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映画「アンホーリー 忌まわしき聖地」観ました

「アンホーリー 忌まわしき聖地」観ました。
普通にホラーとして面白かったです♪

恐怖や鮮血を求める人用の作品ではなく、
キリスト教の長年の宿敵(問題)である
偽預言者の話ですね。

いわゆる
[奇跡と、偽の奇跡をどう見分ければいいのか?]
という話。

聖書(ヨハネの黙示録)には
「キリストの宿敵として
アンチ・キリスト、
つまり偽預言者が登場するであろう・・」

と書かれていて、
その偽預言者の[偽りの信仰]に惑わされない様に・・
という事が警告されています。
しかし、
何が本物で何が偽物なのか?
これは信仰する者にとっては本当に難しい問題で、
これを哲学(というより神学)的に考えると

[人は自分にとって利のあるものを信じてしまう・・
つまり、自分に都合の良いものを信じる。
そういった行為には純粋でない愚かさが関与している故に、
必ず偽物、つまり悪霊が入り込むものだから、
己にとって都合の良い物語には気を付けなさい]

という事なのだと思います。

逆に言えば
[自分にとって
最も都合の悪い道の中にこそ信仰の道がある]

という事ですね
(キリストが自ら十字架の道を選んだ様に。
だから昔から、敬虔なキリスト教徒達はキリストを倣いて
あえて苦難の道を選ぶ訳です)

それは何も
「自らの体に実際に鞭を打て」
という話ではなく、
我々が生きている現実の中で思い当たり、
考えるべき部分があるのではないか?

という事なのでしょう。

[自分にとって都合の良い道を信じるのではなく、
時として最も都合の悪いものの中に
真実がある事を認める誠意を人生に対して持て]

という事です
(人生とは喪失なので、
喪失を受け容れる強さを持たないと
何も見る事は出来ない

という話とも似ていますね)。

この映画の中にも同テーマは(ライトにですが)描かれていて、

【最も愚かな者(罪人)こそ信仰を見つけ、神に愛される
(なぜなら人は皆、罪人なので、
劇中の罪人とは[人間そのものの象徴]だからです)】

【奇跡とは、己にとって都合の良いチープな
[期待される芝居]
ではなく、
与えられた残酷で救いの無いこの現実の中で、
ほんの僅かだけ垣間見るものである】

などの古くからの主題
語られているのが良かったです。

結局の所、奇跡とは、
車椅子から立ち上がれる事ではなく、
健常でも病でも、結局は楽園とは心の中にある・・
と気づく事なんですよ。

まぁ、フレディ的な悪魔描写は余計だから、
もうちょっと厳粛な宗教映画にしてくれても良かったのに・・
という不満は若干ありますが(笑)

十分楽しめる作品でした。
私は好きですね~。

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