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映画『天安門、恋人たち』 近視眼的にも遠視的にも。(ネタバレ感想文 )

監督:ロウ・イエ/2006年 中=仏

2006年制作のロウ・イエ40歳頃の作品。
中国では、当時はおろか現在に至るまで上映禁止の作品だとか。
日本では2008年に公開されたそうですが、私が観たのは、2024年のノンレストアDCP化版のリバイバル上映。レストアしないでデジタル化してるの。フィルムの傷とかそのまま残ってるのよ。

この映画、近視眼的にも遠視的にも私にはツボでした。
いろいろ細かいことを書くと長くなりそうなので、かなり大雑把な感想になりますけどね。

まず近視眼的な視点から言えば、(途中までは)優秀な「大学生もの」映画だと思うんです。
大学生ものってほとんど無くない?私が知らないだけですかね?
高校生もの、ティーンものは腐るほど世の中にあふれてるんですけどね。
大学生ものは『サマータイムマシン・ブルース』(2005年)が草分けじゃないかと私は思っているんですけど、それだって「ユルさ」が大学生的なのであって、本質的な大学生の情景ではないし。
なんでしょう?大学生って、「青春」というにはとうが立っていて、「大人」というには未熟なんでしょうね。それがドラマになり難いのかな?
ところがこの中国映画は、その「青春以上、大人未満」を見事に描いていると思うんです。それは必ずしも学生運動的なことではなくてね。

『天安門、恋人たち』なんていう邦題や『Summer Palace』なんていう英題がつけられていますが、原題は『頤和園』
公式サイト(のコメント欄)によれば、こういう意味だそうです。

原題の『頤和園』は、人工の湖と山を有する歴代皇帝の離宮であり、現在市民に開放されている公園だ。そもそも本作に登場する「北清大学」とは、名門である北京大学と清華大学の名称をミックスした架空の大学だが、両校とも「頤和園」の近くに位置していることで、北大生と清華大生にとってこの公園はデートに使う恰好な場所なのだ。本作が日本公開時に、おそらく映画の背景となる1989年の天安門事件を意識して邦題『天安門、恋人たち』をつけたと思われるが、原題は作者が青春に捧げるオマージュの時代風景として付けたものではないかと思う。

公式サイト・晏 妮(アン・ニ)日本映画大学特任教授のコメントから

つまり、「井の頭公園」みたいなことのようです。
場所の名前ということでは英題が正解ですが、その場所が「あの日、あの時」を思い起こさせるという意味では邦題の方が芯を食ってる気もします。

ただね、「天安門」って言っちゃうと、1989年の天安門事件がクライマックスだと思っちゃうじゃない?
でもこれ、1987年から2001年までの14年間の物語なんです。
正直、天安門事件以降がダラダラ長い印象があるんですがね。

でも、ロウ・イエがミケランジェロ・アントニオーニ好きと聞いちゃったら仕方がない。
つまり、天安門事件がクライマックスだと、「井の頭公園でデートしたなあ」で終わっちゃうんです。思い出は美しすぎて by八神純子。言いたいだけ。
でも、アントニオーニだから。それはもう「愛の不毛」に帰着するわけですよ。「井の頭公園でデートしたあの時間には決して戻れない」という「現実」と向き合わねばならんわけです。
ロウ・イエはカサヴェテスも好きだそうで、なるほど言われてみれば、鑑賞後の印象は似ている気がします。

こうした近視眼的な視点も文学的で面白かったのですが、遠視的(大局的)な視点で観ると、天安門事件だけではなく、ベルリンの壁崩壊や香港返還という「時代のうねり」を描きたかったのだろうな、と思うのです。
「民主化」という政治的な言い方よりも、「自由」という言葉の方がしっくりきます。
この映画の主人公たちは「自由を求めて彷徨う」若者たちなのです。
彼女なんて辺鄙な地方出身者ですよ。都会に出てきて大学デビューして「自由」を手にしたら、そりゃ井の頭公園でデートするに決まってますよ。
そして、その「自由」の象徴が性行為なのではないかと思うのです。

自由を求めて飛び出した先のベルリンでの出来事を考えると、「自由」って本当は何なんだろうな?とさえ思います。
もしかすると、ロウ・イエは、かの国と人民に、「自由とは何か?」を問いたかったのかもしれません。上映禁止になっちゃったけど。

(2024.06.15 アップリンク吉祥寺にて鑑賞 ★★★★★)

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