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小田原幕府のロマン

ブラタモリより

 ◆記事リンク 


江戸の都市機能は中世の中で最も優れていたと評価されています。 その原点になったのが「小田原」だったというコメントが本文にありました。 

「小田原合戦」にて全国の有力大名が豊臣軍として攻囲陣に加わった経験から、 城下町としての機能や総構えなどの防御施設を参考にした、という説もあります。 

そこから、「江戸幕府ではなく小田原幕府ができたのでは?」という歴史ロマンについて考えてみました。 後北条氏が逆転して天下人になったという仮定も楽しいですが、史実通り徳川氏が入府した仮定です。 


1.ブラタモリ⑤より 

【ルート2 江戸の原点を用水から探す】 

ここでは、飲用を目的とした日本最古の用水ともいわれる「小田原用水」が紹介されています。 江戸の「玉川上水」のように東西に整備された小田原用水は、江戸と繋がるルーツの一つとのこです。 


【ルート3 海側と山側の総構暗渠をたどる】

 20万余ともいわれるの豊臣軍を苦しめた小田原城の「総構(堀・土塁)」は、「江戸城外堀」の原点 ともいわれます。 小田原城は、背後の「八幡山」と「相模湾」との間の平地に築かれています。 つまり、山城・平城・海城の特長をもったスーパーミックスのお城なのです(笑) 

小田原サイト 総構えより
 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/spot/p31082.html

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2.秦野裕介氏(ラボール学園歴史講師、研究者、作家)の見解より 

◆動画リンク 

https://youtu.be/s-CFwkFPFV0?si=6QWRiBZeyHeG64Yg

 


【後北条氏が発展した要因(二代当主 氏綱の功績)】動画内 19:00以降〜 
★は補足コメント

・虎の印判状の使用 
 →郡代・代官による中間搾取を阻止 
 →禄寿応穏(領民の財産と命は北条氏が守る) 

・小田原城への本拠の移動で支城ネットワーク形成 
 →小田原(本城) 
 →韮山(伊豆) 
 →玉縄・三崎・小机(相模) 
 →江戸・河越(武蔵) 

・城に「格」があり、勲功による配置替え 
★これは藩と石高の関係にも通じますね~

 ・北条氏への改姓 
 →朝廷の許可(献金)を得て左京大夫任官(鎌倉北条氏と同じ) 
★家康も松平から徳川に改姓し、官位もしっかり上げてますね

・四公六民 
 →代替わりの検地による税収把握、中間搾取の阻止 
※徳川吉宗の頃に五公五民になる?
 ★関東入りしたばかりの家康も「後北条氏ルール」に苦労したそうです

 ・正室の子を重んじ内紛を回避 
★相続ルールがあったからこそ幕藩体制が安定したともいえますね~ 

・小田原評定による一門重臣の合議制 
★江戸幕府も家老制による合議になりましたね~ 


以上の秦野先生の解説で、江戸幕府が後北条氏の統治制度をかなり取り入れていることがわかります。

家康が、江戸を開拓せずに小田原で幕府を開いても統治制度は変わらなかったとすると、『小田原幕府』はあり得たと思います(^o^)v


3.家康が小田原を本拠地にしなかった理由


さて、小田原が歴史的、経済的に優れているのは折り紙付きなのに、なぜ家康は江戸の開発にわざわざ着手したのでしょうか?

前提として、家康は「長期思考」「歴史好き」「倹約家」という志向もふまえ、勝手に深ーい理由、しょーもない理由などを妄想したりしてみました!

【一般的な理由】

・年貢の低さ
・小田原攻め後の反徳川感情
・立地(西寄り過ぎる)

【軍事・政治な理由】

・秀吉の懐疑心に触れないように下命に従い、かつ西から距離を取った
 →いざとなれば小田原を拠点に戦える。江戸湾に守られた江戸を第二拠点として開拓したかった

・北条氏規と人質時代からの友人なのに豊臣の先鋒になった負い目があった
 →恨みも忘れないが、恩も忘れない性格なので、氏政と同盟中かつ氏直と婚姻中(次女・督姫)でありながら戦ったことを悔やむ
※氏規は四代当主・氏政の末弟、五代当主・氏直の小叔父にあたる

・風魔忍者残党による暗殺危機があった
 →徳川配下の甲賀忍者よりも強大で実態が掴めていないため恐れた。祖父清康(森山崩れ)・父広忠(誅殺?)を若くして亡くした家康にとってトラウマだった

・小田原は海と山に挟まれて大軍を動かしずらい
 →江戸は関東平野にて野戦に持ち込めるので、豊臣氏と衝突する事を想定した(小牧・長久手の戦いの再戦)

