく、茜に剝がしてくれと頼んだが、彼女は笑って取り合わなかった。思えば、あのころから茜には何かしら思うところがあったのだろう。
写真の中の自分は、髪をスポーツ刈りにして顔立ちは面長で、太い眉を大げさに吊り上げて微笑んでいる。だがこの男は、半年後に妻が娘を連れて実家に戻ってしまうことを知らない。
そろそろシャワーを浴び、明日の授業の用意をしなければ。テストの問題は明日また考えることにして、私はパソコンを閉じた。
「湯川鉄夫先生ですね! 少しお話を聞かせてください!」
翌朝、学校の正門前で、テレビカメラを抱えたテレビクルーに待ち伏せされた。
マスクをかけたレポーターの女性が強引にマイクを突き出してくる。カメラマンの腕にはテレビ局の腕章が巻かれていたが、出勤前のこの状況は不愉快だ。
「何ですか、あなたがたは」
「湯川先生をお待ちしていたんです。今日発売の週刊手帖の記事、ご覧になりましたか」
電車の中吊り広告をよく見かける。不倫の記事が多く、ナンパな印象がある。年配の男性を中心に、よく売れている週刊誌だった。
「この記事です」
開いて押しつけられた週刊誌に、「鉄腕先生」という言葉が大きく印刷されているのを見て、ドキリとする。私のことだ。カメラが回っている。
「先生はこの少女と不適切な関係にあるという、記事の内容は間違いありませんか。この写真の光景、記憶にありますか」
「不適切な関係? あなたはいったい、何を言ってるんですか」
尋ねながら、私の目は記事の中央に置かれた写真に吸い寄せられた。私の横顔が写っている。その前に座っている制服姿の少女には目隠しが入っているが、誰だかすぐわかった。守谷穂乃果だ。この春、父親の仕事の都合で転校した少女だった。
「記事を読んでください。湯川先生が、この春まで先生の教え子だった中学三年生の少女と、性的な関係を持ったとされているんです。これは本当ですか」
「そんな馬鹿なことをするわけがないでしょう。相手は子どもですよ!」
怒りで声が裏返った。週刊誌の写真は、ホテルの一室で撮られたようだ。私と守谷は、向かい合って椅子に腰かけている。その向こうにダブルベッドが見える。ラブホテルではない。少しランクの高いビジネスホテルのようだ。だが、もちろん覚えはない。
「この少女に見覚えはありますか」
「通してください」
もとの教え子だとは気づいていたが、そんなことはうかつに言えない。生徒がどんな迷惑をこうむるかわからない。私は強引にレポーターたちを押しのけて通ろうとした。
「逃げないでくださいよ! 後ろ暗いことがあるんじゃないですか、逃げるってことは」
登校する生徒が、私たちの騒ぎを横目で見ながら、急ぎ足で校内に入っていく。校舎から、同僚の教師がふたり、こちらに駆けてくるのが見えた。
「ここは学校ですよ! 許可も得ずに、撮影するのはやめてください」
教頭の土師が、走ったせいで息を弾ませながら叱る。その􄼱に、俊敏な体育教師の辻山が私をテレビクルーから救出してくれた。
「さっさと校舎に入りましょう」
「ありがとう。助かった」
肩を抱いて走りだす。
「あれは何の騒ぎですか?」
校舎の玄関に逃げ込むと、辻山が背後を振り返り、誰もついてきていないのを確かめた。
「私にも何が何だかわかりません」
「えっ、湯川先生が出ている番組のスタッフじゃないの?」
「いきなり週刊手帖の記事を見せられました」
戸惑いながら説明を始めたところに、土師教頭が汗を拭きながら戻ってきた。
「学校の正門前で許可なく取材するとは、困った人たちだ」
「教頭、ありがとうございました。助かりました」
「湯川先生、いったい何ごとですか。生徒が職員室に駆け込んできて、湯川先生がテレビの人に捕まってると報告してくれたから、びっくりして見に行ったんです」
話しながら二階の職員室に向かった。部屋に入ったとたん、先にいた教員の何人かが、ぴたりと会話をやめて、こちらを振り返った。なかのふたりが、ごくさりげなく、デスクに広げていた新聞を畳むのが見えた。
数年前に感染症のパンデミックが起き、感染拡大を防ぐために学校が休校したり、授業をリモートで行えるよう対応したりした。ワクチンが開発され、今では少し落ち着いたが、登校できない生徒のために、リモート授業は今も一部で取り入れられている。そのための機材をいじっていた教員も、私を見て落ち着かない様子だった。
「まだいますね。週刊手帖と言いましたか」
窓から校門のあたりを覗き、教頭がぼやく。
「私の記事と写真が載っているそうです」
教頭が顔をしかめた時、先ほど新聞を畳んだ教師のひとりが、近づいてきた。
「それ、この記事じゃないですか」
開いて見せたのは、新聞の下段に出ている週刊手帖の広告だ。いつもの通り煽情的なタイトルが並ぶなか、「折れた『鉄腕先生』」という文字と、私の顔写真が目を引いた。
私たちが渋い表情になった時、若手国語教師の本村が職員室に入ってきた。
