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ディディ゠ユベルマンとの対話(France culture 2023.03.15)

2023年3月15日にFrance cultureで放送された、ジョルジュ・ディディ゠ユベルマンとマリー・リシューの対話の翻訳(およそ半分くらいを訳出した)。リシューがパーソナリティを務める番組の企画で五回にわたって放送された「イメージを思考する」対談シリーズの第1回にあたる。音源は以下を参照した。


対談のなかで言及される「モンタージュ盤」展のようす(https://ruedudepart-editions.com/imec-georges-didi-huberman/)。ディディ゠ユベルマンが組織した展覧会。

イントロダクション

マリー・リシュー :「イメージを思考する」と銘打った全五回の放送をとおして、各回の対話では、それぞれの専門の実践からこの「イメージを思考する」という定式に光を当てていただきます。各回では、歴史家、映画監督、映画批評家、撮影監督をお迎えし、イメージを思考するそれぞれに固有の方法を語ってもらいます。ジョルジュ・ディディ゠ユベルマン、そうした方法こそ、あなたの実践を、いや、あなたの人生を何十年も占めてきたものだと言うことができると思います。イメージを思考するにあたって、まずあなたのことが思い浮かぶほどです。そこで、二つの素敵なお知らせがあります。IMEC(Institut mémoires de l’édition contemporaine:現代出版史資料館)で開催されている「モンタージュ盤(Table de montage)」展と、ご著書『変容を被るヒューマニズム──類似はひとを不安にさせる』の出版です。この本はガリマール出版から刊行されています。以上に加えて、「モンタージュ盤」展に際して出版された見事なカタログもあります。この展覧会のカタログに関しても、今回取り上げることになるでしょう。こんにちは。今回、お引き受けいただいたことに感謝いたします。
ジョルジュ・ディディ゠ユベルマン:こんにちは。こちらこそ感謝申し上げます。
M・リシュー:今回は、「イメージを思考する」と名づけられた放送シリーズの初回となります。展覧会のカタログもこちらに見えます。のちほど話題に登るでしょう。カタログでは、構成のための資料カードに基づいておこなわれた作業の方法を丸ごと明かしてくださっていますが、一枚のカードがわたしの注意を惹きました。そのカードには、文字はあまり書き込まれていませんね。自筆でこう書かれています。「まなざすことを妨げもする言葉とともに、ひとはまなざしを向ける(On regarde avec des mots qui nous empêchent de regarder aussi)」。わたくしの最初の質問は次のようなものです。イメージを思考するためには、まずイメージにまなざしを向けなければならない、それも長い間向けつづけなければならないのでしょうか。
G・ディディ゠ユベルマン:言葉にもまた、長い間まなざしを向けつづけなければなりませんね。おっしゃるとおりです。イメージにまなざしを向けなければなりません。肝心なのは、まるで思考しなくてはならない対象であるかのように、イメージに取り組むことなのでしょうか。たしかにそれは肝心なことです。ただ、肝心な事柄はもっとラディカルかもしれません。それはつまりこう考えることです──ただ思考するために、わたしにはイメージが必要なのだ〔il me faut des images pour penser en général〕と。
M・リシュー:ええ(笑)。
G・ディディ゠ユベルマン:ですから、「イメージによって思考する」という定式のほうが、ひょっとするともっと問題含みで、もっとずっと問題として厄介なものになると思います。「イメージを思考すること」には、もちろん興味を惹かれます。イメージに対して、わたしは何よりもまず情熱をもっています。まったく子供っぽいですよね。がきんちょのようなのです。書店でフッサールの本を見かけるときでさえ、まず手に取ってページをめくります。イラストは一枚もない本なのですが(笑)。いささか素朴でしょうけど、ともかく、イメージを探してしまいます。
 ですが同時に、思考の実践は、伝統的には次のようになされてきました。つまり、思考すること、それはイメージを棄てることにほかならないというわけです。もしもわたしが、眼の前にいるラジオの記者とは一体何者なのかということを考えようとするなら、眼の前に見えるイメージを棄て去ろうと試みることになるでしょう。黒いTシャツ、ジーンズ、あなたのかけている眼鏡や、あなたの耳に掛かっているそれ、といったイメージをです。わたしは、こういったイメージをすべて棄てようとするでしょう。一方では感覚しうるものであり、他方では特異なものであるイメージを。それこそが、観念を得るための思考であり、思考とはそういうもの、イメージを棄て去ることなのだと言われます。ですが、断じてそんなことはありません。そうではないのです。わたしはそうは思いません。ところで、「イメージは思考するか」が問いとなっていたのでしたっけ。
M・リシュー:三つの定式でした。「イメージを思考する」、「イメージによって思考する」、「イメージは思考するか」。
G・ディディ゠ユベルマン:いずれにしましても、わたしの実践のなかにあるのは絶え間ない往復です。
M・リシュー:三つのあいだの往復ですね。

