キャリア・クラッシス④ 北条早雲
◆シリーズコンセプト
https://note.com/pf_cody/n/n5a0786e755b4
【歴史×キャリア】というコンセプトで、現代の私達のキャリア形成の参考にするのが目的です。
過去の関連記事
北条早雲(以下、早雲と省略)は、室町時代後期における小田原城の城主であり、「後北条氏」(鎌倉時代の北条氏と区別)の始祖とされています。
なお、私はお城好きで、特に小田原城のファンでもあります☆(^o^)v
※小田原城についての私の記事
https://note.com/pf_cody/n/n6a02400f06a0
私が小学生の時に読んだ「まんが日本の歴史」では、早雲についての資料が少なく、「出自不明の浪人から下剋上で戦国大名になった」という説明でした(笑)
◆小田原城サイトより(早雲寺所蔵の早雲像)
早雲の肖像画を見ると僧侶のごとく剃髪・袈裟の姿なので、戦国大名どころか強そうにも見えませんよね。。。
ちなみに、戦国大名の定義は「朝廷・幕府の体制から独立した領国制(独自の検地・分国法・軍役)を行った者」となっております。
朝廷から与えられた官位としての「〇〇守」や幕府から国司として任命された「守護大名」に対して、「領国大名」と呼ばれることもあるそうです。
そういったことから、早雲とはどんな人物で、なぜ戦国大名になれたのか興味を持ちました。
◆画像 早雲寺所蔵の早雲像(小田原市サイトより)
アソビュー 小田原城徹底ガイドより
■1.レポート目的(北条早雲とは)
・歴史上の人物から興味・能力・価値観をキャリアコンサルタントの視点で考察し、「上手くいかない」、「壁にぶつかっている」などの悩みのある相談者へのアドバイスに活かしたいと考えたため
・「独立」や「起業」を希望する相談者に対し、早雲がどのような準備をして成功したのか参考にしてもらうため
・応仁の乱という未曾有の混乱の中、幕臣だった早雲が、なぜ「戦国大名の先駆け」になったのか知りたいと思ったため
■2.北条早雲の経歴について
◆早雲の年齢と経歴をまとめました。早雲の享年には「64歳説」と「88歳説」があるそうですが、今回は「64歳説」でまとめます。
【補足】
※1 申次衆・・・幕府において将軍に奏聞を取次ぐ役職。将軍に拝謁者の報告をして取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。「6代将軍 足利義教」の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の4氏が独占し、交代で職務にあたった。
※2 奉公衆・・・「3代将軍 足利義満」が御馬廻(親衛隊)の整備をしたのが始まりとされ、「8代将軍 足利義政」の頃には5千~1万人規模の将軍直隷部隊だったと推測される。ほかに鎌倉公方や古河公方の下にも奉公衆が編成されていたといわれている。
※3 下剋上・・・元々は中国・隋代の書物『五行大義』などに見られた言葉で、中世日本において、力のない主君を家臣または家臣団が追放するという観念があった。概ね主君の一族から新しい主君が選ばれるのが通例であった。
現在までのところ、早雲は「伊勢新九郎盛時」と同一人物であるという説が最有力です。
まだまだ伊勢新九郎盛時に関する史料は少ないですが、早雲と同一人物である場合、早雲の前半生や行動の謎の部分がかなり解明されます。
そもそも「伊勢氏」とは、桓武平氏の流れを組みつつ、鎌倉時代末期には足利氏に仕えていたようです。また今川氏・小笠原氏とならび武家作法を教授する礼家のひとつです。
その中で「伊勢貞継」が足利尊氏・義詮・義満の3代に仕え、「政所執事」となって以降、政所執事を世襲するようになりました。室町幕府における「政所」とは、財政と領地に関する訴訟を掌る機関にあたり、「執事」とは長官を意味します。(財務大臣 兼 法務大臣?)
