もう一回乾杯しようよ。
とある空気のひんやりとした秋の夜、彼と私は大学のそばの小さな居酒屋で、いつものようにくだらなかったり、くだらなくなかったりする話をしてだらだらとお互いの時間を共有し合った。
私は酒に強く、酔っ払って記憶を無くしたり、泣きわめいたりしたことは一度もなかった。私にとってお酒は、少し奇妙な味のするジュースだ。酒に溺れて突拍子もないことをしでかす大人に、少し憧れも感じるくらいだった。
彼はお酒に弱く、何杯か飲んだだけですぐに頬がピンク色に染まる。
「ゆでだこだね」
「うん」
今までに何度繰り返してきた会話だろう。
この日は、珍しく彼から酒を飲みに行こうと言い出した。
「珍しいね。酔っぱらったら置いて帰るよ」
「わかってる!気を付けるから」
店に入って1時間くらいが経った。
彼はハイボールを3杯、私も彼にペースに合わせて同じくらい飲んだ。
「ねえ、もう一回乾杯しようよ」
彼は、酔っぱらってご機嫌になると何度も乾杯をせがむ癖がある。
「仕方ないな」と言ってジョッキを合わせる。
思わず触れたくなってしまうくらい、熟した桃のような頬と虚ろな目が愛おしかった。
「ねえ、誰かを好きになったことって、ある?」彼は私に尋ねた。
私はびっくりして、「どうして?」と訊ねる。
「わからない、どうしてかな」と彼は答えた。
少しの間を置いてから、私は「あると思う」と彼に答えた。
「そっかあ」と彼は言い、眠そうに瞳を閉じた。
今にも口から飛び出してしまいそうだった。彼への想いが詰まった風船は、私の中で休むことなく膨らんでいく。いつか、耐えられなくなってしまう。そうわかっていた。
いつかこの気持ちを外へと出さなければ。
針を刺して風船を割るのは、彼か、私か。
あるいは、自然と空気が抜けていくのを黙って見届けるのか。
そうこうしているうちにも、風船は膨らみ続ける。
今にも割れそうなこの風船に、彼が気づいてくれたらいいのにと思う。どうか気づかないでくれとも思う。
私は、彼が私の風船に無表情で針を立てるところを想像した。
恐ろしい映像だった。
気持ちが良さそうにすやすやと眠る彼は、そんなことを知らない。寮まで送るの私なんだからねと思いつつ、彼の髪をそっと撫でる。
こんなにも優しく切ないこの気持ちが、永遠に宙を彷徨いつづける様子を想像し、胸がチクッと痛んだ。
「ねえもう一回乾杯しよう」
むくっと起き上がってきたと思ったら、また乾杯をせがんでくる。
「仕方ないな」と言っていつもと同じようにジョッキを合わせる。
彼にとってこの乾杯は、今までも、これからも幾度となく繰り返される日常の単なる一ページかもしれない。
でも私にとっては、一回一回の彼との乾杯は、積み重なっていく宝物のような存在だった。
たぶんこれからも、しばらくはずっと。
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