「モンタージュ盤(Table de montage)」展

G・ディディ゠ユベルマン:あなたの眼の前には展覧会(「モンタージュ盤」展)のカタログがありますが、それに関していうと、ご存知のとおり、壁がありますね。カーンにあるIMECのホールです。すばらしい場所ですね。そこにある、長い、長い壁には2500-3000枚のイメージが展示されています。それらのイメージは、わたしが写真で撮影したり、スキャンしたりしたものです。最終的にわたしは、展覧会では既成のイメージを一切使わないようにしました。なぜかというと、わたしにとってひとつのイメージとは、フレームに収められた何かだからです。フレーミングの問題に関してはあとで立ち戻ることになるでしょう。フレームとは、自分に課すひとつの限界です。ですが同時に、 まさにその限界においてこそ、ひとはまなざしを向けようとのぞみます。それは一つの思考の選択なのです。
 それから、〔展覧会の〕イメージの壁の向かい側には、テクストの壁があります。カードには自分の手で文字を書き込みました。ですから、イメージを思考することは、言葉とともに思考することなのです。というのも、言葉とともにまなざしを向けるわけですから。しかし、言葉は障害物でもあります。さきほど引用してくれましたね。ただし、フレーズ(文)は障害ではありません。ただの一語は、思考をしないのです。一つのイメージも、思考をすることはありません。そうではなく、三つのイメージを交互に、あるいは二枚と一枚とをそれぞれ並べてみるならば、そう、こんなふうに特定の順序で並べてみてください。そうすると突然、思考の素描が得られるのです。
M・リシュー:言葉も同様なのですね。複数の語を連ねてみるならば……
G・ディディ゠ユベルマン:そのとおりです。ある言葉のあとに別の言葉を連ねてみるなら、ひとつのフレーズが手に入ります。フレーズが考えるのです。単語が考えるのではありません。「女」という語を取り上げましょう。たんに「女」と言うだけの人が何を考えているかなど、はたして分かるものでしょうか。その人はマチズモを支持しているのか、それともフェミニストなのか、それを知ることはできません。フレーズがなくてはなりません。「女」という語が一つのフレーズのなかに置かれることが必要なのです。そのフレーズによって、ひとが何を考えているのかが、言葉のモンタージュのなかに明かされることになるわけです。イメージに関しても同じことが言えます。
M・リシュー:ジョルジュ・ディディ゠ユベルマン、今回、あなたをお招きして「イメージを思考すること」について論じていただいています。イメージを思考することは、イメージを並べること、複数のイメージを持つこと、イメージどうしの関係と配列をつくることであるわけですね。
G・ディディ゠ユベルマン:一つのイメージというものは存在しません〔Une image, ça existe pas〕。
M・リシュー:けっして存在しないのですか。
G・ディディ゠ユベルマン:断じてです。たとえば、夢想に耽ると、自分のもとには一つのイメージがすぐにやってきます。別のイメージがやってくるわけです。夢を見るときも、美術館に行くときでも、事情は同様です。フェルメールに興味があって、《レースを編む女》を見るとしましょう。まなざしを向けたくなるはずです。か細い赤い線が垂れ下がっていて、とてもおかしな感じですね。ですが、フェルメールの別の作品にも赤い線は見ることができます。身体から、つぶれた蛇から、アレゴリーのごとく赤い線が逃れ出ているのです。よろしいでしょうか、一つのイメージは存在しないのです。そもそも、エイゼンシュテインもそう言っていますし、ゴダールも同じことを述べています。つねに、少なくとも三つがあるのです。二つでも充分ではありません。
M・リシュー:三つ目は何を付け加えるのでしょうか。三つ目とは何でしょうか。いったい、いかなるものがデュオ(二対)の彼方へ赴くのでしょうか。それによってわたしたちが思考できるようになるのは、いったい何なのでしょうか。
G・ディディ゠ユベルマン:弁証法です。あるイメージをもう一つのイメージに対置すると、いくつかの関係が得られます。類似とか、さらには等価性といった関係が見られます。「それは同じだ」とか、「それは反対のものだ」とか言われることになります。つぎに、三つのイメージを置いてみると、何かが起こり始めます。それはすでに物語になっているでしょうし、アーギュメントになっていることでしょう。思考の観点からわたしがそれを弁証法と呼ぶのは、三つの項が存在しているからです。