「おはようございます! そこのコンビニで買ってきましたよ、今朝の週刊手帖」
雑誌を掲げて朗らかに言った直後、私に気づいたようで狼狽した表情になる。きっと、新聞広告で気づいた誰かが、買ってこいと命じたのだろう。ずいぶん楽しそうだなと、嫌みのひとつも言いたくなる。
「それ、見せてくれないか」
うろたえながら、本村は、雑誌を手に近づいてきた。
巻頭は、大麻所持で逮捕された芸能人の記事だ。歌手や政治家の不倫、ダイエットに効果があるという食品、そんな記事に続いて、中ほどに問題の記事が載っていた。
実は、週刊誌のネタにされるのは、初めてではない。最初のころこそ好意的に取り上げられていたが、時々テレビに出るようになると、「有名税」とばかりに、ツイッターのやりとりを強調され、炎上させられた経験もある。だから、週刊誌に自分の顔写真が出ているくらいでは、そうそう驚かない。
だが、今回は嫌な気分に襲われた。
「この女の子、見覚えがある。守谷穂乃果さんではないですか」
教頭が眉をひそめる。生徒の名前をひとりひとり記憶しているとは、さすがだ。
「そうです。この春に転校しましたが」
「あの子ですね。テニス部にいた」
すらりと背が高く、クラスの女子が背の順に並ぶといちばん後ろになる。
テニス部だが、剣道部に入れたくなるくらい、涼しく凜々しい雰囲気の女子だった。
「この写真は――いや、待って」
こんな写真には覚えがないと言いかけた私を、教頭が急いで抑えた。
「話は校長室で聞きます」
プライバシーに関わることだから、教師たちがみんな耳をそばだてている場所では話すべきでないと配慮してくれたのだろう。だが、私はあえて声を張り上げ、周囲の教師たちの顔をひとつひとつ見まわした。
「この記事は、まったくのでたらめです。この写真の場所も、見覚えはありません」
きちんと説明しておかなければ、教師たちは週刊誌を信じてしまうかもしれない。
私の言葉に、教師たちは頷いたり、無表情に聞き流したり、さまざまな反応をした。これまで仲間だと思っていた同僚たちの、意外に冷淡な反応に心が冷えた。
「――わかりました。私は湯川先生を信じます」
教頭は力強く頷き、私をともなって校長室に行った。校長の末光は、今年の夏に定年を迎える予定だ。表情は和やかで、あとわずか数か月をのどかに過ごすつもりなのだろう。
「校長、問題が起きました」
教頭の説明を聞き終えるまで、校長は慎重に耳を傾けていた。のんきな校長には珍しく、眉間に深いしわを寄せている。
「湯川君、女性が守谷さんであることは間違いないのですか」
「目隠しが入っていますが、制服は当校のものですし、顔立ちから見て彼女です」
「湯川君は覚えがないというのに、この写真と記事はどういうことでしょう」
教頭の説明を聞きながら、三人で週刊誌の記事を回し読みしたところだ。
私の意見を言わせてもらえるなら、記事は覚えがないどころか、名誉棄損で告訴したくなるような内容だった。
四月の中旬、「鉄腕先生」こと私、湯川鉄夫が、三月まで担任をしていた、いま中学三年生の「少女A」とビジネスホテルに入り、そこで関係を持ったというのだ。
不快感で胃が重くなってきた。
「写真は合成だと思います。だいたい、ホテルの部屋で撮影したように見えますが、私と守谷さんしかいなかったのなら、この写真はいったい誰が撮ったものなのか」
「それもそうだ。――おや、ここに小さく、写真はイメージだと書いてある」
校長が写真のキャプションを指さすと、教頭が眉をひそめた。
「それはひどいですね。こんなにでかでかと写真が載っていたら、それだけで事実だと信じる人もいますよ。悪意を感じるな」
「湯川先生と守谷さんがホテルに入るところを、別の生徒の保護者Bさんが目撃したと書いてあるのが、気になるね。この、Bという人が週刊誌の記者に話したんじゃないかな。湯川先生、心当たりはありませんか」
「いえ、まったく」
「守谷さん以外の人と、ここに書かれている新宿のビジネスホテルに入ったり、泊まったりしたことは?」
「新宿でビジネスホテルに泊まったことはありますが、記事にはホテルの名前が書かれていませんから、判断がつきかねます。それに、ビジネスホテルに泊まる時はひとりです。誰かと一緒に泊まったことはありません」
校長が顎に手を添え、悩ましそうに首をかしげた。
「守谷さんは大丈夫だろうか。転校したばかりですよね。騒ぎに巻き込まれてなければいいですが」
「心配ですね。だいたい、目隠しが入っているとはいえ、中学生の写真をこんな記事に掲載するなんて、常識はずれだ」
校長と教頭のやりとりを聞き、自分が真っ先に守谷の状況を思いやらねばならなかったのだと気づいて、一瞬、放心した。あまりに思いがけない事態が勃発したので、まだ中学生の守谷が受けた心の傷に、思いをいたすことができなかったのだ。
だいいち、私自身がまだ、現実に起きていることだとは思えない。
「ご両親と連絡は取れますか」
教頭がこちらを見た。
