7/26週の気になるニュース
今週は11本です。
→記事全体として、広告代理店やバッハ会長を金の亡者のように扱い、絶対悪に見立てることで五輪をめぐる混乱を説明しようとするのは違和感があります。
確かに広告代理店やバッハ会長にも瑕疵があるのかもそれませんが、事態はもっと複雑で、彼ら・彼女らにも加害者性と同時に、そうせざるをえなかった被害者性みたいなものも織り込まれている気がしています。そういう複雑な側面をわかりやすい諸悪の根源として理解しようとしても、分析を間違えるだけではないでしょうか。
菅内閣の34%という水準は7年8カ月続いた第2次以降の安倍前政権で最も低かった38%も下回る。(しかし)政党支持率は自民党が38%でトップを維持した。6月の43%から5ポイント下がった。2位の立憲民主党は9%でほぼ横ばいだった。支持政党がない無党派層は35%で4ポイント上がった。
→政権への支持率は下がっているものの、政党への評価として自民党以外の政党が受け皿になるような動きは見られないようです。
温暖化のために豪雨や旱魃など異常気象の頻度が高まっているなら、本来すべきことは国土強靭化と、いざというときに備える危機管理の徹底だ。なのに政府は、大して票に繋がらないこれらの政策は先延ばしにし、派手な投資をもたらすカーボンニュートラルばかりを優先してきた。つまり、当然のことながら、今回の災害の一因は、政策の過ちではないかという声が、今、にわかに上がり始めている。そして、その政治責任を回避するためか、政治家はさらに悲痛な面持ちで「CO2削減の加速」を訴え続けている。
→良くも悪くも「気候変動対策」が選挙の道具になっているという指摘です。
CO2排出量目標の徹底さで世界のトップをいくドイツからすると、このまま世界トップの座を守ることで政治的な成功を象徴づけられると思いますし、また、EVなどの新しい産業への投資も加速して経済成長の道具にもなるので自国の経済力の誇示にもなるのでしょう。
この辺はあまり詳しくないのですが、昨今の気候変動対策への世論の過剰な傾倒は違和感を持っており、地球や人類、環境といった大きな議論をすることで、身近な生活感覚を置き去りにしてしまうのではないかという懸念があります。その意味では、「気候変動対策」を主張する政治に対して素朴に道徳的な正しさや善意を感じるのではなく、多少選挙対策や経済成長を目的としている可能性もある点を考慮して割り引いて見なくてはいけないと思います。
→気づきませんでしたが、良い配慮だと思いました。
→自分も新国立競技場を自分の目で見てきましたが、バリケードで入れないばかりか、外から中が見えないようにもなっている姿を多少残念に感じました。
→僕の記憶が確かであれば、陸上など屋外で行う競技をやっている国内のアスリートから東京の猛暑で競技を行う事に懸念があり、札幌で行うや早朝に行うなどのいろいろな案があったと思うのですが、それらって結局どうなったんでしたっけ?
国内メディアでもそのことについてかなりボリュームを割いて扱っていたので、開催してからいきなり思い出したかのように再び取り上げて、政府を批判するのでは遅すぎるのではないでしょうか。
よくメディアのリマインド機能ということを言っていますが、過去に力を入れて報道したものを重要なタイミングで再度世の中に提示して議論を再開させることをメディアもして欲しいなと思います。後出しで批判ではなく。
→原爆投下時に対象区域の外側で暮らしていた原告が被爆手帳の交付申請を却下され、広島地裁に提訴し、地裁が黒い雨は「大雨地域」より広い範囲で降ったと判断し、原告全員を被爆者と認めた訴訟ですが、もともと補助参加した国の方針に従って自治体は控訴していましたが、今月14日の広島高裁判決でも一審同様に全員を被爆者と認定した上で、認定要件を緩和していました。
これに対して国側は上告せず、住民の勝訴を確定させることになります。これを受けてこれまで保証対象地域外だった人もバンバン手帳の交付を申請することになるはずです。
訴訟では科学的な知見からも大雨の影響によって健康被害を受ける範囲は国が定めた範囲よりも広いことが認められましたが、こうした国の恣意的な線引きは至る所で行われており、典型例は原発事故後の強制避難区域などの線引きです。もしかしたらこれも時間が経って、恣意的な線引きによる健康被害などで訴訟が起こるのかもしれません。
→放置か?厳罰か?と問われてもどちらでもないというのが回答な気がします。正確には、失言に対しては、放置だ!とか厳罰だ!とか責任のテンプレを事前に決めるのではなく、個別ケースで議論する余裕が欲しいと思ってます。