ヨハネス・フェルメール《レースを編む女》(1669-1670年頃 ルーヴル美術館)

『変容を被るヒューマニズム──類似はひとを不安にさせる(L'humanisme altéré. La ressemblance inquiète)』

M・リシュー:挙げてくださったイメージ、フェルメールにおける深紅のか細い線に立ち戻りたいのですが、あなたの最新の著書を想起しました。そこであなたは、事物の類似〔ressemblance〕について、反復について語っていますね。強度を秘めた点として提起される〔蜂起souleverさせられる?〕事物、反復される物事の類似についてです。反復される=みずからを反復するものにとらえられること、それは、イメージを思考するための格好の手段なのでしょうか。
G・ディディ゠ユベルマン:そのとおりです。類似のうちにあるすばらしいことがらとは、それが反復される、ということではありません。見事なこと、それは、そこに立てられるつながりであって、それはたんなる反復とは異なります。そもそも類似するとはすなわち反復することなのだ、つまりオリジナルに忠実な仕方で反復することなのだと考えるとき、ひとはまったく誤りに陥っていることになるでしょう。それこそ、たとえば、ジル・ドゥルーズがニーチェにおける永遠回帰にかんして述べたことにほかなりません。すなわち、それは回帰する。それは別の仕方で回帰する。反復と差異です。『差異と反復』とは、ドゥルーズの見事でありながらきわめて難解な本のタイトルです。ですがきわめて重要な本です。
M・リシュー:ご指摘のおかげで、反復し回帰するものとは何なのかが見て取れるようになりました〔原文:ça nous aide de repérer ça=?〕。
G・ディディ゠ユベルマン:根本的に重要ですね。チャップリンの『独裁者』を取り上げてみましょう。ユダヤ人の床屋は独裁者に似ているようにみえます。ですが、両者を混同してしまうことになるでしょうか。けっしてそうではないですよね。二人を混同してしまうわけではありません。両者は互いに類似している。ですから、両者は異なります。
 元々この本は以前に書いたテクストをまとめなおそうとしたものですが、そのなかでわたしが提示しようとしたことがあります。1999年くらい、その時期にわたしは転回を迎えていました。わたしはルネサンスに、ドナテッロなどに、ひじょうに高い関心を注いでいました。じつのところ、その時期には、アウシュヴィッツのイメージについての仕事をおこなう決断がありました。なんというか、それはわたしを二つの道に分岐させました〔ça m'a fait bifurquer〕。そのため、ルネサンス美術史という専門領域を、わたしはいくらか脇に置いたわけです。じっさい、ルネサンスについての仕事をすることは心地よい〔confortable〕ものです。政治的なイコノロジーについて仕事をするときや、ある種の仕方で、わたし自身の政治的な不安に、政治的な批判・批評への欲望につよくむすびついていることをめぐって仕事をするときは、ずっと心地がよくありません。ですから、ベルリンのボーデ美術館の友人の助けを借りて、わたしはこれらの対象〔ルネサンスの芸術家たち〕に戻ってきたわけです。彼が言うことには、「きみはドナテッロに戻らなくちゃいけない。」それで、実際そうしたわけです。それはとても楽しいものでした。そうすることで再検討できたことがあります。まず、1430年代のフィレンツェの人文主義です。それはまったく途方もない時代でした。
M・リシュー:では、あなたはイメージを思考するのでしょうか。それとも、イメージによって思考するのですか。
G・ディディ゠ユベルマン:〔思考する〕わたしがいるとしても、それよりも前に、まず彼らがいます。そうした人々がいるのです。すなわち、言葉の取り違えゆえに、人文主義者、フィレンツェの人文主義者と呼ばれている人々です。わたしはそうした言い方がまったく好きではないのですが。ドナテッロ、ブルネレスキ、またロレンツォ・ヴァッラのようにテクストの研究に従事した者たちのことです。彼らはまったく並外れた人々でした。彼らはじっさい、イメージを思考するとともに、イメージによって思考してもいました。
 単純な事実を取り上げましょう。きわめて静的なフレスコ画、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の《洗礼者ヨハネの誕生》(ギルランダイオ作)を思い浮かべてみてください。とてもスタティックで、洗礼者ヨハネの誕生が描かれています。描かれている人物はみな、15世紀のフィレンツェ人の格好をしていて、とてもブルジョワ的です。ですが突然、右隅から一人の少女がやってきます。彼女は他の場所から到来します。別の時間から、パガニスム〔異教の世界〕からやってくるのです。これらの芸術家たちは思考していました。それは、宗教に対する最初の批判・批評です。そこで彼らは、きわめて豊かな、動揺の効果〔effet de perturbation〕を思考したのです。すなわち、パガニスムへの回帰であって、パガニスムへの、ニンフへのある種の関係です。 ニンフは、ブルジョワの、フィレンツェの、キリスト教の館の広間のなかに到来します。そのさまは見事なものです。そこには注目に値する、批評的な効果があります。
 わたしが批評的な効果〔effet critique〕と言うのは, イメージはいかにして思考するのかを思考することがもっとも興味深いことであると思うからです。たとえば、ユベール・ダミッシュ(1928-2017)は芸術理論の大家ですが、わたしはダミッシュとともに研究をしていました。彼が示したのは、遠近法とは一つの思考するイメージであるということです。わたしが先ほど引き合いに出したニンフも、もう一つの例として挙げられるでしょう。ただしそれは、批評的な効果を生み出すイメージでもあります。そうした効果が生まれるのは、モンタージュが存在するからであり、ひとつの物が存在するからです。わたしがそれを症状・徴候〔symptôme〕と呼ぶのは、それが、ぱん、と破裂するからです。それは思考します。順応的なイメージの初めに存在する何ものかのうちに、思考を生みだすのです。一つのイメージはしばしば順応的です。三つのイメージはもっと順応的なのです〔順応的conformiste=「因襲的な」という否定的なニュアンスを持つが、〈別のイメージとともに形formeを成そうとする〉ということも含意するか〕。
M・リシュー:そうなると、それは既にがらくた以上のものであることになるわけですね。
G・ディディ゠ユベルマン:そのとおりです。