・町割りや小田原経済ができあがり過ぎている
 →揉めることが予想できすぎて、家臣団ふくめ岡崎の商人などを城下に呼びづらい


【家康個人の理由(想像含む)】
江戸に行く・・・家康の決断に対し、家臣の石川正西が著した『聞見集』には、「どうしてそんな所にと、誰もが手を打って驚いた」という記載があるそうです。
※普通、家臣や後世の記録は、家康を称える事が多い中でかなり特異な資料

このことから、家康が家臣団に諮らずに決断したのは、一般論とは別の個人的理由である可能性が高いと考え、47歳男性の家康になったつもりで想像しました(笑)

①趣味の鷹狩りができる猟場が少ない
 →小田原周辺は、山と海に囲まれて平地が少ないから儂の愛する鷹狩りができないではないか!しかも海辺は鳶が多い。愛する鷹が怪我させられそうで嫌じゃ┐⁠(⁠ ̄⁠ヘ⁠ ̄⁠)⁠┌


②海(潮風)が嫌い

 →海はいいけど、次に戦う時にまた船で囲まれたら勝てなくね?岡崎は内陸で住みやすかったな〜。台風も直接は来ないし。潮風で建物の修繕費が余計にかかるのは嫌じゃ┐⁠(⁠ ̄⁠ヘ⁠ ̄⁠)⁠┌


③明遠征について事前に察知したので回避したい
 
→明を攻めろ、、、はー?小田原合戦が7月に終って、まだ4か月で処理中なんですけど?てか、先鋒にさせられたから費用掛かったんですけど?関東入府の引越代とか諸々あるんですけど?明遠征となったら小田原攻めの倍以上の兵も銭も使うから嫌じゃ┐⁠(⁠ ̄⁠ヘ⁠ ̄⁠)⁠┌

※史実では小田原合戦から間もない、翌1591年(天正19年)正月に秀吉が明の遠征準備を始めさせる ※事前に主要大名には石田三成あたりから準備を打診されて費用試算をしていたのではないか

④富士山噴火を恐れた
 
→儂は「吾妻鏡」を熟読するくらいし歴史好きなので噴火の事を知っておるぞい。一番直近は、貞観年間に大噴火(864~866年)している。富士山は小田原の裏山みたいなもんだし、噴火したら火の海になるから嫌じゃ┐⁠(⁠ ̄⁠ヘ⁠ ̄⁠)⁠┌

⑤(家康が吾妻鏡を好きな事を知っている)秀吉から「武士の聖地である鎌倉を治めてちょーよ!あと北日本の大名を都督してちょ」と言いくるめられた
 
→儂は源氏だからなー、鎌倉とかいいよな。でも「征夷大将軍」になるには八幡太郎様(源義家)や鎌倉殿(源頼朝)のように奥州で活躍したいけど、小田原からだと遠いし。船なら早いけど酔うから嫌じゃ┐⁠(⁠ ̄⁠ヘ⁠ ̄⁠)⁠┌
 
※前年1589年に奥州仕置きが終わったばかり
※北日本で謀反の動きがあれば、秀吉の代理人として「惣無事令」執行における軍事行動(都督)を許す密約をした可能性あり


⑥信長や秀吉よりも大きな城を作るために広い土地が欲しかった
 →寿命的に次の天下人は儂じゃん?なら、信長様は安土城、サルは大坂城、・・・儂も死ぬ前に超高層な天守閣と、じゃんじゃん儲かる城下町と、小田原みたいな総構えのあるデカい城が作りたーい!巨大建築って男子の憧れじゃん?いっそ鎌倉殿のようにゼロから都市整備とか、室町殿(足利義満)みたくガッツリ建築とかやってみたい!そしたら明遠征に行かなくてよくね?「この家康、身をとして太閤殿下の盾となるべく、小田原より奥州に近い武蔵のいずこかに砦を作りまする〜、なお工事する家臣たちのために小屋も建てまして候」とか言っとけばよくね?

以上です。


おまけ♫

この記事を作成する時にたまたまJR東日本の旅行キャンペーン情報がありました!
その名も『東海道ご褒美旅』です。2024年4/30までだそうです〜(^皿^)
予算を奮発してグリーン車から海を眺めつつ駅弁を食べて、優雅な旅をするのもいいですね♫



◆参考になったnoterさん




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トップ画像はAKISENさんの作品です☆




今回の投稿にて、連続36ヶ月となりました〜(^皿^)v



最後までお読みいただきありがとうございました★ 

#ブラタモリ #感想 #小田原 #幕府 #歴史 #連続投稿

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