さらに伊勢貞継の系統で「貞親」は、「8代将軍 足利義政」の養育係を務めたことで、その後も将軍側近として政治にも大きな影響力を持ち、権勢を極めたとされます。(京都伊勢氏)
伊勢氏のうち備中守となった伊勢盛定は備中荏原郷の領主となり、伊勢貞親の女婿となります。その子が「盛時(早雲)」です。貞親は早雲の「外祖父」という関係になります。(備中伊勢氏)
つまり、早雲が伊勢氏の出身であれば当然に高貴な身分であり、同じく家格の高い今川氏の家督相続の調停をしたり、家臣ではなく客将であることの意味も説明がつくのです。
今川氏といえば、吉良氏に次ぐ足利一族の名門であり、東海道を根拠地とする重要な氏族です。
■3.北条早雲の人物像について(早雲寺殿廿一箇条より)
◆引用元 北条五代観光推進協議会サイトより
【早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういちかじょう)】
早雲が伝えたとされる家訓です。21箇条に及ぶ条文は、いずれも簡潔でわかりやすく、日常生活における注意点や心得が事細かく具体的に記されているのが特長です。現代語訳は、引用元のままです。
基本的には一般の家臣を対象に示した心得と思われ、早雲の直伝とする証拠はありません。早雲が日ごろから一族や家臣に語ったものがまとめられたものと伝わっています。
私の独断と偏見でそれぞれの条文が早雲の【興味・能力・価値観】のどれに関連していそうか分類してみました。
◆人物想像
・神仏を大事にすることを第一条にあて、以下七条までは
僧侶の生活規範に近いと感じます。
・何事も人に任すこと(十一)はあらゆる階層の指導者に
必要で、この家訓を残すということは、代々家名が続く
ことを意識していると思いました。
・主従(八、九、十、十三)についての内容なので
家臣への躾・教育の熱意を感じます。
・時間(十九)や火元(二十)についてなど、「生活管理」
にまで心を配っており、悪く言えば早雲の神経質な側面を
表しています。
■4.北条早雲のキャリア分析
引用文献:早乙女貢/文芸春秋
◆早雲のキャリア分析
・早雲は30代まで室町幕府の官僚(文官)でしたが、
40代から今川家の客将(武官)となって活躍します。
・平均寿命50歳といわれた時代に63歳で引退するまで、
戦場での指揮や国づくりに奔走しています。
・領地の実情を詳しく把握し、領民に寄り添おうとする
姿勢が強いです。
■5.北条早雲のキャリア考察
引用文献:箱根の坂(司馬遼太郎全集51)/文藝春秋
◆北条早雲のキャリア考察
・関東については上杉氏を分裂状態で捉えているので、
成り行きではなく早雲自身で関東西部(相模国・武蔵国)の
攻略を目指していたと思われます。
・氏綱に家督を譲り、翌年に往生しているので、やっと
心の安住を得られたのでしょう。
・二代氏綱以降、「当主」の名前に「盛」や「時」ではなく
「氏」があてられます。これは伊勢氏ではなく「北条氏」の
繁栄を重視していたことの表れだと感じます。
※北条五代
【初代(伊勢)盛時-二代(北条)氏綱-三代氏康-四代氏政-五代氏直】
●細かいこともおろそかにせず、しかも継続できる人物
だったようです。(まさに官僚!)
■6.総括(北条早雲とは)
早雲のキャリアは、現代で例えると、【幼小中高大をエスカレーター進学した秀才で、新卒で中央官庁の官僚に就職(コネ?)、いくつかの事務次官を経験したのちに30代後半で退職し、地方でベンチャー企業を起こして成功した創業社長】というケースです。
さらに息子以降、一族経営が成功して、経済団体をまとめるほどの大企業に発展したので「ベンチャー創業者の鑑」だと称えられた、という感じでしょうか(笑)
(1)早雲は、室町幕府の官僚でしたが、組織の「外」で学ぶことで自分の価値観(新しい領国制)を洗練させることができたと考えられます。
→京にいては分からない自身の領地(備中国荏原荘)や今川氏との関わりの中で現実を知った
→幕臣ではあるが、将軍への忠義一辺倒な人物ではなく、幕政への疑問や限界など危機感は持っていた
(2)早雲は親族にあたる今川家を守りつつ、時代の変化に合わせた「領国制」確立のため、試行錯誤を続けて「自分流」をトコトン追究しました。
→室町幕府の申次衆(事務)と奉公衆(軍事)の両方を経験して組織管理や統治システム、軍略を学んだ
→民衆を顧みない足利将軍家と権力闘争を繰り返す三管領四職(ほぼ足利一門)に嫌気がさした?
(3)年貢を減らす政策が結果的に「領民に支持される仕組み」となり、後北条氏の「領国制メソッド」として受け継がれていくことになったのです。
→早雲は守護や地頭ではないため新しい土地で領民に早急に受け入れられることを重視した結果が「四公六民」だった
※大名や領地によって差異はあるが「六公四民」「七公三民」など当時は搾取状態だった
→当然に労役や兵役はあったが、それ以上に年貢が少ないことが領民にとって重要だった
※戦国時代が小氷河期と重なり食糧難だったことの裏返しともいえる
→年貢減免(四公六民)は隣国からの領民の転流を誘い、「領民の保護」を大義名分とした戦さをしやすかった
※領民が増えることは経済力や軍事力の増加にも繋がる
◆参考図書(リンク)
歴史文化遺産 戦国大名 [監修]五味文彦 山川出版社
◆日本の歴史8 戦国の活力 山田邦明 小学館
◆日本中世の歴史6 戦国大名と一揆 池享 吉川弘文館
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