ドメニコ・ギルランダイオ《洗礼者ヨハネの誕生》(1486-1490年 サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂)

見かけをとおして透けて見えるもの

M・リシュー:ここで、イヴ・ボヌフォワの言葉を聞きましょう。 1975年の音声の記録で、おそらく、イメージに警戒するようわたしたちをいざなってくれるでしょう。

イヴ・ボヌフォワ:見えるがままの見かけ〔apparence=外観・仮象〕の現実にイメージが調和をもたらすことができるのは、イメージが見かけからものを借り受けることによってであるにすぎません。それゆえイメージは、感情の現実全体を検閲し、抑圧するのです。すなわち、検閲と抑圧を被るのは内的な現実であり、わたしたちをほかの存在と一つにすることができる現実にほかなりません。《フォキオンの遺灰を拾う妻のいる風景》のなかでプッサンが提示した聖なるものは、純粋な空間的次元に依拠する数によって成り立つものです。プッサンは愛を知りません。彼は、わたしたちの本能から生まれる不合理な関係を知らないのです。したがって、イメージにおいて成立するこうした合一は、わたしたちのもっとも深い精神的欲求に対してなされる圧政でもあります。じつのところ、イメージはわたしたちを解放するのと同じだけ抑圧します。そうして明らかとなるのは、イメージは歴史を持つはずだということ、イメージは歴史的なものにほかならないということです。イメージはつねにイメージ自身を拒んでいます。イメージは、自己の前に自己を探し求めつづけているのです。

Dialogues avec Roger Pillaudin, France Culture, 09/09/1975
ニコラ・プッサン《フォキオンの遺灰の収集のある風景》(1648年 ウォーカー・アート・ギャラリー)

