私にとって知識が、自分と他人を守るお守りみたいな存在になりますように。
「私の場合はね」「私はそう思ったよ」
私の口癖だ。
正確には、癖というよりも常に意識して使っている言葉だ。
これまでの人生のなかで、当たり前のことだがいろんな人を見て、自分もいろんな経験をしてきた。
細かいことはまた改めて書けるときが来たらいいなと思っているけれど、とにかく、ここまでの人生を経て、世の中にはいろんな人がいて、私には想像もできないような知らない世界もたくさん存在しているのだと強く感じた。
言葉にすると平たくなってしまうのだけれど、多様性を大切にしたい。しなければいけないという思考・感覚になった。
この考え方自体が、間違っているとは思っていない。
ただ、多様性を認めようとするあまり、必要以上に気を使ったり、躊躇してしまうことも多い気がしている。
これも本当にあたりまえのことだけど、私が「嬉しい」と感じることを、Aさんも同じように感じるとは限らない。でも同じ可能性もある。
「決めつけてはいけない」と思う。
「強要するような言い方をしてはいけない」と思う。
いつどこで誰を傷つける可能性があるかなんてわからないし、いくら気を張っていても嫌な思いをさせてしまうこともきっとあると思うけれど、
それでも最大限配慮して、生きていきたいと思っている。
傷つけられて嬉しい人は、きっといないから。
保険をかけたコミュニケーションをとってしまう
つい保険をかけたようなコミュニケーションをとってをしまうところは、あまり良くないなと思っている。
人に踏み込んでいくのが苦手なことも、たぶん私のこの考え方に関係している気がする。
これ以上聞くのは失礼かもしれない、話したくないかもしれない、など色々と考えてしまい、探り探りなコミュニケーションをとってしまう。
たぶんというか絶対、まだ私が知らない世界は星の数ほど存在するし、知らない世界で生きている人もたくさんいるし、
全ての人の生き方・考え方を把握し理解することは不可能だと思う。
でも、自分以外の人は親しくても親しくなくても全員他人だし、私とは違うのだと意識しているだけでも、少しはましなのではないかと私は信じている。
知識をつけたいと思った。
これは以前タイムラインでたまたま見かけて、ずっと心に残っているツイート。
他人をできる限り尊重し認めることを「優しさ」と呼ぶのだとしたら、いちばん必要なのは知識なのではないかと思った。
配慮不足は想像力不足に繋がっていると思っていたが、知識不足にも密接に関わっているのだと気づいた。
「知らなかった」は、言い訳にはなるかもしれないけれど誰かを傷つけてしまってからは全てが手遅れだ。
仕方ないという人もいるかもしれないが、私はできる限り傷つきたくないし、誰かのことも傷つけたくない。
すべてを知ることはもちろん不可能だけれど、できる限り多くのことは知っていたいと思った。知ろうとしたいと思った。
ちっぽけな世界でちっぽけな知識を抱えて生きているけれど、
「知らないことがたくさんある」ことだけはわかる。
私にとって知識が、自分と他人を守るためのお守りみたいな存在になりますように。
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