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「え、親父の手を握るのか」ー『親父の納棺』(柳瀬博一著)

「親父が死んだ」というプロローグから、この本は始まる。東京工業大学の教授、柳瀬博一氏が、亡くなった父親とどうお別れをするかという話だ。

日経BBで30年以上つとめ、記者、編集、広告プロデューサーやラジオのパーソナリティも行い、現在は東京工業大学の教授である著者の前作は『国道16号線 日本を創った道』だ。

その著者の新作ということで楽しみに購入したのだけれど、「親父の納棺」の題名と表紙をみて意外に思った。

『国道16号線』は、地理という観点から文化を読み解いた力作で、しかもそれが最近の文化(ユーミンは16号線文化の中から出てきたなど)にまで言及し、(地理学なのか民俗学なのか私はまったく知識がないので分からないのだが)、とにかく、エキサイティングな語りで面白く、目を見開かされた。

読むことで「ものの見え方が変わってしまう」というのは、すばらしい体験だと思うのだが、この本はまさにそうであった。

東京の見え方が変わったー川や地形からみたときの「場所」は、今まで私が思っていた、ただの現在地としての東京ではなく、歴史性を豊かに持つ、面白い場所となった。

大量の資料を読み込み、実際に現場に足を運び、たくさんの人と会いながら、あくまで「客観的」に検証しながらかいたもので、長年出版社で働いた著者がもっとも得意とする書き方だったのではないかと思った。

しかし本作は『親父の納棺』である。帯には「突然、父親の「おくりびと」になって考えた」とある。

なぜ、あの著者が、パーソナルな題材でかこうと思ったのだろうか? 著者の筆力や着眼点を信じて購入したものの、私は不可解な気持ちでいたのである。

しかし、その気持ちは、まったく逆に裏切られた。

素晴らしかった。一気に読み終えた私は、ふう、っと本を置いてため息をついた。

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客観と主観のはざまにある本、と言えばいいだろうか。

家族の死というものは、「客観的」に処理することは難しい。そもそも死というものがそうなのかもしれない。なぜなら、それは「理解不可能なもの」だからだ。それが、肉親のものならなおさらだ。

肉親の死は、数として処理できない。思い出や関係性が思い起こされるが、それはまったく自分の「主観のなか」に存在するその人のことであることを強烈に意識させられる。

その人の死をどう理解するかというときに、まったくパーソナルなものとして(つまりあなた個人のものとして)受け止めなくてはいけないのだ。

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近代社会は、死を「あっち側のもの」に追いやってきた。それを追いやることで、私たちは「こっち側」を「了解可能なもの」にしようとした。

この本は、長年メディアの世界にいた著者が、どうやってそこの橋を渡し、物語をつくっていくかというドキュメンタリーである。

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「いっそ、お父様のお着換え、お手伝いされませんか?」と納棺師の「すずさん」に言われ、著者とその弟は、突然「おくりびと」となる。

「お父さんの右手を握ってください」と言われ、「え、親父の手を握るのか」と著者は戸惑う。

そして、その手を握ったときに「私の感覚ががらりと変わった」と著者は書く。(一番すばらしい文章は、その箇所にあるのだが、ぜひ本文を読みながら、感じてほしい)

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どうして感覚が変わったかという考察で、「さわる」「ふれる」の違いという話が挿入される。『手の倫理』(伊藤亜紗著)からの引用だ。「ふれる」は、相互的なものだという。

父親の手にふれたときの場面は、宗教的体験のようだ。失ったものを、もう一度みつけることだからだ。

最近、私は十牛図についての本を読んだのだけれど、いなくなった牛をみつけたような、そんな感動をこの場面に感じた。

また、「ふれる」ことは、父との「親密さ」を思い出すものでもあった。私たちの社会は、思考を優位にして、感覚(ここでは触感)を重要でないものとしている。親密さは、身体的なものなのだ。

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さて、著者は「ケア」という概念に注目する。

父親の手を握ったことで感じたことを「同時に、私たちは親父にケアされている」と言語化する。死者となった父親との「相互」の「ふれ合い」は、あちら側との橋がかかる瞬間だったのではないだろうか。

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付章では、木村光希氏(「おくりびとアカデミー代表」)、養老孟司氏らと話しをし、考察を深める。パーソナルな体験を、時代的、歴史的に俯瞰したものとしてとらえなおす著者の筆は、やはりすごい。

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この本は、どんな本かと言われれば、父の死を受け入れるまでの話であり、あらすじを言っても仕方ない。しかし、なぜこの本を読むべきかといえば、著者と心の旅を一緒にできるからだ。

私たちがまるでその場で体験しているように「感じる」ような筆運びで、著者の心に「ふれる」のだ。

ああ、と私は思う。

だから、なのだ。

「客観的」に書こうと思えば、それはきっと柳瀬氏の得意とするようなスタイルで、容易にできただろう。『国道16号線』の著者なのだ。けれど、私たち読者に「感じ」させようとしたのではないだろうか。

「客観」だとか「理性」「書き言葉」を好む現代の私たちが置き去りにしがちなものは、感覚だ。それは「あっち側」と「こっち側」をつなぐ。

著者の父と著者が、「ふれる」を通してつながったように。

感覚、である。

ああ、まったく、著者の手の上で転がされたようだ。

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この本を、多くの人に読んでほしい。

とても深いテーマを扱っているのに、挿絵もあたたかみがあり、やらわかで読みやすい。また、(失礼かもしれないが)柳瀬氏のピュアで少年のような側面が魅力的である。

「さわる」が「ふれる」に変わるとは、どんな感じなんだろう?

読書によって、著者のパーソナルな体験は、普遍のものになる。それは、橋を渡すことだ。

感覚は、それだけの力を持っている。だから、ぜひ「感じて」ほしい。


『親父の納棺』(柳瀬博一著、幻冬舎)

もくじ

[プロローグ]親父が死んだ。そして「納棺師(見習い)」になった。
[1章]コロナで会えない--親父の病、ボケ、そして死。
[2章]コロナがもたらした神「Zoom」。お通夜も、葬儀も、お見舞いも。
[3章]私と弟、生まれて初めて親父に下着を履かせる。
[4章]親父との握手。「さわる」から「ふれる」へ。そして世界が変わる。
[5章]弔いである前に、死者のケア、生者のケア。
[6章]『手の倫理』と、居間で戦うウルトラセブン。
[付章1]「おくりびとアカデミー校長」木村光希さんに、聞いてみた。
[付章2] 養老孟司さんに、聞いてみた。
[エピローグ]1年後のストリートビュー。
[解説的あとがき]ケア、ミーム、埋葬、バーチャル化、そして「からだ」


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