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カールシュミット「政治的なものの概念」を読んで「自由」の危険性を知る

イタリアの哲学者アガンベンの<ホモサケル>プロジェクトを読む中でたびたび言及されるカールシュミットやベンヤミンを読まないといけない気がして、まずはシュミットの代表的な「政治的なものの概念」を読んだ。

もともとシュミットはナチスを正当化してしまった法哲学者のイメージしかなかったが読んでみると英米由来の自由主義の危険性を正確に指摘しており、自由とか個人とか綺麗な言葉が踊る今の社会をも射程に捉えて警鐘を鳴らしてくれるアクチュアルな本だと感じた。

(1)政治は友と敵を区別する
(2)友と敵の区別から道徳や倫理は区別される
(3)人間は友と敵の区別からは逃れられない

この3点を抑えれば、人類という言葉が発する危険性にたどり着く。

まず、政治とは友と敵とを区別する。その友とか敵とかは、道徳的に間違ってるから敵とか、正しい人だから友とかは関係ない。そして、経済、宗教、教育など非政治領域でも友と敵の区別は起きてしまうのでその意味で我々は政治的だと言う。

20世紀には戦争への反省から人類が構成する国際連盟のような機関が生まれ、国家が友と敵の区別なく、自由や平等や人権を尊重する国際協調を目指した。しかしそのプロジェクトですら友と敵の区別からは逃れられないとシュミットは言う。さらには国際連盟のような国境を越えたプロジェクトが友と敵を作り出してしまうことでより凄惨な戦争が起こる可能性についても言及している。

国際連盟の理念に友敵理論を組み合わせると以下のようになる。なお国際連盟の自由主義を代入してもいいかもしれない。

(1)国際連盟は友と敵を区別しない
(2)国際連盟は自由や平等といった道徳的な価値を尊重する
(3)それでも、国際連盟は友と敵の区別からは逃れられない

まず(1)と(3)は矛盾しているように思える。実際に国際連盟は矛盾している。国連に加盟していない国は当然出てくるのでそういう国は真っ先に敵になってしまう。さらに(2)のように国連は道徳的な価値と結びついているので、国連に加盟しない敵は道徳的に間違っている。

従ってその帰結としては国連に加盟している友が一致団結して、国連に加盟しない敵を道徳的に非難したり、場合によっては道徳的に間違っているからこそどんな攻撃ですら許されるというロジックが生まれて暴力行為になることだってある。実際にそれは我々の祖先が見てきたことだ。

この帰結はシュミットにとって自明だったからこそ自由主義や国境を越えた国連というプロジェクトにも反対した。

さらにシュミットは自由主義の問題として、友と敵を曖昧にして「みんな」が幸福になる決定を「みんな」で決めていく討議といったプロセスをも批判している。

シュミットによれば、討議という決定プロセスを取ることで決定を先延ばしにしてしまう。それは平時であれば問題ないが、法が一時停止したような「例外状態」であればそんな悠長なことも言ってられない。従って、国家は強力な主権を行使してくれるリーダーの存在が重要であるとまで言う。おそらくそれは彼にとってのヒトラーであって、彼がナチスの理論を擁護したと言われる所以もそこだろう。

ここまで見てくると「みんな」とはなんだろう?と思う。

「みんな」のために「みんな」で決定する政治もどこかで必ず「みんな」の外を排除してしまう。一方で「みんな」を恣意的に決める強いリーダーが出てきてもまずい気もする。

シュミットが言うように自分にとっての「みんな」を決定することから逃れられないのだとするとどうやって「みんな」の外に攻撃的な態度を取らないでいられるかの方法論にしか興味がなくなってくる。

1つだけわかるのはシュミットも言うように「みんな」が道徳的に正しいとか間違っているとか、友敵以外の価値基準と区別するような方法論でなくてはダメだということだ。

自由主義であればナチズムであれ、「みんな」の外が道徳的に劣っているとか間違っているという価値判断と結びついてしまった時に「みんな」の外への排除や攻撃が正当化・過激化してくる。リチャードローティのように「みんな」が「みんな」でいることは偶然の一致に過ぎないと少し冷笑的とも思われる態度こそがいいのかもしれない。


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