「転校先はわかります。母親の携帯電話も、番号を変えてなければわかります」
「――私が、お母さんの携帯に電話しましょう。湯川先生からの電話だと、後々、痛くもない腹を探られる恐れがありますから」
教頭が状況確認を引き受けてくれて、さすがにホッとした。
私が勤務するH市立常在中学校の教頭は、いわば学校の「何でも屋」だ。朝は誰よりも早く来て、鍵を開ける。夜は誰よりも遅くまで残り、鍵を閉める。トラブルシューティングも、教頭の仕事だ。マスコミの前で頭を下げる以外は。近ごろ話題に上りやすい、モンスター・ペアレンツへの対応も例外ではない。
学校によって差はあるだろうが、だいたい教頭は似たようなもので、おかげで教頭になりたい教師が減っていると言われる。誰にでも務まる役割ではない。
「あ、守谷穂乃果さんのお母さんですか。こちらは、常在中学校の教頭をしております、土師と申します。どうも、突然お電話して申し訳ありません」
教頭が、さっそくスマホで電話をかける。スピーカーホンにすればいいのにと思うが、あまり機械に慣れていないのだろう。
「折り入ってお話ししたいことがあるのですが、今お時間はよろしいですか」
転校前の娘の学校から電話があるとは、母親は今ごろ何ごとかと案じているだろう。
教頭は、発売されたばかりの週刊手帖の記事について、相手を刺激しないよう、言葉を選びながら詳しく説明した。母親は、説明されてようやく、緊急事態の発生に気づいたようだ。
「いえ――まさか、湯川先生はそのような。はい、はい――そうです。ご存じのとおり、とても真面目な先生でいらっしゃいますから。――はい。私どもは、記事が捏造されたと考えています。穂乃果さんの写真がどこから漏れたのかわかりませんが、ともかく彼女が心配で」
校長は眉間にしわを寄せて、教頭の言葉に聞き入っている。
「今は学校に行かれているのですね。わかりました。――はい。夕方にでも、お電話いただければありがたいです。彼女には、記事は見せないほうがいいかもしれません」
学校の固定電話と、教頭自身の携帯電話の番号を教え、通話を終えた。
「守谷さんは学校ですか」
「ええ。夕方、帰宅した時に学校の様子を聞くと言われています。お母さんは記事に気づいてなかったので、今からコンビニに週刊誌を買いに行くそうです」
「今日、雑誌が出たのだから、そんなものでしょうな。周囲が気づくにしても、数日後か」
「転校先の誰かに話しておいたほうがいいでしょうか」
校長は腕組みして唸った。
「――どうしたものかな。転校の直後では、妙な先入観を持たせることにならないかな」
そっとしておいたほうがいいと、言外に匂わせている。事なかれ主義の校長らしい対処法だが、今度ばかりは私も彼に賛成だった。
「転校先の教員が、色眼鏡で守谷さんを見るようになるのも困りますね」
「そういうことだね。湯川先生、この写真に見覚えはないんですか」
校長が、週刊誌に掲載された私の写真を指差した。斜めを向いて背すじを伸ばして腰かけている。服装はスーツだ。ふだん学校に着てくるものではなく、テレビの収録時や、学校行事の際に着る一張羅だ。
「テレビに出た時の映像を使ったのかもしれません。これを着てましたから」
「なるほど。最近はテレビの画像も4Kとかできれいだから」
テレビに出るなんてよけいなことだと、以前から校長が考えていることには気づいていた。
教師は生徒のことだけ考えていればいい。教育改革だの、子どものしつけだの、テレビに出て語るのはタレントや教育評論家に任せておけばいい。そう考えているのだ。
教頭が腕時計に視線を走らせた。
「もうじき予鈴ですね。湯川先生、用意もあるでしょう。とりあえず、行ってください」
「わかりました」
私は立ち上がり、ふたりに頭を下げた。
「このたびは、面倒をおかけして」
「いや、湯川君が悪いわけじゃ」
校長が言いかけ、「まだわからんな」と思い直したような顔をした。
校長室を出て職員室に向かう間、何人かの生徒とすれ違った。
「湯川先生! おはようございます!」
元気よく手を振り、挨拶する女子がいるかと思えば、
「あっ……おはようございます」
と、尻すぼみになる声で口ごもる男子もいる。私は「おはよう!」と元気よく返事をする。
通り過ぎてから、生徒が「鉄ちゃん、今日も元気だね」と、囁きかわす声が聞こえてくる。
私は彼らに「鉄ちゃん」と呼ばれている。名前が鉄夫だからというより、雑誌やテレビがつけた愛称、「鉄腕先生」の短縮形だ。むしろ「鉄ちゃん」のほうが、温かくて親しみやすい。
私が「鉄腕」と呼ばれるようになったのは、四年前だった。
当時も今も、続けている日課がある。
仕事を終えて、学校から自宅までの道のりを、少し遠回りして繁華街など覗きながら歩いて帰るのだ。市立常在中学に通う生徒らの七割は、いわゆる中流の会社員の家庭に生まれた子どもだ。残る三割は経済弱者で、うち一割はシングルマザーだった。
