サピア=ウォーフの仮説。仮説であるからこそ価値がある。
64回目です。φです。
今日は読書に時間を費やした。2冊読み終わったのだけど、思っていた内容とは違って借りたヤツ出てこい!といちゃもん付けたくなりました。いや私だけどさ。
言語学に関する本を読んだ。言語学って何、と思われるかもしれないけれど、私は大学で心理学を学んでいる途中にこの学問に出会って、「言葉」に興味を強く持つようになった。
サピア=ウォーフの仮説。聞いたことありますか?
サピア=ウォーフの仮説
またの名を言語相対性仮説。まぁ文字の通りの仮説なのだけども。
「どのような言語によってでも現実世界は正しく把握できるものだ」とする立場に疑問を呈し、言語はその話者の世界観の形成に差異的に関与することを提唱する仮説。言語相対性仮説とも呼ばれる。エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフの研究の基軸をなした。
(Wikipediaより引用)
と、いうものです。ウィキさんって便利だよね、個人の知識で書かれているので合っているか分からないけれど。
日本語には雨の表現がたくさんあるから、他の言語を話す人たちとは異なる感覚を持っているのではないか、なんてよく聴きませんか?まぁそういった言語による差が、思考にも影響しているんじゃない?という感じの仮説。
私はこの仮説を色々と考えるのが好きで、これに出会って以来約7年くらい気に入って考えています。改めてこの事実を考えると長!と思いますね。相変わらず私はハマったら長い。エコだ(笑)
色々な本を読むけれど、私はこの仮説の詳細を知ろうとは思っていません。なぜなら、ロマンだから!きっと詳しく調べたら、この仮説を否定するものもあるだろうし、脳科学的に調査したものもあるだろう。ほぼ否定しようがない結論めいた説だってあるだろう。けれど、私はそれらを知ろうとはしないし、思わない。それがロマンさ!(笑)
言語によって変わるなら、
マルチリンガルは思考をどの言語に影響されるのか?
両親が別の言語を母語としていて、物心ついた頃には2か国語を習得している子どもは、成長したらどちらの言語を思考の根本とするのか?
最も主要に使われる、その言語の単語や文法形式によって思考は形成されるのだろうか。それとも、すべてが複合的になっていて、使用する言語の数だけ思考の観点をもつのだろうか。それとも、使用する言語の特徴をかいつまんだような思考になるのだろうか。
単一民族に生まれて、使用言語がひとつだけで生きていく人の思考は誤差はあるにしても、ほぼ同じような影響を受けているのだろうか。
母語以外に自主的に言語を習得した人は、思考を母語にひきづられるのだろうか。それとも融合させたような思考になるのだろうか。それは生まれた時からのマルチリンガルとは異なる思考なのだろうか。
それとも、この仮説を全否定して、そもそも思考と言語には関連がない。ということだろうか。
私が疑問に思っていることを挙げ続けたら、キリがないだろう。私自身もどうしてここまでこの仮説に惹かれ、事あるごとに考えをこの仮説に関連付けているのかすらよく分からない。けれど、私には気になって仕方がない仮説なのである。
しかしながら、私はこの仮説を完全に全否定したくはない。日本語を母語とする人には共通の思考があると考えているし、外国語をいくら勉強したとしてもネイティブが持つ感覚を完全に理解し、イメージは同じになるとは思わないからである。
概念的なことだと特に完全に一致しているかを確認する術はない。そうすると、言語を如何に受け取っているかに依存すると私は思う。その言語を受け取る能力は思考と関係がある、というのが私の意見。
言語と思考。言葉にすると簡単だけれども、それを証明するのは簡単ではない。
the book
「翻訳できない世界のことば」という、エラ・フランシス・サンダース氏によって書かれた本がある。
つまりは、世界には直接一致する言葉がない言葉はたくさんある、ということ。
それが起こってしまう理由としては「言語は思考に依存する」ということではないのだろうか。
言葉の数だけ、思考があり、またその思考も分化していく。そう考えると、言語とは単なるコミュニケーションツールではなく、価値観にも影響する、ともいえる。私にとって、そのことが非常に価値があり、興味深い。
世界では、使用者が少ないために消えていく言語もある。また、すでに消えてしまった言葉もある。
その言語をサピア=ウォーフの仮説でいうなら、ある言語に依存する思考を持つ人々は消えてしまった、ということになるのだろうか。
そう考えると、言語を失うことはとても悲しい出来事であると私は思う。その言語にしか表現することができない美しい世界があるだろう。そして、その言語にしか思いつかない考えだってあるだろう。それらが失われている。
それって、すごく悲しい。
今ある言語も
言葉は時代によって変化していく。日本語だって、古典に使われている言葉をそのまま使っているか、というと否。だろう。
今でも使われているものもある。けれど、失われたものだってある。
そう考えると、言語が同じであったとしても、時代によって思考は移ろっていくのだろう。
18世紀に使われていた日本語、19世紀に使われていた日本語、20世紀に使われていた日本語、21世紀に使われている日本語。
同じ言語だけど、違った表現を持っていて、根本は同じだけど、思考は異なるのだろう。言語は時代と共に変化していくものだから。
昔の人は、この言葉をどう使っていたのだろうか。それを使って、何を思っていたのだろうか。そう考えると、ただの話し言葉でも奥深いものに思えてくる。
私が今使用している日本語は、いつかは解説が必要なものになって、古語辞典を引かないと理解されないような言葉になって。それか、辞書からすら姿を消しているかもしれない。
言語と私
言語と思考についての仮説を知ってから、私は言葉に対しての意識が変わった。世界の言語に興味を持ち始めたし、日本語自体にも「なぜこの表現をするのか、それによってどう考えるのか」という視点を持ち始めた。
仮説とはそれほどの可能性を持っていて、結論がないものだからこその価値があると私は思う。仮説であることに価値がある。これがすでに証明された理論だとしたら、私は興味を失っていただろう。
心理学と言語学、どう関係があるの?と最初は私は思ったけれど、知れば知るほど、言葉は心なしでは語ることはできないということが分かった。言語とは心である。
さて。
ここまで私は語りたいだけ語ったけれど、語りたいだけ語った、と書くと実は語り足りない気がしないでもない。うわなんだこの面倒くさい表現は。私のようだ(笑)
諺とかも、きっと言語のひとつで思考に由来するんだろうなぁ。だとしたら、私の大好きなイギリス英語は皮肉たっぷりの思考があるからこそ生まれるんだろうなぁ。最高(笑)
私は趣味で言語をかじりまくっているけれど、それで薄々気づいているのは「言葉によって国民性の傾向を何となく知ることができる」ということ。私はその言語の人々にご対面したことはないけれど(近々ご対面の謀を企んでいるけどね!)、実際はどうなんだろうね。私が言語から予想した通りだったら、本当に面白い。
何はともあれ、みなさん面白いからこのサピア=ウォーフの仮説は楽しんで読んで!
あ、今日で6月終わりだ。みなさん7月はきっと猛暑超えた猛暑だろうけど、生きてね!
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