セーヌ川に揺れる美の余韻
今日も私は、旅の途中で迷っている。オルセー美術館に入るまで、パリの空は鉛色だった。
チケットを手に取ると、若い警備員が微笑んだ。その目は、何千人もの旅人を見てきたようでありながら、不思議と疲れの色がない。
足を踏み入れた瞬間、息をのんだ。かつて鉄道駅だったオルセー美術館は、見事な改装を経て、芸術の殿堂として輝いていた。
スマートフォンを構え、最高の角度を探す人々。その光景自体が、現代のアートツアーの一部のようだった。
5階上がってすぐにある巨大な時計の前には、写真撮影のための長蛇の列ができていた。
その歴史的な時計は、まるで美術館の心臓のように存在感を放っている。
観光客たちは、完璧な背景を求め、何度もポーズを変えていた。
私は、まるで誰かの日記を読むように、絵画たちを眺めていた。
ゴッホの自画像の前で立ち止まる。不安定な色彩と苦悩に満ちた眼差し。
それは、孤独な天才の叫びなのか、それとも美そのものの叫びなのか。
ミレーの絵画の前で、私は再び息をのんだ。「落穂拾い」の静かな尊厳が、見る者の胸を打つ。
ギュスターヴ・カイユボットの「床削り」は、労働の厳しさと美しさを同時に描き出していた。
モネの睡蓮。水面に揺れる光の表現に、私の心も同じように揺れている。美術館は、時間が溶ける場所だ。外の喧騒とは無縁に、ここではただ感情だけが静かに動いている。
そして、再び会えた「考える人」。
オルセー美術館の中は、数多くのロダンの彫刻で満たされていた。
6時間。けれど、それはたった6分のようにも感じられた。
帰り道、セーヌ川のほとりで、一人コーヒーを啜った。
旅とは、内なる風景を描く水彩画のようなものだ。
時計の音、彫刻の影、光に満ちた記憶が、静かに私の中で鼓動している。