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つながりたい、つなぎたい

ああ、どうしよう。

電車の席の隣にいる推定0歳の赤ん坊が、私という個体を認識して笑うだけで、なんだか心臓をわし掴みにされたみたいな気持ちになってしまった。

おーい、君の目にはわたしはどんな感じに映っている?
ちゃんと人間の形をしている?

手を目の前でグーパーしてみると、それは条件反射のように二タッとする。持たされた布製のおもちゃを一生懸命あむあむしながら。
隣に座っている母親がかたくなにこちらを見ようとしないので、その辺りで目の前のぴかぴかした生命体をまじまじと見るのはやめよう、と視線を落としてつらつらとこれを書いている。


姉に第一子が生まれ、ふにゃふにゃとしたヒト型のあの子を初めて抱いたときにびっくりした。
何て完璧な形なんだろう。

あの子が生まれてはじめて外の空気に触れたとき、
近所を散歩する犬を認識したとき、
小さな足で地面を踏んだとき、
初めてチョコレートを食べたとき、

その新鮮な反応をそばで見るたびに、また1から「生まれてはじめて」を一緒に積み重ねて、親は自分を育て直すのかもしれないと思った。
ふにゃふにゃだったあの子が、今じゃ毎週習い事に4つも通い、学校では友達に意地悪したりされたりなんかもしているらしく、すごいよなあと思う。

さまざまな要素が積み重なって、人は少しずつ形を変えていく。
「やさしさ」や「ずるさ」をまんべんなく身につけてヒトになっていく。そう思うと、どんな人の形も面白いし、うつくしいし、とても興味深い。


「自分以外の生命を育ててつなぐ」という自然の摂理があるならば、それができないのは、不自然なことなのだろうか。
たとえば、自分の発した言葉や、行動や、作ったものや思想で、誰かの心を慰めたり、行き先を決める助けになるようなことは「つなぐ」と表現できないだろうか。
もしも、人生の目的が「つなぐ」ことだと仮定するならば、自分はいったい、誰に何をつなぎたいだろう。

独りで何もかもが完璧に完結してしまえる世界で、やはり、誰かとつながって、何かをつなぎたいという欲求が、ごまかしていてもちゃんと胸の中にある。
最近はその欲求そのものを認めたいと思っている。

そんなことを考えていたら、親子はわたしよりも一つ手前の駅で降りて行った。

最後に母親が振り返ってわたしに会釈をした。
わたしも会釈をして、もう一度、真新しい生命体を見た。

もう、わたしのことなどすっかり忘れて、自分の足先に夢中の彼(もしくは彼女)を見て、この子が大人になる20年後の未来を少し想像した。

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