見出し画像

キャリア・クラッシス ②豊臣秀長

トップ画像 引用元



【歴史×キャリア】というコンセプトで、現代の私達のキャリア形成の参考にするのが目的です。


前回とりあげた藤堂高虎の主君だったこともある豊臣秀長(以下、秀長に省略)。3歳うえの異父兄である豊臣秀吉(以下、秀吉に省略)を支え、天下統一に貢献した偉人の1人です。秀吉が太閤なら、秀長は「小太閤」ともいえます。

大河ドラマ「秀吉」では、高嶋政伸さんが秀長役を演じていましたが、天才の秀吉に振り回され、いつも困り顔で「兄者ぁ〜(^_^;)」と何だかんだ付いてくる愛くるしいキャラクターです☆


前回記事→キャリアクラッシス ①藤堂高虎


結論
秀長のキャリアは、実直に、誠実に、理知的に弛まずに仕事をすれば、特異な才能が無くても活躍でき、大きな功績を残せることを証明している。秀長は何でもこなせるスーパーゼネラリストである。


1.レポート目的


・異動が多いことに悩む相談者に仕事に対する姿勢や価値観を見直すためのヒントを探すため

・若手を中心に管理職を避ける傾向があり、プロジェクトリーダーや補佐役にスポットをあてた場合、同じような経歴を持つ歴史上の人物から興味・能力・価値観をキャリアコンサルタントの視点で考察し、アドバイスに活かしたいと考えたため

・戦国時代というもっとも過酷な競争社会で、補佐役を全うできた人物として、秀長 は際立っています。兄弟や親子で家督争いをしていた戦国武将の中で、なぜ活躍できたのか知りたいと思ったため


 2.秀長の経歴について 


秀長の武将としての経歴を下記にまとめました。最終的には110万石という秀吉に次ぐ大名となりますが、参陣した戦いでの戦功よりも留守・代理など後方支援での功績が多いのがわかります(色掛け部分)。この点は、秀長の特長ともいえます。 

画像1


3.秀長の人物像、能力について 


秀長の基本的な性格は「温厚・真面目・寛容」と評されます。経歴からは「忍耐力・堅実性・適応力・判断力・交渉力」という能力が優れているという印象を持ちました。

秀長の対人アプローチは、兄の秀吉のような「理と情」を織り交ぜた劇場型では無いと思われます。むしろ口下手な分、相手の話をしっかり聴くスタイルだったのではないでしょうか。

ただ、長大な堤の建設や方面軍司令官となれば、多くの人間を動かすため、温情やバランスを取るだけでは何ともならないことがあります。
この時に必要なのは、「理論と知恵」すなわち「理知」です。秀長は多くの専門家に師事し、様々な教えを請うたといわれますので、「理知」を上手く使い分けていたように思います。。

【秀長の交渉スタイル予想1(調略・説得・停戦)】
地元民や部下など時間の許す範囲で相手方の情報を収集し、思考や落とし処を把握します。
穏やかな表情で相手と世間話などしてリラックスさせつつ、農民としての想い、
「腹いっぱい飯が食いたい」
「戦さは嫌じゃ。早く泰平の世にしたい」

という本音を話します。
その上で、相手と真っ直ぐに正対し、こちらが困っている事や、やってもらいたい事を根拠となる数値もサラッと加えて説明したうえで、
「そこで、あなたにぜひ力を貸して欲して頂きたい」
と早い段階で頭を下げて誠実な姿勢を見せたのではないでしょうか。


【秀長の交渉スタイル予想2(兵糧攻め・堤建設)】
事前に資材相場や駄賃について下調べし、軍資金に余裕を残せる範囲で予算案を複数準備します。
キーとなる村長や商人と面談を設定し、予想1も踏まえ丁寧に挨拶し、豊臣軍の目的・作戦をわかりやすく説明します。その上で、
「いまの相場は●●だが、私は★★を出す。」
と米の購入額や人足への駄賃を誠実に示します。ほとんどの相手はそこで話がまとまると思いますが、中には値段を吊上げようとする手練れもいるはずです。
そんな時は、戦災が長引いた場合の被害を時間経過とともに克明に説明して、
「私の算術では、●の年、●月●日で食料が尽きる。戦さはまだ続いているので、人は取られ、田畑は荒れる、市は立たず商人も来ず、買い出しの機会は少ない。。。さて村人をどのように食わしたらよいかの~」
と深いため息をつく。
「そこもとの苦労を思うと、あの時、豊臣の話に乗っておればよかったと私も地獄に落ちるような心持じゃ」
と悲しそうな表情で相手を見返せば、
「はは~、ご提示のお値段で結構でございます!」
ということで一件落着です(笑)