親はダブルワークも辞さずに働き、子どもに目が行き届かない。ひとりっ子が多いので、学校から帰宅すると自宅でスマホゲームに熱中するか、友達と遊びに出かける。ゲームはほどほどなら害もないし、友達と遊ぶのも健康的だ。だが、夜遊びは時として危険をともなう。
ファストフードの店などにたむろし、夜遅くまで時間を忘れて話し込んでいる生徒を見つけ、帰宅をうながすのが私の日課だった。
子どもには子どもの悩みもあって、つい深刻な話題で長引くこともあるのだろうが、遅くまで戻らないと親が心配する。万が一、警察のお世話になるような騒ぎを起こすと、子どもの将来に与える影響も心配だ。生徒は唇を尖らせて不満を呟きながらも、私の言葉にどうにか従い、家に帰っていく。
四年前のあの夜も、コンビニの駐車場で口論する男子生徒を見かけた。三年生の男子と、二年生の男子だった。激しく言い争っているので、気になって近づいた。
その時、二年生の森田尚己という生徒が、ナイフで三年生を刺そうとしたのだった。
私は慌てて間に飛び込んで、自分の左腕でナイフを受けた。三年生は逃げ、私は森田を制止した。子どもの力だ。腕の傷は全治一週間、軽傷だった。
三年生が近くの交番に駆け込んだので、警察官が来た。森田はまだ十四歳の誕生日を迎えておらず、逮捕はされなかったが、警察に事情を聞かれた。ところが、親と連絡が取れなかったので、被害者の私が親代わりとして同席するという、妙な事態になったのだ。
その事件がマスメディアに流れ、私を取材した週刊誌が「鉄腕先生」として記事にした。ナイフに負けない「鉄腕」で子どもを守ったと、私の名前の「鉄夫」にも掛け、かなり話を「盛った」記事だった。
以来、自分でも怖いくらい、マスコミに登場している。
ショートホームルームに出るため教室に向かう途中で、スマホに電話がかかってきた。
いつもなら無視するが、今朝は状況が不穏だ。電話に出た。
『湯川先生? 鹿谷です』
鹿谷直哉は、東都テレビの教育に関するバラエティ番組に、一緒に出演している塾講師だ。
「ロック」という愛称で呼ばれている。
『羽田さんから話を聞いて、驚きました。大丈夫ですか』
「私も寝耳に水で。今日出た週刊誌に、記事が載っていて驚いています」
『週刊手帖ですね。湯川先生は、身に覚えがないのでしょう?』
探りを入れるような聞き方だ。
「当然ですよ。なぜあんな記事が出たのか、わけがわからない」
『嫌がらせかもしれませんね。湯川先生は目立つから』
「やっかみを受けるようなことは、何もないんですが」
『世間はそう見ないものですよ。ともかく、落ち着いたらまた話しましょう。安心してください。遠田先生も僕も、湯川先生の味方ですから』
「ありがとう。心強いです」
ロックは羽田プロデューサーに頼まれて、探りを入れたのかもしれない。塾講師のロックと、教育評論家の遠田道子は、羽田の番組『ソフィアの地平』の出演者だ。
三人そろってほぼ毎週、番組に出ている。
私より少し若いロックは、俳優にしたいような白面の貴公子風の青年で、英語の教師だ。遠田は五十代の女性で、中学生と小学生の子どもがひとりずついる。彼女はやわらかい口調で、歯に衣着き
せぬ教育批判をズバズバするので、人気を集めている。そんなふたりに交じる私は、ひとり体格のいい、スポーツマン風の熱血教師というわけだ。
番組は、バラエティといいつつ硬派な視点も取り込んでおり、親と子がともに楽しめる教育番組になっている。
教育論を戦わせることはあっても、ロックや遠田とは互いに認め合い、仲良くやっているつもりだった。それも、今の電話の調子では、私の思い違いだったのかもしれない。
予鈴が鳴った。五分後に、ショートホームルームが始まる。教室に急がねばならない。
週刊手帖の記事をきっかけに、思いがけない人間関係の本音が見えてくるようだ。


朝の騒動など、序章にすぎなかった。
昼のワイドショーで、週刊手帖の記事が取り上げられたらしい。
私こと「鉄腕先生」が常在中学に勤務していることは、知れ渡っている。学校の代表番号は、ことの真偽を問う電話と、「ハレンチな教師を辞めさせろ!」と怒鳴る電話と、生徒の保護者からの心配そうな電話と、マスコミからの問い合わせとイタズラ電話で昼過ぎにはほぼパンクし、教頭の指示ですべての固定電話の受話器を上げておくことになった。
そろそろ、業務にも支障が出そうだ。
校門の前には、何社ものテレビ局がカメラをかまえ、私が出てくるのを待っている。
土師教頭の判断は早かった。すぐ警察に電話をかけ、子どもの下校時までに取材陣を立ち退かせてくれと交渉した。子どもに与える影響を最優先するべきだという教頭の言葉は、警察官を動かしたようで、取材陣は午後四時までに校門からきれいに姿を消した。
「今日は授業にならんな」
「外の様子が伝わったようですね」
「生徒がそわそわしてます」
教師たちが口々に不安をこぼす。
