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「小田原城」とは何か(追記発展型記事)


この記事は、小田原城のあふれんばかりの魅力を一度に書ききれないため、追記発展型記事という試みにさせて頂きます。
のちのち目次をつけて読みやすい整備させて頂きます。
なお、鎌倉時代の北条氏と区別するため、「後北条氏」と呼称します。

後北条氏の初代・伊勢盛時(のち北条早雲)からの支配確立前後のトピックス

※私が小学生の時に読んだ「まんが日本の歴史」では、資料が無く北条早雲は「出自不明の浪人から下剋上で戦国大名になった」という説明でした(笑)

・小田原城についての考察(2022/3/26追記)
東国はまつろわぬ国なのか(2021/7/12追記)
関東統治の難しさ(2021/10/15追記)
坂東武者、坂東平氏の存在(2023/8/16追記)
・平将門、平忠常などの反乱
・源氏、平氏、奥州藤原氏の三国鼎立の可能性(奥州藤原氏は三代で滅亡)
・鎌倉幕府は武家政権の象徴(三代・実朝から北条氏が掌握)
・室町幕府は京都から動けず(三代・義満の治世をピークに衰退)
・北条早雲とは?(2023/1/30追記)
後北条が「武家3代の呪い」を克服(四代・氏政により最大版図を築く)(2023/8/16追記)
関東統治の過程(合戦、民政、支城ネットワーク)(2023/8/16追記)
小田原幕府のロマン(江戸のモデル?)(2024/2/22追記)
徳川幕府(治水・平城・民政)のモデル(2024/2/22追記)

小田原城について私なりに考察してみました(2022/3/26)

★参考 小田原城の歴史より


お城の分類において、戦国時代は防御にも適していた山城(やまじろ)が多く造られました。

江戸時代に入り、平和な時代が続いたため、山城は解体・移転される代わりに行政の拠点としての平城(ひらじろ)などが街中に残ったともいえます。


小田原城は関東の西の端にありながら、後北条氏の関東統治の中心地として5代約100年も栄えました。ここが最大のポイントです。

関東には、かつての扇谷上杉家や山内上杉家のような大勢力は無く、小田原城が「山城」である必要性や本拠地をもっと関東の中心部(武蔵国など)に移す必要は無かったようです。

また、後北条氏が善政を敷いたことで相模国以外の関東の領地では一揆や反乱が少なかったため、城下町として後世に残ったのではないでしょうか。すなわち、小田原城が現在の場所にある事が後北条氏が関東に実現した「武家による平和」を伝える意味があると考えます。建物や石垣は後から付け足されたものなので、実際には「縄張り」といわれるお城の設計図に沿った堀や門の配置、総構えといわれる外郭部を含めた全体に本当の価値があると思います。


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さて、小田原城は、市内はもちろん、遠方からでも望める絶景の中にあります。

一見すると街中にあるので「平城」と思われがちですが、上杉謙信・武田信玄・豊臣秀吉に攻められても落城しなかった堅守を誇ります。
※小田原の地名由来は、平野部の湿田地帯に由来し、そこから少し高い原っぱという意味だそうです。よって「平山城」と分類されます
※海に面しているので「海城(うみじろ)」ともいえますが平山城です
※豊臣氏との「小田原合戦」は包囲戦だったため城の損失は回避


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現在の小田原城の美しい天守閣や石垣などは昭和・平成に復元されたものです。

小田原城は、江戸時代以降に幾度も地震の被害を受け、ついに関東大震災により全壊してしまったからです。


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※画像はYouTuberの【YUKIMURA CHANNEL】さんの動画内より引用

小田原城の始まりは、室町時代です。

1450年頃、相模国西部を支配していた大森氏が、八幡山(現在の小田原城の北西あたり)に築いた「山城」が初期の小田原城だったといわれています。

この時は、大森氏の軍事拠点であり、資料はありませんが土塁や館のある『戦うための城』です。

名称はむしろ立地のとおり、八幡山城でもよいのかもしれません(笑)


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※画像はYouTuberの【YUKIMURA CHANNEL】さんの動画内より引用

1495年、伊豆国から攻め上がった初代当主・伊勢宗瑞(のちの北条早雲)によって攻略されます。ここから後北条氏の拠点となり、相模国の中心地に発展していきます。

1518年、伊勢宗瑞の跡を二代当主・「氏綱」が継ぎ、伊勢氏から「北条氏」に改名します。

氏綱は相模国の東部、さらに武蔵国の南部へと領地を拡大しました。

この頃に、小田原城の本丸などの整備拡張が進んだようです。軍事だけでなく、政治の中心地となります。

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1541年、氏綱の跡を三代当主・「氏康」が継ぎます。氏康は「戦上手」で知られ、武蔵国南部・下総国西部・駿河国東部の一部を領地に入れました。

