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8月15日、終戦記念日。

 478回目です。φです。

 今日は75回目の終戦記念日。すごく遠いことのように思っていたけれど、たった75年しか経っていないんですね。戦争から。

 歴史に関わる本を読んでいると、なんだか時間の感覚がずれていくように私は感じます。100年前のことが最近のことのように思える。私は東欧の革命を知ったとき、「まだそれだけしか経っていないんだ。最近のことなんだ。」と思いました。それから日本史に帰ってきて、その感覚は日本史でも生まれるようになりました。

 東欧の中でも、私は東ドイツでそう感じました。まだベルリンの壁が崩壊して31年目。私にとっては「私のいない過去の出来事。歴史のひとこま」だったのだけど。バルト三国が独立したのもつい最近のことです。

 ちょっと横道にそれてしまいました。戦後から75年。平和を求めて生きた方々から、戦争を知らない私たちにバトンが渡された。戦争の経験を聞いて、知識として持っている私たちの世代。言ってしまえば、「知っているだけ」の私たちです。

 体験したことと、聞いたこと・学んだこと。この差は埋められないと私は思います。自分が介入したかしていないか、この差は大きい。

 バトンを渡された私たちは、この平和を次の世代に渡す義務・責任があると思います。この平和か、それともより追求された平和を渡す必要があります。

 正しく伝えて、平和の尊さを受け継いでもらう。それが永劫に続くことを私は願います。そのためには、私たちの世代も平和の尊さを経験した方々から学び、自分のこととして知っておく努力が必要です。平和は当然ではないのだと、知っておかなければなりません。

 平和を維持することは、平和を作り出すことよりは困難ではないと私は思います。壊すのは簡単でも、壊れたものを修正して作り出すことは難しい。何事においてもそうだと思う。

 戦争で悲惨な終結を迎えた国だからこそ、他国に対して平和を叫び、自国の平和を維持する義務があると私は思います。悲惨な終結は自業自得だ、と思う人もいるだろうけれども。

 しかしながら、戦争なんて情報操作によっていつの間にか向かってしまった、ということだってあり得る。歴史には度々登場するパターンです。

 それを避けるために、冷静に情勢を見て、情報に惑わされない賢さを持っておくこと。それが大切なのだと思います。まぁ賢さ故に、ということもあるのだろうけれども。難しい。

 今日の正午、戦争で命を落とされた方々への黙とうのためのサイレンに聴こえました。ずっと考えていました。戦争について。平和について。重い歴史だけれど、考えることは必要だと思う。

 私はオンラインで英会話をしています。そのレッスンのテーマに「戦争と平和」があります。トルストイの小説のようなタイトルだけど。もちろん小説について語るわけではなく、戦争について、そして平和について語るレッスンです。

 私は講師を毎回変えています。色々な英語を聴きたいというのもあるし、講師によってレッスンが全く異なるから。教え方ひとつで変わるものはたくさんあります。

 様々な講師と、この「戦争と平和」のレッスンをしました。彼らの意見は異なるけれど、どの方も「戦争は終わらない。平和を願っても戦争は続く。終わる日は分からなけれど、願っている。」と言っていました。

 フィリピン出身の方が多くて、他にはベトナムの方。年齢も異なるけれど、誰もが一貫していました。もしかしたら講師の手元には「こう答えるように」という指針があるのかもしれないけれど。彼らの言葉が、本当に彼らの言葉であると私は思いたい。

 どこかで「戦争があるから平和がある」という言葉を聴いたことがあります。戦争なしに平和はないし、平和なしに戦争はない。それを検証することはできないけれど。

 対立するものがないと、幸せがない世界は嫌だなぁ、と正直思います。けれど平和を証明するには、説明するには、最も悲惨な戦争というものが必要なのかもしれないとも思います。

 平和の形は人によって異なるだろうけれど、戦争がなくなればいいな。そう願う。武器がなくなって、人が人の命を奪う行為がなくなって。理想論なのかもしれないけどね。

 戦争が終わってしばらくしたら、戦争がまた始まる。そういった歴史を繰り返してきました。人類の歴史。その連鎖が、断ち切られる日が来ますように。

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