卒倒読書のすすめ 第八回 モナ・アワド『ファットガールをめぐる13の物語』
「自分」に付随してくる、身体形質「女」というのはほんとうに厄介だ。
『ファットガールをめぐる13の物語』を読んでそう思った。
もちろん、そのほかの形質も厄介なんだろうけど、私は「女」なので「女」の話をする。
主人公エリザベスは太った身体に劣等感を抱いている女の子。インディーズ音楽とファッションを愛している。常に身体への不満と不安から感情が出発していて、太った自分を取り巻く世界に居心地の悪さを感じている。子供から大人へと成長し、やがて痩せていってもそれは変わらない。女友達、母親、何人かのボーイフレンド、夫、父親、行きつけの店の女性店員。彼らと接するとき、エリザベスはいつも自分の身体の大きさ(相手の身体の大きさ)を気にしながら過ごしている。
人間は性的二型の動物で「女」という形態であるだけで、身体に価値がつく。それはすごく簡単に、そこまで「美しく」なくても。望もうが望むまいが無関係に、女の身体には価値が存在している。価値を自覚しているから、なんとなく自分の身体を粗末に扱うことへの背徳感があるし、また価値ある身体を大切にしない恍惚もある。それによって生じる危険もたくさん知っている。
それとはまったくの別物として感情と直結した身体的価値もある。感情から生まれている身体的価値と言ってもいい。これは「美しさ」「可愛さ」である。ファットガールなんてまっぴらごめんで、最高にスモーキーなアイシャドウで眼もとを飾り、ブラウンシュガーで肌を擦ってヨーグルトで冷やして、ずっと憧れだった愛らしいタイトな洋服を着ること。感情から出発し、行動によって獲得されたこの身体的価値は、自分が望んで努力して手に入れたものだし、だからこそ世界が求めているのもきっとこちらの価値の方だと信じている。
エリザベスは「身体」に自信がないから「自分」にも自信がない。そんな引け目のある「身体」を求められることが、「自分」を認められ求められることにつながっている。しかし、女の体である以上、身体的に求められたとき、相手が求めているのは無条件に宇宙から降ってきた身体的価値なのか、感情から生まれた美しさの身体的価値なのか、それとも身体と切り離された「自分」なのかという問題が常に付き纏っている。そして異性とエリザベスの間には、身体の価値の認識にギャップがあり、結局それに傷つくことになってしまう。
でも、彼の前だと裸になれる。まぶしいライトの下でも。陽射しが降りそそいでいても。何もまとわず。胸。太もも。むきだしのお腹。この体に彼は興奮する。バスルームやキッチンにつながる薄暗い廊下の鏡に自分の姿がちらっと見えても、目をそらさなくていい。そのまま向き合う。
太ったエリザベスは普段、自分の身体をまともに直視することができない。だから、身体的に求めてくれる男性にすがってしまう。天から勝手に降ってきた価値にしか興味のないようなやつでも、身体的に求められる時、世界に受け入れられたと感じるので身を任せてしまう。
彼が惚れたのはこの子だった。悲しげな音楽が好きで、暗闇の中、彼にくっついて寝そべり、深く暗く鳴り響く電子音楽の音の波に身を任せたまま、そのほかは何も望まない、そんな子だった。
夜、寝返りをうったら、うっかり彼の上に乗って窒息させてしまうんじゃないか不安だった。そんなこと心配するなんてばかだった —わたしは絶対にそんなに大きくなかった― けれど、そのせいで眠れなかったのは一晩だけではなかった。心配と、空腹のせい。
対して、痩せたエリザベスは鏡の前でボディラインのチェックはできても、夫のトムの前で明かりのもと、裸になることはできない。トムはそれまでのボーイフレンドと比べると、エリザベスのことをずっと大切に思っているように思える。でも、エリザベスは太っていたころの証拠である余った皮膚を見られることを恐れている。夫の方も、贅肉のない彼女の身体に居心地の悪さを感じていて、ふくよかだったころの彼女を求めている。彼はエリザベスの過去の身体と、身体の重みで彼をつぶしていないかいつも不安で、自信なげだった彼女を求めているのだ。
エリザベスが認めてほしい自分をトムが欲してくれない。これはお互いにとって悲劇的だ。最近、目にすることの多いルッキズムに関する男女の見解の違いは、身体的価値と自己の強い結びつきや身体的価値そのものの認識が、エリザベスとトムのように全く違うから生じているのかもしれない。特に生まれ持った身体的価値と、感情から生まれる身体的価値の区別は男性にはかなり難しいと思う。だからこそ誰も悪くないのに、みんな傷ついてしまう。
対して登場する女たち。母親、女友達、店員。彼女たちもまた、別の身体という戦場で戦う同志であるので、エリザベスの身体や努力を否定するようなことを言わないし、エリザベスもまた彼女たちを否定することを口にしない。努力によって手に入れた価値を上辺だけでも褒めたたえる。この悪習として語られがちな女同士の関係を、作者のモワナ・アワドは嫌みなく、いたって冷静に見つめている。
「その人か。でも嫌いなのにどうしてランチに行くの?」
「友達だから。ランチのこと以外は本当にいい子なの。」
ランチのこと以外ではいい子だし、ランチ中も相手が悪いわけではないから、面と向かって相手を否定しないエリザべス。「嫌いだけど友達」は十分ありうる関係なのだ。
「トップスかわいい」と、なんとかほめてみる。まともじゃない。テントにしか見えない、プラスサイズショップの酷い服。首回りには安っぽいラメ、キャップスリーブの先に申し訳程度のしょぼいレース。それがなかったら死装束に見えなくもない。
「袖、凝ってていいじゃん」
もういちど。まわって全身を見せてと言ってもらいたい。じっと見つめられたい。あの目の中でなら、どんな服でもぴったり合うし、正しいアクセサリーをつけて、間違った態度さえとらなければ、どんな問題も解決する。
バランスを踏み間違える寸前にしかない安息。爆発的にハッピーな関係ではない、すべてをさらけ出せるような美しい友情はない。むしろ少しつつけば崩れ去ってしまうような危うい、けれどそこら中にありふれた女友達との平穏。上辺だけの褒めあいや、その場しのぎの親密さは、はたから見れば良い関係とは言えないかもしれない。しかし、その関係を女性同士が続けているのには理由があるはずだ。身体に対する繊細な価値観をわかっているからこそ、互いの距離を大切にして慎重に過ごしているのだ。
もしかすると。
もしかすると私も、たぶんこのまま十分に待てば、わたしが待つのに耐えられれば、いつかは全部溶け出る。まず脂肪、そしてそれから内臓を上手く誘い出す方法を考えよう。そもそもいらない部分もある。虫垂とか。
痩せたエリザベスは幸せではなかった。でも太っていたエリザベスが幸せだったかといえば、それもまた違う。どちらも世界に対して、身体に引け目があるからだ。世界が自分の身体を受け入れてくれていないと感じているから。身体を介して世界と関わることはこんなにも難しい。
形質「女」としての身体はいつでも自分と世界の調和を妨げるけれど、きっと身体が世界の求める型にぴったりとハマったとき、今よりも世界から愛されると信じてしまう。でもそんなことはない。世界は、宇宙はずっと冷たい。世界が欲する身体など本当は存在しないのだから。いつか脂肪とともに、身体に関わるルッキズム自体が、宇宙に溶けてなくなってしまう日を夢見ながら、我々はダイエットマシンを漕ぎ続けている。『ファットガールをめぐる13の物語』は、マシンの上で耐えなければならない、そんな途方もない時間を少し縮めてくれるかもしれない。
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