小田原城は拡張され、現在の場所で本丸・二の丸・曲輪などの城郭が完成しました。

また早川や真鶴の湊も整備され、北条水軍の司令部にもなっていたと想像します。


1559年、氏康の跡を四代当主・「氏政」が継ぎます。氏政は関東への進出を拡大し、1561年、長尾景虎(上杉謙信)に攻められ、守りきりますが城下の一部が燃えました。長尾氏は越後からの遠征であり、この時は短期間で撤退しました。

1569年、戦国最強とも謳われる武田信玄に攻められた時も守りきりますが、またも城下が一部燃えました。武田氏も短期間で撤退しました。

この頃、三の丸が増設されたようです。


1573年、氏政の跡を五代当主・「氏直」が継ぎます。まだ若かった「氏直」を補佐する氏政ですが、実際は実権を握っていました。後北条氏は関東一円の支配を確立し、最盛期を迎えます。各国の支城は相互に連携して守りを固めました。

気になったのは、相模国西側は甲相駿同盟による今川領に守られているとはいえ、広い関東を統治するには小田原城は西端にあって遠すぎるような、、、

別の見方をすると関東の真ん中に拠点を移した場合、反乱や離反で包囲される可能性もあります。後北条氏が小田原城を本拠地にし続けたのは初代当主・伊勢宗瑞の遺訓なのかも知れませんね。


時は流れ、1587年、事件が起きます。豊臣秀吉が「関東・奥羽惣無事(戦闘停止命令)」を発し、後北条氏に臣従を促してきました。

「氏直・氏政」はこれを拒否し、小田原城の大修築に取り掛かります。


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1589年、豊臣方との対峙は続き、小田原城を中心に城下の外周を堀や石垣、土塁で囲む総構(総延長は約9km)を準備し、翌1590年に完成します。これにより、多数の兵員・食料を確保でき、長期籠城が可能となります。各国の支城と合わせて関東全体が城塞国家となるはずでした。。。



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1590年4月3日に始まった「小田原合戦」は、西から進軍してくる豊臣方に対し、小田原城のある相模国・伊豆国は最前線になる形です。秀吉本隊と九鬼・毛利水軍を引き付け、関東全体の防壁となったのです。


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一方で、各城主や主力部隊が小田原城に集結したため、支城との連携は取れず、最終的に小田原城は孤立してしまい、7月5日、後北条氏は降伏します。


【戦力対比】(諸説あり)

●小田原城
 →後北条氏 82,000余

ーーーーーーーーー
●秀吉本隊
 →豊臣・徳川・織田の主力勢153,000余
◎北部方面隊
 →前田・上杉・真田勢 35,000余
○水軍、輸送部隊
 →九鬼・毛利勢20,630余


小田原城は、およそ2倍以上の兵力と約3か月も戦ったのは見事です。


【小田原合戦の敗因は主に2っ】

①情報収集不備
 →豊臣方の外交力や政治力をはじめ、戦い方について理解が不足していた
 →同盟していたはずの徳川氏や伊達氏の降伏(豊臣方に参陣)


②軍事戦略不備
 →小田原城への籠城策に頼りすぎ、各支城への追加動員が遅れた
 →味方の早期降伏や案内を務める者がおり、開戦前の意思統一が弱かった


小田原を主戦場とするならば、「小田原城を活かす戦い方」は、他になかったのか、さらなる考察を深めたいところです。

もし、北条早雲なら泥臭い手も含め利用できるものは全部使って手立てを整えたような気もします。


以下、参考や引用させて頂いた各サイトです★

平城について


お城用語について

日本の城 Japan-Castle


総構について


「小田原」の地名由来について


小田原合戦について




【上記のトピックスを踏まえた結論】

小田原城は「ただの平山城(ひらやまじろ)」ではなく、武家による東国(関東)統治成功の象徴であり、軍事に依らない優れた民政の偉功を示すものです。

※YouTuberの【YUKIMURA CHANNEL】さんの動画にて様々な合戦が紹介されています
※他にもいくつかの動画シリーズがあり、寸劇風のやり取りも面白くてクセになります☆


もし後北条氏の大河ドラマを作られるとしたら、北条五代のキャストを妄想してみました☆


初代・宗瑞:市村正親さん
      (青年期:綾野剛さん)
2代・氏綱:反町隆史さん
3代・氏康:竹野内豊さん
4代・氏政:江口洋介さん
5代・氏直:中川大志さん
語り/幻庵:田中泯さん
      (青年期︰堺雅人さん)






★とぅーむゅらすさんの記事紹介★
「狼煙」に注目した独自の考察が光ります。後北条氏の支城ネットワークの強さの解明に役立ちそうです。



★三城俊一さんの記事紹介★


★しのはさんの記事紹介★


★ふわスケdoさんの記事紹介★


★てっぴぃさんの記事紹介★


★お城君さんの記事紹介★


★Bunbunさんの記事紹介★



#小田原城 #小田原#後北条氏#お城

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