私の数学の授業も同じだった。みんな、窓の外をちらちら見ている。原因が私だとは、まだ気づいていないようだが、明日になれば気づくだろう。
「湯川先生、今日は自宅に戻らないほうがいいかもしれません」
教頭が、夕方になって私に告げた。
「それは――」
「近くに住んでいる知り合いに、様子を見に行ってもらったんです。自宅の前に、取材陣が張り付いているようですよ」
愕然とした。私はただの中学教師で、タレントではない。あんな記事ひとつで、どうしてそこまでの扱いを受けるのか。
「ご家族はどうされていますか」
「妻は、娘を連れて実家に」
「それは良かった。いつから?」
「先週からです」
正直に答えただけだが、その答えは教頭を驚かせたようだ。
「今回のこととは関係ないのかな?」
「もちろんです。妻は、私が仕事ばかりしていると不満を口にしていまして」
「しかし――それがマスコミに漏れると、ますます印象を悪くするんじゃないだろうか」
教頭の言う通りだった。私は戸惑い、困り果てた。妻子と別居中だとわかったら、記者たちはどう考えるだろう。浮気がバレたせいではないかと疑うかもしれない。
「ともかく、自宅以外に泊まれる場所はありますか」
「それは――」
私自身の実家は、山梨なので通えない。今の状況で、妻の茜の実家に泊めてくれとは言いだせない。
「ホテルにでも泊まるしかないですね」
「予約を入れたほうがいいですよ。コロナが落ち着いて、宿も取りにくくなったようだし」
「探してみます」
「もし、どうしても見つからなかったら言ってください。最悪の場合、学校に泊まる手もありますから」
教頭は親切に言ってくれた。
たしかにこの学校は、体育館にシャワールームがあるし、保健室にベッドもある。着替えと食事さえ用意できれば、泊まり込んでもなんとかなる。
「いや、教頭、それは良くないですよ。こんな記事が出て問題になっている状況で、湯川先生が校内に泊まり込むなんて、保護者が何と言うか」
三年生の学年主任、常見が会話に割り込んできた。ひげの剃り跡が濃い、五十代のベテラン教師だ。社会科を教えている。
「まあ、ホテルが取れない場合の話ですから。そうおっしゃるなら、常見先生が自宅に泊めてあげればいいんじゃないですか」
「そんな、どうして私が」
常見は露骨に嫌そうな表情になった。
彼は「鉄腕」事件の前から、私が毎日、繁華街を見回って生徒を補導したり保護したりしているのが気に入らないようだった。
生徒指導については、常見が決めた見回りの担当がある。それ以外の日まで自発的に回ると、他の教師が負担に感じるというのだ。
「立川のビジネスホテルが取れそうです」
私は急いで検索し、声を上げた。
教頭が、ホッとした顔になった。
「それは良かった。しばらく、経済的な負担にはなるでしょうが」
「そんなの、本やテレビで稼いでるんだから、湯川先生には問題ないでしょう」
常見が嫌みな言葉を投げる。金銭的なやっかみというより、自分より目立つ教師がそばにいるのが嫌なのだろう。ジャージ姿で教壇に立つ教師もいるなか、常見はいつもワイシャツにジャケット着用だ。他人の目を気にするタイプなのだ。
「校門を出る時にマスコミに捕まらないように、誰かの車に乗せてもらったらどうかな」
教頭は常見を無視して、職員室を見渡した。
「良かったら、僕の車に乗っていきますか。汚いですけど」
朝、校門まで救出に来てくれた辻山が、手を挙げた。気のいい体育教師だ。これまであまり親しくしたことはないが、私とは五つ違いくらいで、年齢も近いほうだ。
「助かります。ありがとう」
「いや、いいですよ。困った時はお互い様で」
さっさと学校を出たかった。
居残っても仕事に集中できないし、職員室の妙な雰囲気も気になる。ノートパソコンは持ち歩いているので、中間テストの試験問題を作るくらいなら、ホテルでもできそうだ。
私が待っていたのは、守谷穂乃果の母親からの連絡だった。向こうの学校の様子を聞きたかった。まさか、あの記事が彼女のことだと、転校先でバレたりはしていないと思うが心配だ。
守谷の母親から教頭に電話があったのは、午後五時ごろだった。
「――そうですか。はい、はい。わかりました。湯川先生も心配されています。ええ、伝えますので」
電話を受けた教頭の表情は明るかった。
「守谷さんは、ふだん通りに学校から帰宅したそうです。特に変わったことはなかったと言っているそうですよ」
「今日、出たばかりの雑誌ですからね。影響が出るとすれば、明日以降じゃないですか」
常見が眉をひそめている。
「様子を見るしかありませんね」
「――まったく。湯川先生、本当に守谷と何もなかったんですか?」
私はあっけにとられた。
「ありませんよ。当たり前でしょう。私の娘と同じくらいの年齢なんですよ」
「娘にイタズラする父親だって、いるわけだから」
「常見先生!」
毒を含んだ常見の言葉に、教頭が顔をしかめた。
