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「引きこもり」として社会問題と付き合う

自分の読書人生を振り返るとずっと社会問題に関わる「当事者のケア」を考え続けてきた。

社会問題の当事者をケアすることは恋人に振られた友達を慰めるのに似ていると思う。

つまり、なんて言葉をかけていいかわからない。

それは社会問題の当事者が持っている「状況の複雑さ」による。

まず初めに2つの例を挙げたい。

加害者と被害者

当事者というのは一般的に被害者でもあるし、同時に加害者でもある。

例えば、僕が福島にきて思うことは原発被害者であったとしても、ここに住む決断をした自分の責任だ、とか、なんでこんな場所に住んでしまったのか、とか、あれだけの被害を受けたにも関わらず自分自身の決断を責めるメンタリティを持ってしまっていることに気づいた。

この複雑さを理解しない言葉は共感されないし信頼もされないんだと思う。つまり、100%被害者の立場から政府や東電の責任だと言い続けたりしても当事者の複雑な心情をケアすることにはならない。

当事者と非当事者

僕は弟が障害を持っているがそんなに気にならないで生活できている。
でも、障害者の弟を持っていると言うとすごい気を遣われる。
弟とこういうことして遊んだ、とか、家族とこういうことしたって友達との話題の1つにしたい、けど「可哀想」的な眼差しで見られると思うと避けたくなる。
これ以上、障害者も大変なんだ!とか、障害者を守れ!とかいう言説が
世の中を占めてしまうと何ら気にしてない当事者が生きづらくなる。従って、僕や僕の家族は自分たちの家族が社会問題の当事者であると考えてほしくない。当事者だと思われるのであればそんな肩書き忘れて欲しいし、無視して欲しい。

つまり、加害者だとか被害者だとか、当事者だとか当事者じゃないとか色々なことが個別ケースで議論されるべきことなので状況が複雑なのだ

しかし、昨今社会問題に関わることはリア充に見えるようになっている。経済的にそこまで負担がない人が敢えてコミットする運動にキラキラした内発的な動機を感じてしまう人が多い。社会問題に関わること自体全く否定しない。でも、社会問題にポジティブに(積極的に)関わることによって状況の複雑さがこぼれ落ちると思っている。個人的には社会問題に関わることは複雑さと向き合う苦痛でしかないし、千葉雅也さん的に言うのであれば「ノリが悪くなること」だという前提を共有したところから、「それでも敢えて」社会問題に取り組む人に共感や信頼を感じる。

逆に、僕が違和感を持つ社会問題への関わり方が具体的に2つある。

1. 被害者の代弁

僕は当事者以外の人間が「被害者の代弁者」として振る舞うことに違和感を覚える。

なぜなら、今の世の中で一番パワーを持っている言説は「被害者の代弁者」として加害者を攻撃することであるからだ。代弁の裏側に被害者の姿があることでどんな暴言だってぶつけられるし、周りから批判されることもないのでSNSなどの言論空間で脚光を浴びるのに手っ取り早い方法になってしまっている。従って僕は安易に「被害者の代弁者」ポジションをとっている人がいたらポジション取りや知名度を取りに行っているのではないかと警戒するようにしている。

確かに、被害者は一般的に被害者であるがゆえに自分では声を上げられないのだから、他の誰かが代わりに声を上げなくてはいけない、というのもわかるし実際にそういった活動をしている人もたくさんいるんだと思う。

しかし、残念なことに僕らはその違いを100%正確に見極めることはできない。だったら前提として警戒しながら個別ケースで認める場合と、前提として認めながら個別ケースで警戒することのどちらかの選択肢しかなく、僕は個人的な経験から前者を選択しようと考えている。

2. 安易なメタ化

さらに僕は、個人的な問題が直ちに社会問題としてメタ化されることにも違和感を覚える。

例えば搾取されたとか、被害を受けたとSNSで声をあげれば、それが個人トラブルではなく社会的な構造によって引き起こされた社会問題だという風に解釈されるのが「知識人仕草」になっている。

確かに、個別イシューからでも問題含みの社会構造を発見して変革の機運にしていく積み重ねで社会は変わるという意見もわかる。

しかし、当事者にとっては「社会問題にされない権利」や「社会から忘れられる権利」も重要で、安易に社会に結びつけられることで生きづらくなる人もいるので「なんでもかんでも社会問題に」という姿勢には賛成できない。

