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生きているのが嫌なわけではないが、人間をやめたい|ハビタブルゾーン

生きていることは好きなので生きていたいですが、しかし生きるというのはなんとも疲れるなぁと感じています。こんにちは。

「ハビタブルゾーン」というのは1年前に制作した僕の自作曲のことです↓

今回はこれについてちょびっと解説しつつ、生きることについて最近思うことを書きました。


現実はもういいっす

繰り返しになりますが、生きているのが嫌なわけではないです。むしろ僕は自分のことがまぁまぁ好きだったりします。一時的な機嫌の悪さで自己嫌悪状態になることはありますが、なんだかんだ言って好きです。

現実はもういいよ、というのは、めちゃくちゃしょうもないことで争いが起こったり、ただ目先の自分だけの利益を求める人間がいたり、何の意味もないのに既得権益的に存在している謎の派閥だったり、なんだかもうあまりにもこの世の汚いところが目につきすぎて嫌になったということです。

他にも挙げ出したらキリないです。

そして多分きっと僕も誰かにとってはいらない存在でしょうし、誰かにとっては愛される存在なわけです。

もちろん、この世界に素敵なところも沢山あります。

なので変えられるところは変えていきたい。でもやっぱり無理なものは無理なので、ある程度諦めました。

このハビタブルゾーンを作ったのは1年と一ヶ月ほど前ですが、当時は本当に生きることやそれに関するあらゆることの意味がわからず、ただひたすらそのことに囚われていました。

なんでみんな平気そうに笑っているのか不思議で仕方がないし、どうしてこんな問題だらけの狂った世界で元気に生きていられるのかわからないし。まあ、これは結局ある程度は個々人の価値観の問題に帰着するのですが。

そして歌詞にもある「わからないよ 生きることは なぜか明日はやってくる」というもの、これはついに結論が出ました。

それは、僕にとっての生きる意味というのは生きることそのものが意味であって、そしてそれを最大限充実させるためにできることはなんだろうと考えた結果、ひたすら創作の世界に浸って生きていきたいな、ということでした。

創作の世界というのはなんて素晴らしいのだろうか

ちょうど最近勢いに任せて書いた以下の記事を読めば僕の思想が大体わかるかと思いますが、1万2千字を超えていてやや長いので、

上の記事からある程度引っ張ってきます。それは

僕は世の中の結構なあれこれに無関心でどうでもいいと思って生きています。集団は嫌いだし、表面上の会話は疲れるから好きじゃないし、外はあまりにも騒々しいので生きづらい。

実際のところ、本を読んで何かしらを書いて、音楽を聴いて何かしらを作編曲することができれば、これ以外にマジで何もいらないな、という境地に辿り着いてしまたことは自分の心がハッキリと証明してくれているので、そういうことなのかもしれないなと。
物欲も特にないし、人間関係に執着もないし、富や名声にも興味ないし、学歴や出世、社会的地位なんかもどうでもいいし、競争も好きじゃない。

ここ数年か数ヶ月の僕はずっと世の中を醒めた目で見ていて(本当に現実は覚めているのかもしれないけど)、何かをやる前から「これは結局こういうことなんじゃないか」とすぐに頭で考えて結論を出して何かをわかったつもりでいました。いや、誤解を恐れずにいうと普通に理解していると思います。金融、ビジネス、社会学、経済学、哲学、音楽、科学、と興味のあるものを片っ端から調べまくって本を読み漁ってYouTubeの動画を見まくったので。

といった気持ちが根底にあります。
ようはこの現実という1つの世界に飽きたということです。

人生というのはしばしばそれ自体がゲームに例えられ、僕もそう思っています。
そしてそれは強制的に参加させられた(産み落とされた)わけで、まぁ自ら消え去ることで降りることはできますけど、そんなことはしたくなくて。
だけどもう俺このゲーム飽きたんだけどなぁ、おーい、みたいな。

そんな感じです。

そしてその上で、じゃあどうすればずっと楽しく生きられるんだろうかと考えたところ、それはひたすら創作の世界にこもっていられる生活を実現すれば全て解決するじゃないか、と。そして自分の作品で誰かを勇気づけられるかもしれない。

もちろん、世界をどう捉えるのかというのは人それぞれ全く違います。同じ世界に生きている人はいません。
でも、それでも原理原則や体系的なものは全く同じじゃないですか。人間は空を飛べないし、魔法も使えないし。

物語というのは普通に生きている中では絶対に起こり得ない、新たな価値観の枠組みへと強制的に自分を連れて行ってくれるから面白いのだなと。

物語の中でも特に小説という形式が好きなのは、自分でどこまでも想像できるからだと思いました。
映像や音があるとそれはそれで当然美しいのだけれど、反面誰がそれを見てもある程度同じ感覚を描くだろうし、それはつまり表現されている以上のものを知覚することはなかなかできないということです。

もちろん、純粋芸術だけを追求していてもなかなか資本主義との相性が大変そうだと感じているので、そこらへんはうまい具合のセンスが求められているでしょう。

そんなことを最近は考えています。noteを連続で書きまくっているのも、創作の世界にひたすら浸かるための一環です。

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