「もういいですから、今日は湯川先生も帰ったほうがいい。しばらくホテル暮らしをするとしても、身の回りの品が必要でしょう」
教頭の言う通りだった。着替えや歯ブラシなど、買いに行かねばならない。
「明日は、少し落ち着いていればいいですが」
不安を滲ませ、教頭が見送ってくれた。
「常見先生は、教師は人気商売だと思ってるのかもしれませんね」
校舎裏の駐車場に停めた車に乗り込み、辻山が苦笑しながら言った。
「湯川先生が生徒の人気者なので、妬んでるんですよ」
「――まさか」
ふふふ、と辻山が含み笑いをする。そういう辻山も、生徒に好かれるタイプだ。
「すみません、車の中が散らかり放題で」
助手席に置かれていたバッグやおもちゃを、辻山が後部座席に投げ込む。
「お子さんのですか」
「そうなんです。まだ保育園児なので、いろいろ大変で」
「男の子でしたっけ」
ラジコンカーに使うようなリモコンがあるのを見つけて尋ねた。それにしては、猫のぬいぐるみやおもちゃのブレスレットらしいものも交じっている。
「いえ、娘ですよ」
辻山が笑っている。
そう言えば、私の娘――結衣は、小さい頃からものを作るのが好きだった。カラフルな粘土で動物をこしらえたり、大きめのビーズでアクセサリーを作ったりしていた。
中学二年になった今、彼女はパソコンで絵を描くのが趣味だ。
「保育園なら、可愛い盛りでしょう」
「可愛いですけど、あれは小さい怪獣ですね。たまに手がつけられなくて、こっちが泣きたくなってきます」
「ああ、わかりますよ」
結衣はおとなしい子どもだったが、我の強いところもあって、自分の希望が聞き入れられないと、梃子でも動かなかった。
「言葉が通じるようになれば、少しはわかり合えますかねえ」
「いや、女の子は口が達者ですからね。ああ言えばこう言うで、じきに敵わなくなります」
「そうか、経験者でしたね!」
車の中でふたりして笑った。
「買い物、手伝いましょうか?」
「いえいえ。このあたりまで来れば、くたびれたおっさんのことなんか、誰も気にしないでしょうから」
辻山は、立川駅から近いビジネスホテルの前で降ろしてくれた。明日も迎えに来てくれるという。親切な男だ。
「湯川先生。しばらく身辺が騒がしいでしょうけど、あまり気に病まないほうがいいですよ。気を付けて!」
車で去り際に、明るく手を振った。
ホテルのフロントは事務的な女性で、眉ひとつ動かさずにチェックインの手続きをしてくれた。近くにコンビニがあるし、立川駅まで行けばルミネなどもある。すぐにホテルを出て、歯ブラシや下着を買いに行った。食事はコンビニ弁当だ。
立川駅の近くで、ちらちらとこちらを気にしている中年男性がいた。それだけだった。
――なんだ、平気じゃないか。
騒いでいるのは週刊誌だけだ。私の世界が崩壊したわけではない。
ホテルの部屋に戻り、試験問題を考えながら弁当を食べていると、スマホが鳴った。妻の茜からだった。
『――鉄ちゃん?』
茜は昔から私を鉄ちゃんと呼んでいる。
「茜、実は――」
『どうして電話してこないの。メッセージ送ったでしょ』
今日は、SNSの通知が鳴りやまず、学校にいる間はスマホの電源を切っていた。ホテルに戻ってようやく電源を入れたのだが、千を超えるメッセージに、見るのを諦めたのだ。
自分のツイッターアカウントは、フォロワーが三万人ほどいる。学校にいる間は、他の教師らの目もあるのでツイートを控えていたが、ホテルに入ってすぐ、今回の騒動は身に覚えのないことだと短い声明を書いておいた。
そこにも、応援コメントから罵詈雑言まで、嵐のように返信がついている。
「週刊手帖の記事なら、ガセネタだから」
『週刊手帖? テレビでずっと、鉄ちゃんのことを話してるよ』
ホテルにもテレビはあるが、戻った時につけてみても、自分のことなどどこでも放送していなかったので、安心して切った。
「あのさ、教え子に手を出したりなんか、絶対にしてないから」
茜は笑いとばした。
『当たり前でしょ。鉄ちゃんがそんなことしないのは知ってる』
何と言えばいいのかわからず、私は口ごもった。仕事に夢中で、娘の勉強も見てくれないと怒って実家に帰った妻が、自分を理解してくれている。ホッとして、胸のうちがじんわり温かくなった。
『それより、これからどうするの。自宅の前にテレビ局が張り付いてるみたいだけど』
「ひとまずホテルにいる。学校の先生たちが協力してくれて」
『そうじゃなくて。ちゃんとメディアの前に出て説明しなきゃ、いつまで経っても解決しないんじゃないの。誤解なんでしょ』
「記者会見を開くことも考えるよ。まだ、僕にも何がなんだかわからないんだ」
『ちゃんとしてね。結衣が、学校に行きたくないって言ってる』
愕然とした。結衣の父親が「鉄腕先生」であることは、当然、周囲の生徒らも知っているのだ。こんな騒ぎになれば、娘にも迷惑がかかるのは当たり前だった。学校にも行けないくらい困惑している娘のことを考えると、胸が締め付けられた。
「結衣はいる?」