 M・リシュー:議論すべき多くのことが話されていましたね。
G・ディディ゠ユベルマン:そうですね(笑)。
M・リシュー:初めに取り上げたいのは、感情の検閲という考えについてです。精神的な欲求の検閲、愛にまつわる事柄の検閲……。あなたはイメージによって、イメージとともに多くのことを思考されています。そうすることを、自分に確保することなく。あなたにとって感情とは、思考の資源なのでしょうか。
G・ディディ゠ユベルマン:言語について言えることは、まさしく、イメージについても言えます。圧政的な言語というものがあります。それを前にすれば、何もできなくなります。順応的な言語も存在します。合言葉というものがあります。
M・リシュー:その言葉は身動きを取れなくなっていますよね。さきほど話題になった三番目のイメージがそこには欠けています。
G・ディディ゠ユベルマン:たとえばゲッベルスは、「大衆〔peuple〕」という語を用いました。彼のいう「大衆」は、何も為すことができません。じじつ、そこにあるのは圧政です。一方で、アルチュール・ランボーはパリ・コミューンに際して「民衆〔peuple〕」という語を使いましたが、その意味はゲッベルスとはまったく異なっています。そういうわけで、わたしはイヴ・ボヌフォワの言うことに同意しませんが、彼のことは好きです、とっても。お聞かせいただいた短い一節にそれほど同意するわけでもありません。なぜなら、見ることはただわたしたちにかかっている〔il ne tient qu'à nous de voir〕からです。見かけとは、それほど単純なものではないのです。見かけは、真理や本質に、精神性や内面に対立するものではありません。もしもあなたが高圧的な人を前にするなら、彼は、あなたが内面で高圧的だと思うとおりの見かけを持つことになりますね。あなたは彼を見るのがむずかしくなると思います。
M・リシュー:近づきがたい人だと思えます。
G・ディディ゠ユベルマン:彼は鎧で身を護り、まるで城壁になり、壁になるでしょう。ですが、それが見かけというものなのです。見かけとは揺れ動くもの、流れるものです。空を覆うための見かけ、それが雲です。見かけとはそういうもので、政治とは見かけそのものなのです。ハンナ・アーレントが言うことを引き合いに出すなら、政治とは、見かけのなかで生じる何ごとかであり、存在というものが内的でより優れていてよく深くより高いものであるとしても、政治とはそうした存在のなかで生じるものではないのです。断じてそうではありません。
M・リシュー:ですが、そうなると、政治やイメージにおいて理解すべきこと、政治やイメージのなかに捉えてくわしく分析すべきことがらを、想像させまいとひとを挫くことにならないでしょうか。見かけの背後に向かわなくてはならないのに。
G・ディディ゠ユベルマン:そうではありません。見えるものだけで我慢してはならないのです。見かけのなかに、症状・徴候を成しているものを見つけなくてはなりません。
M・リシュー:わたしたちの興味を引くものですか。
G・ディディ゠ユベルマン:いいえ、うまくいかないもの〔ce qui cloche=どこか具合が悪いもの〕です。そうであるからこそ、精神分析はかくも重要なのです。カンヌ映画祭の会場の階段の上で、にっこり笑っている人がいるとします(笑)。あなたがその人にまなざしを向けると、とても大きな不安を、笑顔のなかに見て取ります。笑顔に覗く真っ白な歯や、唇といった見かけゆえではありません。自分自身の感情を、身体のうちに、身体をとおして表出しているからです。ですから、身体によくまなざしを向けるだけで充分なのです。
 見かけと内面とを対置させるべきだとする考えにはそれほど同意するわけではありません。内面は透けて見えるのです〔l'intérieur, il transparaît〕。内面は見かけのうちに透けて見えます。にっこり笑っているという、その事実のうちに透けて見えるのです。自分は元気だよ、と他人に信じさせようとしているわけで、それから、顔の上で何かが生じます。もしも、あなたの見かけにわたしがまなざしを向けるなら、あなたの不安の動きがわたしには見えるでしょう。

歴史的なイメージ/ヒステリー的なイメージ

M・リシュー:1975年の音声資料のなかでイヴ・ボヌフォワが述べていたこととは異なりますね。ボヌフォワは、あらゆるイメージは歴史的〔イストリックhistoriques〕なものである、必然からして歴史的であるという考えを語っていました。
G・ディディ゠ユベルマン:あら、わたしには「ヒステリー的〔イステリックhystérique〕」と言っているように聞こえました。
M・リシュー:面白いですね。あなたの聴取の性癖なのでしょうか。ボヌフォワの言葉をもう一度聞いてみると興味深いことなるかもしれません。
G・ディディ゠ユベルマン:(笑)。
M・リシュー:『モンタージュ盤』では、ヒステリーのイメージに一つの章を丸ごと割いていますね。
G・ディディ゠ユベルマン:そうですね、わたしにとってヒステリーはある種の王道であるように思われたのです。
M・リシュー:わたしには「歴史的」と聞こえました。サッカーの試合の放映で選手の動きをリプレイするみたいに、一部のカットを再生してみたいと思います。 