例えば、前述したように障害当事者に関わる身としては、なんでもかんでも「障害者の問題」として一括りにされることは避けてほしい。それを全く問題だと思わない人たちの生活に「問題」という色が付いてしまうのは、日常生活を生きづらくするだけだ。

今2つの違和感について述べてきたがどちらもSNSがなければそんなに批判するようなことでもなかったかもしれないと思っている。

被害者の代弁者になるのもSNSで発言するのではなく道端で署名活動とかをしているのであればどこか共感できることもあるし、個人の問題が直ちに社会問題に結びつくのも、個人の問題を露わにした時に共感や同情の声がバーっと集まるSNS的な空間がなければ実現しなかったはずだ。

そういう意味では僕の違和感は当事者の苦しみをケアしてあげたいというルソー的な「憐れみ」が自分の打算的な計算に基づいて行われることへの違和感なのかもしれない。やはり僕にとっては社会問題になんか関わらないほうが楽に生きれるし、自分の身内に当事者がいなければ避けていたはずなのに、なんでポジティブにまるでリア充のように社会問題に関われるのか不思議でならないのだ。こんなのひねくれた見方だろうし、ルサンチマンに他ならないこともわかっている。しかし、やはりポジティブに社会問題に関わる姿勢によって何かがこぼれ落ちているのではないかと思わざるを得ないので勉強を続けている節がある。

話が少し脱線してしまったが、では、こぼれ落ちている大切なものとは何か?

それは冒頭にも書いた「状況の複雑性」だと考えている。

思えば、先ほど書いた2つの違和感も極端に複雑性を切り落としたものである。100%被害者だし、100%社会のせいにするようなことはわかりやすいがわかりやすすぎて状況を適切に捉えていないと感じてしまう。

「状況の複雑性」はなぜ理解されないのかというとスケールすることでしかペイできない既存メディアの影響が大きいと考えている。

まず、SNSやWEBメディアではいいねや記事のPV数がスケールしなければペイできないモデルなので複雑さを取り去ってわかりやすく纏めてしまう。また、新聞やTVといったオールドメディアも放送時間や記事の紙面数に上限があるので複雑な問題をダラダラと掲載することよりもわかりやすく簡潔にまとめることを選んでしまう。

つまり、既存メディアは新旧問わず「社会問題をわかりやすく社会化すること」には向いているが、僕が重要だと思っている「社会問題をわかりやすくせず複雑なまま社会化すること」には向いていない。

ここで重要なことは複雑なものを複雑なまま伝えることは結構簡単であるが、複雑なものを複雑なまま、かつ、その伝達空間を広げていくことの両立は極めて難しそうだということだ。わかりやすい情報は簡単に拡散されていく。しかし難しい情報が広がって色々な人がこの問題は複雑だと理解するのはどうしたらいいのか?

僕の中の答えは、スケールを目指さない閉鎖空間の中で議論しながら徐々にその閉鎖空間を広げていくしかないと思っている。閉鎖空間の中で複雑なことを議論したり伝えることが面白いという空気を作りながらそのコミュニティに参加する人を徐々に増やしていくというイメージだ。実際に昨今、言論人などが閉じた空間の中で親密な関係性を基盤に有益な情報を伝達するコミュニティやプラットフォームが次々と作られていると思う。

注意したいことは、これは外からは全く問題にコミットしなていないように見えてしまう。普通にただの「引きこもり」にしか見えないということだ。

ハンナアーレントが「人間の条件」で公的領域と私的領域を区別してオープンな公的領域こそ政治的活動ができると主張したのに代表されるように古代ギリシアから一貫して政治とは外に出ることだと言われてきた。その間ずっと「引きこもり」は良くないことだと、奴隷的だとずっと貶められてきた。しかし、現在の政治的状況や言論空間を考慮するとむしろオープンな空間で揚げ足取りを気にしながら発言したり、極端にわかりやすい議論に終始したり、右や左の党派性に吸収されてしまうことを回避して健全な議論を引き出すためにむしろ「引きこもり(閉じた公的領域)」こそポジティブにアップデートしなくてはいけないと思っている。それが現在における社会問題に関わること/政治的であることの条件ではないだろうか。

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