『いるけど、電話には出ないって』
「僕は何もしてないんだ。結衣にそう説明してくれよ」
『そんなの、説明したって一緒でしょ。結衣だって、まさかあなたが自分と同い年くらいの女の子に手を出したなんて思ってない。だけど明日、あの子が学校に行けば、何を言われるか目に見えてる』
「落ち着くまで学校を休ませろよ。僕は何も悪くないんだ。何もしていないのに、どうして責められなきゃいけない?」
奇妙な沈黙が、茜と私の間に落ちた。
『何も悪くないのに、どうしてこんな記事が出るの?』
私が答えられないでいるうちに、通話は切れた。
昨夜、羽田からの電話を受けてから、私は自分のことしか考えられなくなっていた。
――わからない。いったいなぜ、あんな記事が掲載されたのか。
私はコンビニの袋から、週刊手帖を取り出した。内容を分析するため、買ってきた。
写真が「イメージ写真」であることは、キャプションにも書かれている。私と守谷の写真を別々に撮り、まるで向かい合っているように組み合わせたのだ。悪趣味だった。
記事はでたらめと憶測のオンパレードだが、そのなかで気になる部分がある。
「『どう見ても恋人同士でした』。ふたりがホテルに入っていくところを目撃したBさんは、こう語る。Bさんは、『鉄腕先生』が教鞭をとる中学校の、生徒の保護者だ。Bさんが見守るなか、湯川は先に生徒をひとりでホテルに入らせ、しばらく時間をおいてから自分もエントランスに入っていったという。おそらく、同時にホテルの入り口をくぐるところを防犯カメラなどに残したくなかったのだろう」
常在中学の生徒は、四百人余りいる。保護者は八百人近くだ。Bが何者なのか、心当たりはまったくない。
記事には、安藤珠樹という署名もあった。見覚えのない名前だ。Bという保護者が、安藤に連絡を取り、私が生徒とホテルに入ったと噓をついたのだろうか。
思いついて、溜まっていたSNSのメッセージをざっと読んだ。案の定、週刊沖楽の勇山岩男記者も、連絡してほしいとメッセージを残していた。まだ十時前だったので、遠慮なく電話をかけた。
『湯川先生? ずっとご連絡をお待ちしていたんですよ!』
勇山が頓狂な声を上げた。
勇山は、四年前に私を「鉄腕先生」として世間に紹介した記者だ。彼の記事を読めば、私という人間が生徒のために身体を張って、刃物の前にでも飛び込んでいくような、熱血漢に見えただろう。
『週刊手帖の記事について、説明をお聞かせ願えませんか』
「まさか君まで、私が女生徒を食い物にする教師だなんて、思っていないだろうね――」
『まさか! 違うでしょう。――違うんですよね?』
どうやら勇山は、疑いを捨てきれていないようだ。私はうんざりした。
「当たり前ですよ。自分の娘と同じくらいの年齢の子どもなんですよ?」
『そうですよね! それじゃ、どうしてあんな記事が出たんですか?』
「私が聞きたいですよ。どこからあんなでまかせを引っ張り出してきたのか」
『心当たりはないんですか』
「まったくありません。勇山さん、あの記事を書いた、安藤珠樹という記者を知りませんか」
『いや――聞いたことないですね。だけど、どんな記者なのか、探りを入れてみましょう。手帖の編集部には知り合いもいますから』
「保護者Bという人物から、私と生徒がそれぞれホテルに入るところを見たという証言を得たと書いています。それがどうも怪しいと思う」
『Bの捏造かもしれませんね。それを安藤記者が信じ込んだのか。わかりました、調べてみます!』
勇山は調子よく承諾した。
『それで、湯川先生、今どちらにいらっしゃるんですか?』
「立川のホテルに泊まってます。自宅の周辺には記者とテレビカメラがひしめいているそうですから」
『ええ、そうらしいです。良かったら、僕にインタビューさせてもらえませんか。このまま逃げていたら、後ろ暗いことがあるのかと思われて損ですよ』
「記者会見を開こうと思っていましたが」
『学校でですか? それも必要ですが、まず僕にインタビューさせてもらえるなら、会見の準備も手伝いますよ』
勇山はお調子者だが、彼の提案には心を惹かれた。テレビに出たりはしていたが、記者会見などというものに縁はない。おそらく教育委員会が事態の調査と収拾に乗り出し、校長や教頭と一緒に、会見に応じることになるとは思うが、私もそういう場では素人だ。
『ね、湯川先生。先生さえよろしければ、今からそちらに伺います。ホテルの名前を教えていただけますか』
勇山は、私の逡巡が肯定に傾いていることを読み取っていた。ホテルの名前を聞き出すと、『三十分ほどで行きますから』と言って、通話を切った。
――インタビューは、校長らに断ってからのほうが良かっただろうか。
そうは言っても、あの事なかれ主義者の校長は、インタビューを受けるなどと聞いたら、止めるに決まっている。ツイッターをやっていることだって、小言を言われたくらいだ。
すぐにまた、スマホに着信があった。勇山が思いがけない速さで到着したのかと思ったら、画面には遠田道子と表示されていた。
