今ここ 自分


自分とは記憶である、としか言いようはないだろう。生まれてから現在までのあいだに体験したこと、つまり頭のなかや体のなかに入って、いまもそこにとどまっているものすべて、それが自分だ。そのような記憶に関して、自覚のあるないは問わない。すっかり忘れていてもいっこうに構わない。なにかきっかけがあれば、記憶の層の底から噴出されたかのようにあらわれ、なんらかのかたちで自分を手助けしてくれるものであれば、それでいい。

先見日記 Insight Diaries | NTTデータ
自分とはなにか 片岡義男



「わたし」がわたし自身であると実感できること、つまりその人自身のアイデンティティを成り立たせているのは、2つの要素であるという。

わたし自身の身体は取り替えがきかない、世界でただひとつの身体であるということ、つまり、「身体のアイデンティティ」。もう一つは、わたしは他の人が経験したことのない固有の経験を持って生きているという、「歴史としてのアイデンティティ」だ。


絶望だって、分かち合えば希望に変わる。
熊谷晋一郎さんが語る「わたしとあなた」の回復の物語 | soar(ソア)



さて瞑想するとわれわれは「今ここ」に帰ってきます。ところがわれわれは「今ここで」のことについては考えることはできません。考えは「今ここで」のものではないんです。だから「今ここ」に帰ってくると、思考はなくなる。なくなるというのは変で、あるんだけれど、影響を受けなくなる。

「今ここ」にあるものは感覚。五感にうつるものそのまま。瞑想は過去や未来の思考や感情にばかり向かっていた注意を、「今ここで」の感覚に連れ戻す作業のことだと言っていいでしょう。そうして思考の影響を受けなくなると思考にともなう感情である「不安」「ゆううつ」は消えてしまう。

人間の意識は、潜水艦の潜望鏡のようなものだと思うんです。眠っているときには水面の下にある。起きているときには水面の上に出ているが、見えるものは「考え」か「今ここで」か、どちらかひとつ。「考え」を見ていると「今ここで」は見えないし、「今ここで」を見ていると「考え」は見えない。

われわれは思考や感情イコール自分だと思っていることが多いのですが、それは違う。思考や感情は、ほんとうは意識の対象であって、外の世界と同じように、われわれの外側にあるものだ。だから、意識が「今ここ」に目覚めていると、思考や感情に巻きこまれないで、それからちょっと離れて見てみることができるようになる。

「アドラー心理学トーキングセミナー ― 性格はいつでも変えられる」野田俊作著 | 精神世界の叡智


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