早い段階で手の内を明かす事や頼み事をするのは、交渉事では良くないとされています。
逆に、こちらの要望を早く伝えることで、相手は判断しやすくなるメリットがあります。
ポイントをまとめます。

●もともと武士ではなく農民である自身の背景を正直に本音を話すことで安心感を与える
●交渉でありながら交渉しない。むしろ相手に助けてもらうような落とし所にする。
●無理強いはしない、むしろ苦労や成果を分かち合う姿勢を見せる。



以上の点が難しい交渉の成功のきっかけになったと推測します。

広く意見に耳を傾ける才人といえば、前漢の高祖・劉邦がいます。
そのような人物には才能のある人材が更に集まり、結果的に偉業を成し遂げられるという先例があります。秀長もこれに近い気がします。

以下、堺屋太一 著 「ある補佐役の一生~豊臣秀長~上・下巻」 本文からの抜粋です。 

・家族は父、母、姉、妹を含めた5人。秀吉は10代で家を出たため、実質的な跡取りとして育つ
・同年代の若者のいざこざがあった時はよく仲裁した
・秀吉の家来は無頼者が多く、喧嘩が絶えなかった。秀長は双方の話を聞き、酒や銭をあたえた
・鳥取城の兵糧攻めの際に米を高値で買占める事前工作をし、高松城の水攻めでは堤作りの対価 (米、銭)を賄った
・中国大返しでは秀吉軍の殿軍、山崎の合戦では天王山を包囲して明智光秀を破る
・四国攻めでは総大将として長宗我部を降伏させる
・領主となった大和国は寺院勢力や貴族領などが多く領地経営が難しかったが、政教分離、商人誘 致、刀狩りを実施した
・権力や地位などの野心がなく、兄・秀吉の補佐役天職と考え実行した

 
秀長の死後、その家臣は徳川家康などにも重用されたことから人を見る目があったのでしょうね。代表例は藤堂高虎 (築城、経理)小堀政一(茶人、作庭、造営)中井正清(築城)などです。

このように、秀長は常に秀吉の側にあって「No.2」でありながら、時に縁の下の力持ち的な存在として、困難な状況でも誠実に働き、内政の要として活躍していたのです。

織田家に士官したとはいえ、農民からキャリアをスタートした秀吉には譜代の家臣がおらず、優秀な人材を集めることに苦労していました。秀長はまさに豊臣家の基礎を築いた立役者といえます。 

例えるなら、秀吉は天皇に上奏でき、日本を統治する「太閤」という立場にあるため、現代でいえば「総理大臣」でしょう。さしずめ秀長は、総理大臣を補佐し、内政の実務を兼ねた「官房長官」といえるのではないでしょうか。 また、秀長の死後、居城である大和郡山城には、金子56,000枚余、銀子は二間四方の部屋に満杯になるほどあったと伝わっています。 

もし、この遺産を現在の価値に換算すると、金子56,000枚余は約2億7132万円、銀子は約31億6,880万円相当と推測できる。
※金銀の価格試算は田中貴金属工業ホームページを参考

さらに当時の秀長の石高は114万石あり、1石は米150キロに相当する。これを現在の価格に換算すると、年収として約7,866万円相当あったと推測できる。
※米の価格試算はJAホームページを参考

このことから、秀長は権力や地位を得ても質素な生活をし、堅実さ蓄財能力があったことが伺えますね。


4.キャリア分析


これまで見てきたように、秀長は秀吉のサポートに回ることで自分の能力を活かして活躍しました。しかし、当時の百姓からすれば、武士とは搾取する側の人間であり、戦さを起こして平和を乱す存在として忌み嫌われていた面もあります。 現代でいえば「ブラック企業」に転職するような決断をなぜ秀長はしたのでしょうか。