「遠田さん?」
『湯川先生、大丈夫?』
教育評論家の遠田は、鼻にかかった低い声で話す。マッシュルーム型にカットした白髪を茶色く染めて、学校や教育のあり方、家庭での学習やしつけなど、ずばずばと遠慮ない言葉を吐くのだが、子どもに対する愛情が豊かで人気がある。愛称は「きのこ」だ。
「わけがわからないことが起きて、弱りきっています」
『心当たりはないのよね、当然』
「ありません。夜道を歩いていて、いきなり背中に斬り付けられた気分です。どうして僕が、娘と同じくらいの教え子に手を出したりするのか」
『それって週刊手帖のこと? ――ひょっとして、ネットはまだ見てない?』
「何の話ですか?」
『ちょっと湯川先生、すぐネットで検索してみて。とんでもないことになってるから』
面食らい、パソコンのブラウザで、とりあえず「鉄腕先生」と入力して検索してみた。
「――なんだこれは」
『見つけた?』
「変な記事がぞろぞろと――何ですかこれ」
『今日の昼に、テレビ局でADさんに教えられたの。湯川先生、誰かに恨まれてない?』
あちこちのブログに、「鉄腕先生」への中傷がばらまかれている。主な内容は、私が教え子をホテルに連れ込んだというものと、男子生徒に体罰を加えたというものだ。いずれも、私にはまったく心当たりがないのに、私の写真がふんだんに使われている。しかも、ブログの内容に沿った、並んでホテルに入る瞬間や、生徒の耳を摑んでいる写真だ。写真の力は怖い。知らない人間が見れば、本当にあったことだと誤解するかもしれない。
怒るというより、だんだん気持ちが悪くなってきた。
「これはいったい――」
『本当に心当たりがないの?』
「ありません!」
まるで、自分にそっくりなもうひとりの自分がいるようだ。そいつが、私の知らないところで、好き勝手をしている。
「この写真、捏造ですか。信じられないな」
『ディープフェイクと言ってね、昔のアイコラなんかとは比べ物にもならない精巧な写真や動画がつくれるようになってるの。写真ならともかく、動画でも本人がちゃんと喋ってるように、音声まで捏造できるんだからね』
ディープフェイクという言葉に聞き覚えはあったが、身近な話題だとはまったく考えていなかった。米国とか、どこか遠い世界の話のように感じていたのだ。
「だけど、大統領とか俳優とか、有名人を相手にするならわかりますけど。僕みたいなただの教師にそんなことをして、何の得があるんですか」
『さあね。そんなこと私にもわからないけど』
遠田が呆れたように言う。
『だけど、こういうの見せられて、冷静な判断ができる人は、この国ではまだ少数派みたいよ。覚悟したほうがいいわよ、湯川先生。これからまだまだ批判の嵐が待ってるから』
「だって、私は何もしてないんですよ!」
『事実かどうかなんて、彼らには無関係だから。早いうちに、弁護士に相談したら? あと警察とね。こういう誹謗中傷しようや嫌がらせを受けていると相談したほうがいい』
私は途方に暮れた。弁護士なんて、自分には縁のない世界の話だと思っていた。こういうケースで力になってくれる、腕のいい弁護士はどこにいるのだろう。
『とにかく、がんばってね。こういう時は、くじけたり弱気になったりしたら負けだから。世界を敵に回しても、自分が正しいと信じるなら戦いなさいね。何かあったら電話して。あまり頼りにはならないかもしれないけど、愚痴は聞くから』
遠田が電話を切った後も、私はネットの検索を続けた。SNS、ブログ、動画投稿サイトと検索し、男子生徒の耳を摑んで吊り上げたり、髪を摑んで前後に揺さぶったりする、暴力的な「私」の動画にたどりついた。
「――なんだよ、これは。もう十二万回も再生されてるじゃないか」
私の顔ははっきり見えるが、生徒の顔にはボカシが入っている。声を聞いても誰だかわからない。おそらく、知らない子どもだ。
巧妙な手だ。
この生徒が誰なのか、動画を見ても誰にもわからない。こんな出来事が本当にあったのかと本人に問いただしたくても、できない。
私が警察に訴え出たとして、この動画が捏造だとどうすれば証明できるのだろう。
動画の中の「私」は、子どもを恫喝するように、「舐めてんのか!」「殺すぞ!」などと喚いている。ありえない。私は、生徒に対してだけでなく、生まれてから今まで、こんな乱暴な言葉を吐いたことはない。だが、私の声にそっくりだ。
動画についたコメントも様々だが、八割が私に対する怒りと中傷だ。私を「殺す」と言っているものさえあった。
胸がむかむかした。ここで怒っている人々は、本当の私を知らない、会ったこともない人たちだ。それが、私を人間以下のように罵っている。
ネットの中で、自分ではない自分が生まれ、育っている。肌に粟が立つ感覚がした。

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