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人権なんて本当にあるの?

このタイトルを読んで、「こいつは頭がおかしい」と思われただろうか。

今の日本には「日本国憲法」というものがあって、その第11条にはこう書いてある。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

日本国憲法第11条より

どうやら人権というものは、現在および未来の国民に対して与えられるものであり、憲法がその存在を保証してくれているようである。

でも、よくよく考えてみると、本当に人権などというものは存在するのだろうか?

「人権はある」と主張する人がいたとしたら、私はこう質問したくなる。

「人権があるというならば、今この場で私の目の前に見せてくれませんか?」

できる、という人がいれば実際にやってみてほしいが、大抵の人はできないだろう。

じゃあ、人権なんて本当に存在するのだろうか?
人権というものをどのように理解すればよいのだろうか?

この質問に対する私の結論はこうだ。

「人権とは、『人権はある』と信じる人々の間でのみ、存在する」

つまり、人権というものが実在的な何かとしてそこにあるのではなく、人々が存在すると「信じている」から存在するのである。人々の間で、それが共通認識としてある場合にのみ成立する概念なのだ。

これは、構造的に「お金」という概念とも似ている。

日本円を例にとると、例えば日本銀行券であるところの1万円札は日本人は皆ありがたがって欲しいと思うだろう。なぜなら、その1万円があれば、1万円分の価値のある商品やサービスと自由に交換することができるからだ。いわば、その1万円札に「1万円分の価値があると信じている」から、その交換が可能なのだ。

では、この1万円札を持ってどこか遠い国の先住民族を訪ね、その地で採れた果物と1万円札を交換してくれ、と言ったとしよう。

すると、おそらく現地の人たちはそれを断るだろう。なぜなら、彼らにとってはその1万円札などただの紙切れに過ぎないからである。

日本人どうしにおいては、「1万円札には1万円分の価値がある」という共通認識があるから取引が成立するわけで、そういう共通認識が無いところに行けば、状況が変わってしまうのだ。

さらに言えば、人権が存在するかどうかという点については、宗教にも近い感覚があるかもしれない(確かに、人権という概念はキリスト教から生まれた)。全知全能の唯一神という存在が実際に存在するかどうかは客観的に証明できるわけではないが、「存在すると信じる」のが一神教である。

同じように、人権というものが実際に存在することは客観的に証明できないが、「あると信じる」ことによって人間集団をうまく運営していこうとするのが、日本国憲法を代表とする基本的人権の尊重を謳う憲法である。

したがって、「人権」という概念は、人々の共通認識の中にのみ存在することができる、大変脆弱な概念なのだ。

人権なんてどうでもいいという人が増えたり、人権があると信じる人がいなくなれば、人権という概念はすぐに消え去ってしまう。

だからこそ、「人権とは何か?」「人権なんて存在するのか?」と常に問い直しながら、その存在を確認する不断の努力が求められるのだ。

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