責任は司法的責任と道義的責任の2つに区別できると考えており、司法の場合は司法がどのように責任を取ればいいのかを決めてくれますが、道義的責任の場合は社会がどのように責任を取ればいいのかを決めます。政治家の場合は、まず失言した本人に投票した人(本人や政党への支持者)がどう対処して欲しいのかによって責任の取り方を決めていくべきと思います。
実際、杉田議員の発言はおそらく自民党支持者には保守系の人が多いので、杉田議員の発言をそれほど疑問に思う程度が浅かったので、自民党としても厳罰な対処をしなくても良いと判断したと思いますし、立憲民主の場合はリベラル政党としてはあまりにも党の目指すべき方向とかけ離れた発言だったので支持者への示しもつかないため厳罰な対処の判断をしたものと考えます。まとめると、党の方向性と問題となった発言の内容の乖離の大きさで判断すべきで、一律に厳罰化とか放置だとかは思考停止のような気がします。
肯定的な投稿が増え始めたのが、ソフトボールの競技が始まった21日だ。「なんだかんだで始まると楽しくなる」といった書き込みがあり、開会式や航空自衛隊「ブルーインパルス」の展示飛行があった23日には否定的な投稿を上回った。「五輪」または「オリンピック」を含む投稿全体の数も23日に430万件を超え、前の日の2.4倍になった。
→政治や経済の状況と関係なく、アスリートの真剣勝負に感動できるところがスポーツの良いところだと思うので、スポーツの役割を果たしているとも思いますが、その一方で自民党の失策などを忘却する役割も果たしてしまうと、衆議院選を先延ばしにしたり、無理矢理五輪を開催した自民党の思う壺になってしまうので、あくまでもスポーツはスポーツで感動して、政治は政治で区別して考えた方がいいなと思います。
組織委員会分の費用を除いた東京都と国の「大会経費」と「関連経費」の合計額は都が1兆4519億円、国が1兆3059億円になる。この金額は都と国の一般会計から支出されており、財源はいずれも税金だ。1人あたりの税負担を計算すると、東京都民は「10万3929円」、4人家族なら1世帯約42万円を都民税などで五輪のために払っている。都民負担金額を除いた国民1人あたり(都民を含む)の五輪負担は「1万408円」になる。
→額の多い・少ないは置いておいて、税金を使って大きな施設を作ったり、大きなイベントを行うことが忌避される時代に生きていると思います。ただ、コロナ禍で「冗長性」というワードが踊ったように、大きな施設を持っておくことがワクチン接種会場しかり、地震の避難所しかり、いつか起こりうる危機への備えになるという可能性もないでしょうか。
政府に対し、首都圏をはじめ感染者が急増している地域に早急に緊急事態宣言を出すとともに、全国を宣言の対象とすることについても検討に入ること、40歳から64歳までの人などのワクチン接種をできるだけ早く完了させることを求めています。
→緊急事態宣言は予防的措置としては発出しないと明言されているので、ステージ4になるなど、政府が決めた水準にまで感染が拡大していない段階で出すのは違うと思います。まあ既に何度も予防的措置で発出されているんですが、、
五輪が持つ意義はすでに失われ、一都市で開催することは不可能だ。このまま突き進むことは許されない。IOCと五輪は制度疲労を起こしている。こうして「呪われた開会式」が終わり、「犠牲の祭典」が始まった。そして、「日本人金メダル第一号」の速報と共に、すべてが忘れ去られる。これが五輪の持つ魔力だ。そしていま、それが現実となった。
→人間である以上、五輪に限らず、何かの負担を顔も見たことのない誰かに無意識に負わせているし、自分もまた誰かの負担を無自覚に背負っているんだと思います。この負担の交換なるものが自然と行われていることに自覚的であることによって、自分だけが不平等に負担を背負っているのではないと思うことができるし、負担を背負ってくれてるかもしれない他者への尊重が生まれてくるんだと思います。
その上で、五輪に限らず運動会とか地域のお祭りなどをやるにあたって確実に誰かに何かの負担を押し付けるイベントは世の中にたくさんあります。これらは全て負担を押し付けられたとしても自分に何かの利益が返ってくると思えることで非合理的であっても継続することができてきたと思います。例えばそれはそのイベントに携わっているという名誉だったりします。オリンピックもそうだと思います。
しかし、五輪の建前や偽善が社会に全く受け入れられなくなったことで、五輪に関わることで自分が支払う負担以上の名誉を手に入れられなくなっているのではないでしょうか。自分が負担をしてまで大きな価値や大きな物語に身を捧げることが簡単には正当化されない時代でオリンピックだけではなく、祭りなどのイベントも無くなっていくんだろうなと思います。
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