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インドのひとたちとわたくし。(161)ー酒は文化か、悪習か

 朝からアパートメントの電気が止まっている。玄関ドアを開けて見たらエレベーターは動いているので、停電はうちのフロアだけのようだ。なぜうちだけ?入居してからまだ電気代は支払っていないが、そのせいか?
 屋上に住む管理人ヴィプールは当初、「年度末だから電気会社が早目に支払わせようとする」という、どう聞いてもおかしな説明を繰り返していた。が、何度も問い詰めているうちに、先々月の電気代が支払われていないということが判明した。どうやら彼の怠慢で先々月分の請求書を我が家に持ってくるのを忘れていたらしい。今月分はようやく手元に請求書が来ていて、その支払い期限までまだあと数日ある。今、不払いで止められるのはおかしいなと思ったのだ。
 だけど彼、自分の非はぜったいに、それはもうぜったいに、認めない。「悪いのは電力会社」の一点張りだ。
 入居してすぐ、備え付けの冷蔵庫内で水漏れを発見した際、「それほど大きな被害はない」とこちらが言ったのを、オーナーに「問題ないから何もしなくていい、とマァム(私のことだ)が言った」と彼が電話で報告しているのを聞いた。このひとは簡単に嘘をつくタイプなのだ。まったく当てにならない。が、住まいに関する相談は彼にするほかないのである。

 電気がいつ復旧するかわからないと、うかつに冷蔵庫も開けられない。室内はまださほど暑くはないが、これから日暮れ時が一日でいちばん暑い。ヴィプールが「30分以内に電力会社が来る」と言ってからすでに2時間は経過している。やることもないので、停電の時間つぶしに飲める場所を探して、近所で仲良くなった商店主のプラティークに、飲みに行くときはどこらへんに行くのかと尋ねてみたら、『CP』と返ってきた。CP=コンノート・プレイスですって?車で1時間以上かかるじゃん。
 仕方がないからオートでいちばん近い星付きホテルに避難し、冷たい『キングフィッシャー』とクラブ・サンドウィッチで時間を潰した。

 ぶつくさ言いながらホテルで時間を潰し、すっかり暗くなってから帰宅するも、電気はまだ通っていない。ドアを閉めると本当に真っ暗である。怒り心頭の家人がしつこくヴィプールに電話すると、根負けしたのか「あと2分だけ待ってくれ」と言い、ほんとうに2分後、ようやく電気の灯りが室内に戻った。

 時刻はすでに8時過ぎ。やれやれ、長い一日であった。

 このあたりに外国人はほとんど住んでいない。伝統的なインドの家族住まいばかりだ。ヴェジタリアンが多くて、肉屋などないし、ヴェジにしか部屋は貸さないという頑固な大家もいる。ヴェジのひとはお酒もほとんど飲まないのが普通なので、酒屋はあるものの、近隣にバーや居酒屋的な店はまったくないのだった。ところどころにある地場の商業モールにも飲酒できるレストランはほとんどない。それくらいにお酒と縁のない生活というのは、酒飲みの我々からするとにわかには信じがたいものがある。

 今日のホテルでも頼んだし、レストランでも家でも、当たり前のように飲んでいるビール『キングフィッシャー』は、インド国内で4割近いシェアを誇るビールのブランドだ。現在はハイネケンが大株主だが、もとはバンガロールの実業家ヴィジェイ・マリヤが1983年に早逝した父親の後を継いだブルワリーから始まっている。このマリヤという人物は、10年くらい前まではインド屈指の『贅沢王』ビジネスマンとして知られていた。
 マハトマ・ガンジーの教えでもあったように、インドで飲酒は英国統治時代の悪しき伝統として考えられ、今でも飲酒そのものを禁じているグジャラートのような州もある。今のPM からしてグジャラート出身だ。
 禁酒でない州には安価なインディアン・ウイスキーが出回って、皆おおいにそれを楽しんでいるのだけれども飲酒を大っぴらにはしにくい雰囲気が確かにあるし、酒類業界はビジネスでもどうやら一段、低く見られているらしい。
 お酒そのものの広告は法律で禁じられている。実業家マリヤは、業界がインドでは不当に低く見下されていることを不満に、『キングフィッシャー』のブランディングを考え抜き、自分自身が豪奢な生活をして広告塔になり、業界のステータスとブランド認知を高めることを実践した。バンガロールで初の『パブ』営業、つまり若者が気軽に行くことのできる酒場を展開したのも彼なのだった。女性でも飲みに行ける店を最初に作ったというのはこの国では画期的なことである。さらに事業を多角化し、航空会社『キングフィッシャー・エアライン』の立ち上げやF1 チームの買収にも乗り出した。マスコミの寵児と言ってよく、自身の誕生日に60億円をつぎ込み1万人を招待して、パフォーマーにはライオネル・リッチーを呼ぶ、そんな豪勢ぶりだった。そういえば、若い友人のひとりは『キングフィッシャー・エアライン』が、最初の就職先だったと言っていた。だからそれほど昔の話ではない。
 が、無謀な多角化と無理な借り入れのため、航空会社は2012年に営業停止に追い込まれ、それだけでなく、国営銀行との不正取引を疑われたマリヤそのひとはすでに英国に逃れている。