プッサンは愛を知りません。彼は、わたしたちの本能から生まれる不合理な関係を知らないのです。したがって、イメージにおいて成立するこうした合一は、わたしたちのもっとも深い精神的欲求に対してなされる圧政でもあります。じつのところ、イメージはわたしたちを解放するのと同じだけ抑圧します。そうして明らかとなるのは、イメージは歴史を持つはずだということ、イメージは歴史的なものにほかならないということです。イメージはつねにイメージ自身を拒んでいます。イメージは、自己の前に自己を探し求めつづけているのです。

Dialogues avec Roger Pillaudin, France Culture, 09/09/1975

M・リシュー:論点があります。ボヌフォワが展開し問うているイメージの歴史的な性格と、あなたがヒステリーやヒステリーのイメージに注いでいる関心とを寄せ集めて、〔つよい同一性とは言わぬまでも〕小さなパッチワークをつくることはできないでしょうか。
G・ディディ゠ユベルマン:わたしに「ヒステリー的」と聞こえたのは、ボヌフォワのうちにイメージへの批判をわたしが聴き取っていたからですが、イメージが歴史的であるということについては、よく理解できないでいます。それは取り上げるべき問題になるでしょうか。そうは思わないのですが。
M・リシュー:ボヌフォワは「歴史的」と言っていましたね。彼がそう述べていたのは、ひとを疎外するこの合一にひびを入れるためだと思います。イメージは歴史化されねばならないのだと。わたしはそう理解しています。
G・ディディ゠ユベルマン:ボヌフォワの発言を、前後を含めてもっと長い尺で聞きなおすのがよいと思います。ですが、はっきりしていることは……、いや、ヒステリーの話題にとどまりましょう。ヒステリーとはすなわち、ひとを誘惑する見かけをもつ何ものかです。いわばその見かけは、背後にある不安を隠しているのです。ヒステリーとはしばしばそのようなものです。ある種の誘惑が、じつのところ、セクシュアリティに対するきわめて大きな不安を隠していることがあるのです。フロイトが臨床していた患者においてはまさにそうでした。
 注意をもってまなざしを向けることは、じっさい、ただわたしたちにかかっています。すなわち、一つひとつの見かけのうちで作動している、いくつもの矛盾にまなざしを向けることです。イメージにまなざしを向けるとはそういうことです。それは、イメージが与えようとしているメッセージへと、イメージを要約してしまうこととは異なります。このことをつねづね忘れずにおかねばなりません。バルトが提示している例をめぐっては、彼に同意することはまったくできませんが、「自明なもの〔l'obvie〕と鈍いもの〔l'obtus〕」というバルトの考えには同意できます。つまりは、一つのイメージのうちには、自明なもの、明白なものがあるということ、そしてイメージのうちには何か鈍く奇妙なもの、襞をなし折り畳まれたものがあるということ。それこそ、見るべきものなのです。その点でバルトは正しいのです。

おそらくイメージとは、欲望のアーカイブ、欲望の作品のようなものである。じじつ、イメージは想像する。ところで、かくなる根本的な弁証法なしに、こうした絶えざる応答なしに、想像力はけっして進まない。記憶と欲望は、あっちに行ってはこっちにやってきて、両者が混ざり合うこともあれば、互いに抗して暴れることもある。イメージを形づくる布置において、想像力の力を取り出し、〔イメージという〕この帰還場所を探し求めるのは、わたしたちの記憶術にほかならない。だが、そうした記憶術にわたしたちは、自分たちの予感を、自分たちのユートピアを、もっとも深い希望を投入しもするのである。イメージをめぐる大きな問いは、イメージの美しさや、イメージが芸術面でどの程度ひとを惹きつけるかにあるのではない。そうではなく、イメージが形をあたえるその仕方、複数の形、運動のさなかにある形を欲望に与えるその様態にこそ、問うべきことがらは存している。そのとき欲望は、欲望そのものを表象する何らかの形のうちに安らうわけではない。欲望はむしろ、予期せぬ形を出現させ、それに動きを与え、通過させ、移動させ、変貌させる。欲望すること、それは把握することではなく、ましてや所有することでもない。イメージが欲望の問題であるということは、イメージはわたしたちをまなざす、ということを意味している。まなざしを向けられるわたしたちは、イメージを最後まで見たり捕まえたりするすべを知っていると、そう考えることもできないのだ。

Georges Didi-Huberman, Tables de montage : Regarder, recueillir, raconter, IMEC, 2023.[番組内で読み上げられる。ページ番号は不明。]


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