また武士という職業をまっとうできた要因をキャリアコンサルタントとして見た場合、大きく分けて「価値観」「モチベーション」という2点についてキャリア理論も当てはめながら推察してみたいと思います。 

①「なぜ補佐役になったのか(価値観)」
・当初は日銭稼ぎの感覚で秀吉を助けた
 →自分の「役割」は弟、百姓、息子と自覚(スーパー)
・百姓の家を継ぐつもりだったが、妹と婿がおり家のことは気にせずに仕事に集中できた
 →武士、家来などの「役割」の変化対応(スーパー)
・秀吉のバイタリティによって秀長もチャンスを掴み、転機をうまく対処することで成果をあげた
→連合的学習および受動的なプランドハプンスタンス(クルンボルツ)
・領地経営において百姓という経験、人柄が人々に安定・安心をもたらした
 →現実的(R)・研究的(I)な姿勢 から慣習的(C)・企業的(E)な姿勢への変容(ホランド)、 自分らしさを追求したキャリア構築(SCCT)

 ②「なぜ変化の激しい信長・秀吉を支え続けられたのか」(モチベーション)
・信長や秀吉の泰平の世を作る理想に強く共感していた
・性格的に温厚なため、葛藤やストレスもあったが、家族を養うために頑張れた
・戦国時代というある種のモーレツ社会で秀吉のリードもあって経験やスキルを蓄積できた
・実子が夭折し、世継ぎや遺産を残すなどの私心がなく、仕事に専念できていた
・秀吉の側にあって、他大名や有能な人物から学べる機会が多かった
・補佐役に目的を絞り、留守役・交渉・調整などの向上に目標を限定していた 


5.キャリア考察 


多くの武将が戦場でしのぎを削る中、秀長は戦場よりも後方での功績が認められたのは何故だったのでしょうか。時代背景を整理する中で、織田信長の配下武将の働き方に変化が起きていたように思われる。


 ①戦術の変化 
 →大将同士の一騎打ちから、足軽(歩兵)を中心とした集団戦となり指揮能力が必要
 →鉄砲の普及に伴い、商人との交渉が活発化(京、堺、博多など) 

②経済の変化 
 →米にかわる手段として貨幣の流通対応が必要

③組織の変化 
 →兵農分離で専業武士がうまれ、新古参の家来を含めた組織運営が必要 
 →領地の拡大により、占領地の接収・家来衆の再編成・検地が必要

④領地の変化 
 →自身の領地だけでなく、新たに管理を任された広域な領地の経営能力が必要 


6.総括


秀長は百姓として戦乱による困窮を経験していたので、誰よりも平和を強く願っていたと思われます。そして、秀吉の最終目標が天下統一による「惣無事(停戦)」であり、秀吉の出世や功績がそのまま自分の利益だけでなく、平和につながると信じて「補佐役」に邁進することを「使命(モチベーション)」としていたと考えます。それは、武士が旧来から持つ「征夷大将軍として天下に号令する」というような功名心とは大きく異なっていたのではないでしょうか。 

また、時代の変化により、戦功だけでなく、調整・補給などの管理面や領地・家来の経営面が武将にも求められるようになったことが秀長の能力や活躍を後押ししたとも考えられます。 

もし、秀長が現代に生まれていたら、秀吉が起こしたベンチャー企業副社長(人事・経理担当)として頭を悩ませていたのではないかと想像します(笑)


最後に

秀長のキャリアは、実直に、誠実に、理知的に弛まずに
仕事をすれば、特異な才能が無くても活躍でき、大きな
功績を残せることを証明している。
秀長は何でもこなせるスーパーゼネラリストである。

以上 


参考サイト



参考文献 

○堺屋太一 著 「ある補佐役の一生~豊臣秀長~」上巻・下巻

最後までお読みいただきありがとうございました♫

#キャリア #分析#豊臣秀長#レポート#歴史

もし宜しければサポートを頂けるとうれしいです☆