 という物語があったことをNetflix のドキュメンタリー『バッド・ビリオネア』で知った。酒類業界の社会的地位向上を図ったつもりが、個人的な散財や不正取引につながってしまったのは残念なところではあるけれど、融資の査定をきちんとしなかった銀行側にも責任はあり、しかもそれは国営銀行である。不正の手口はそれほど込み入ったものでなく、番組では、このような手法は誰でもやっていると言いたげだった。なあんとはなくだが、ビジネス界でいちばん目立っていたマリヤをスケープゴートにして、庶民と賃金未払いに遭った従業員の溜飲を下げさせたと見えなくもない話ではあった。

 ともかくも、少なくともこの界隈で、お酒を大っぴらに楽しもうという文化はなさそうである。

 家人の職場の話を聞いても、ピュア・ヴェジで卵すら食べない会社のパートナー、アミットは、運転手付きのベンツに乗っているくらいのリッチマンだが、めったなことで外食などしない。出張先であっても、ランチは自宅から持ってくる飯盒みたいな大きな弁当箱を客先の工場の食堂で食べているそうだ。自宅にひとを招いて料理人の作った食事を振る舞うことはあっても、飲食店に出かけて接待や懇親を図ることなど皆無なのである。宴席での無礼講もないわけなので、それはそれでビジネスライクでよいかなとは思う。

 それでいて不思議なことに、街道沿いの酒屋はどこも繁盛しているのだった。大々的に飲んで騒いだりはしないが、自家消費やちょっとした仲間との集まりに、小さい瓶の国産ウイスキーを買っていく程度なのかなと思う。1本数百円という世界だ。
 ただ、ピュア・ヴェジを名乗っていても、「酒は外で飲む分には構わないのだ」と豪語するひともいる。「親にばれたくないので、飲んだら友だちのところに泊まる」という若いひともいたりする。ヴェジタリアンというのは宗教というよりは各家庭の慣習みたいなもののようで、解釈がまことに都合よくひとそれぞれなのであった。

 このところデリー市内には、なかなか立派な店構えの新しい酒屋が相次いでオープンしている。
 デリー州政府が昨年から法改正をして官営酒屋を撤廃し、すべて新しい免許で民間経営の店舗に切り替えたのだ。新しい免許では酒屋の裁量で店頭での値引きもできるようになり、国産ウイスキーは1ケースに1本、オマケがついて来るようになった。と思って喜んでいたのもつかの間、値引きのせいで周囲の治安が悪化したとか、飲酒人口が増えたなどという苦情が相次ぎ、2月末で値引きは禁止となった。これを不服とした酒類販売の業界と州政府が揉めている。

 酒類は基本的には依存症や健康への影響があるから、規制を設けておく必要はある。嗜好品なので、政府が主導して育成するような産業でもない。
 が、長引くコロナの影響で失業者が増え、若い人が求める仕事に就くのを諦めるという事態が今のインドで起こっていて、年々、労働参加率(LPR)が下がる傾向にある。これって結構、深刻な問題なのではないか。少子高齢化の国とは異なり、インドはこれから30年にわたって15~64歳の生産年齢人口が増大していく中にある。以前の住まいの隣人は、「これからは人口抑制が鍵だ」と述べていたが、増える労働力に対して適切な仕事を提供できていないとしたら、国としての成長は予想されているよりもずっと覚束ないものになる。
 ズルをした億万長者を海外にまで追いかけて制裁するのも政府の仕事だし、いろいろと規制をかけることも大事だが、国のリソースに適した産業を育成して労働人口を増やしていくこともまた、政府の仕事である。ここでかじ取りを間違えると、近いうちに中国を追い抜いて世界最大人口になる国でみんなが路頭に迷うことになるから、なかなかの正念場ではないかと、インド産ウイスキーのハイボールを飲みながら思っている。


海外逃亡中の大富豪たちは今どこに ((HindustanTimes, 19th Apr. 2022 )

デリー政府が酒屋に値引き販売を禁止( IndianExpress, 5th Mar. 2022 )

否定され落胆している-若者が仕事を探さないのはインドの危機( DownToEarth,28th Apr. 2022 )

( Photos : In Delhi, 2022 )

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