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映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 (ネタバレ感想文 )エゴとけじめと贖罪

4Kデジタルリマスター版を観ました。最近のリマスターブームの中で最も楽しみにしていたので早速。
公開時以来、約20年ぶり。再びスクリーンで堪能できて興奮しています。
いやー、久しぶりに観ても、相変わらず嫌な話(笑)。

当時は、ラース・フォン・トリアーがどんな監督か知りませんでした。
「初めまして」ではなく、以前『ヨーロッパ』(91年)を観ていて「二度目まして」監督だった(ということは後から気付いた)んですが、まさか世界屈指の「珍味監督」だったとは。映画を食事に例えるなら、この人の映画は「珍味」です。クサヤの干物みたいなもん。
なのでこの作品は、「カンヌでパルムドール受賞」と「カトリーヌ・ドヌーヴが出るミュージカル」程度の情報しか持たずに初見。へえ、ドヌーヴのミュージカルなんて『ロシュフォールの恋人たち』(67年)以来かねえ、
いやいや珍作『ロバと王女』(70年)以来じゃね?ワッハッハ!
とか言いながらウヒウヒ観に行ったらドえらい目にあった。

今となっては、その後のもっとヒドイ胸糞作品群を観ているので、むしろ「純粋」にすら感じます。いやまあ、『ニンフォマニアック』(2013年)だってある意味純粋ですけどね。

純真さ故の愚かさの物語

「純粋」あるいは「純真」という点で言うと、デンマークの大先輩監督カール・テオドア・ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』(1928年)へのオマージュに思えます。
『裁かるゝジャンヌ』って、純真な想いを貫いたが故に処刑されるお話だと私は思っています。いわば「純真さ故の愚かさの物語」。
(たぶん近いうちにリマスター版が上映されると思うけど、無音声映画なので静寂の映画館で嗚咽をこらえるのが大変なのよ)

それは、この『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に重なります。
涙なしには観られない、愚かな女の純真な想いの物語。
ちなみにウチのヨメは「愚かな男は山ほどいるけど、愚かな女の物語は希少だ」と名言風なことを言っています。

エゴとけじめと贖罪

しかし決して「お涙頂戴」の作りではありません。
「全米が泣いた!」(デンマーク映画だけど)が狙いであれば、終盤も子供が出てきて母子で抱き合ったりしちゃうもんです。
あるいはエピローグで元気な子供の姿を映したりして、彼女の「犠牲」が「報われた」形にしようとするもんです。それが普通です。
しかし、イカレポンチ・ラースはそんな安いドラマに興味はなかった。

彼が描きたかったのは、人間の「エゴ」ではないでしょうか。
ビョーク演じるセルマのスタート地点は、「赤ちゃんを抱きたかった」という彼女の「エゴ」だと言えます。
そしてこの「エゴ」に対する「けじめ」が彼女の行動の「動機」なのです。

子供の父親については語られません。口の端にも上りません。邪推ですが、決して幸せな関係ではなかったのでしょう。もしかすると、強引な男の「エゴ」のせいだったかもしれません。それでも彼女は自身と子供の運命を背負い「赤ちゃんを抱きたかったから」と泣くのです。

こうした女性の覚悟に比べたら男の「けじめ」なんて甘いんですよ。
辞任だ指詰めだ切腹だ言いますけど、結局ちっぽけな自尊心で右往左往しているに過ぎない。男は愚かだ。この映画だって「奥さんに貧乏を知られたくない」「いっそ殺してくれ」ってわけじゃないですか。ちっぽけなエゴとつまらんけじめ。

それに対してセルマの「けじめ」は「報われる」ためではなく「捧げた」ものなのです。これは「純真」な「愛」です。『至上の愛』ジョン・コルトレーンですよ。そして、自身の「エゴ」に対する「贖罪」でもあるのです。

セルマの眼

この映画の「現実シーン」と「空想ミュージカルシーン」が、異なる手法で撮られていることはすぐに分かると思います。

現実シーンは16mmフィルムなのかな?明度の低い暗い画像で、手持ちカメラをぶん回します。
ミュージカルシーンはビデオ撮影でしょう。明るい色調で、少し赤味がかった感じがするのは、わざとそうしているのか、当時のビデオは赤色が滲んだからかもしれません。
非常に早いカット繫ぎですが、撮影は全部固定カメラだと思います。カメラが移動するカットが2,3あったように記憶していますが、電車と自転車に固定したカメラだからです。

手持ちカメラ(手振れ画面)は不快です。画面も暗いし話も不快。
それが現実シーン。
ところが空想シーンは一変します。
固定カメラ、明るい色調、計算された構図、カット割り、音、歌、踊り、完璧な「映画」に変貌します。中盤の列車ミュージカルなんて映画史上屈指の名シーンですよ(粗いビデオ映像が残念だけど)。

観客は知らぬ間に、不快な「現実シーン」が嫌になり、「空想ミュージカル」を心待ちしているのです。
そう、セルマと同じように。
そこでハタと気付くのです。
冒頭延々と見せられた謎の絵?前衛絵画?ロールシャッハテスト?何あれ?
きっとセルマの見える世界なんですよ。

珍味だイカレポンチだ散々言いましたが、ラース・フォン・トリアーはテクニシャンなのです。「魂の映画」なんて評も見かけますが、彼は本能で撮ってるわけじゃない。ちゃんと計算して、計算ずくで撮ってるんです。

例えば、セルマはこう言います。
「ミュージカル映画が終わるのが嫌」
「カメラがクレーンで上がったらお終いの合図」
「だから最後の曲の前に映画館を出るの」
だから彼女は歌うのです。「これは最後から2番目の歌」と。
だからこの映画は、(クレーンで)カメラが上昇して終わるのです。
まるで緞帳が降りる様に。

この映画は「私のお気に入り」

長くなりましたが、最後にもう一つ気付いたことを。
映画冒頭のミュージカル練習シーンで最初に流れる曲は
「マイ・フェイヴァリット・シングス」邦題「私のお気に入り」。
65年には映画化もされた超有名ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の1曲。今となっては「そうだ 京都、行こう」の曲と言った方が分かりやすいかもしれませんね。
ジャズのスタンダードナンバーでもあり、中でもジョン・コルトレーン(2度も名前出しちゃった)の演奏が有名です。

「映画冒頭に」と書きましたが、終盤でもビョークが独唱します。
独房で、「私のお気に入り」を、噛みしめるように。
ついでに言うなら、上述した列車ミュージカル名シーンの歌は、ある種「私のお気に入り」の前段の様な歌詞です。「私はもう全部見たの」「まだまだ素敵なものはいっぱいあるよ」という。

おそらく、この映画の裏テーマは「私のお気に入り」なのです。
一つはセルマにとってのミュージカル。
もう一つは、ラース・フォン・トリアーにとってのカール・テオドア・ドライヤー。
この映画に登場する故国の英雄的ダンサー「ノヴィ」は、ラースにとってのカール・テオドア・ドライヤー大先輩に相当するのではないでしょうか。

(2021.12.12 新宿ピカデリーにて再鑑賞 ★★★★★)

監督:ラース・フォン・トリアー/2000年 デンマーク
(4Kデジタルリマスター版日本公開2021年12月10日)


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