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料理中でも寝る前でも→「泣きました」【声で聴く「ヨガティーチャーになるまでの話」】(復活)第1回


noteを始めるとき、どんな思いだったろうか。ここで何をしようと思っただろうか。

私の一番初めの記事は、クンダリーニヨガティーチャーになるまでの体験記の第一話だ。

自己紹介も何もなく、いきなり連載をスタートさせた。

他のSNSもしていなかったから、フォロワーは当然ゼロだった。プロフィールは「エイミー/マレーシア住み」として、私の好きなインド料理トーサの写真を貼った。

ヨガを小さく教えてるだけで有名でもないし、それ以上、どうしていいかよくわからなかった。

フォロワーを増やすやり方も調べなくて、「いいものを書けば、読者が増えるはず」とシンプルに考えていた。

2日に1回のペースで、コツコツ書き続けた。

いいと思う人がいれば、フォロワーも増えるはずだと楽天的だったのだけど、どうやらそうでもないと思ったのが、1ヶ月後だ。スキもコメントもほとんどなかった。

知らないヨガの先生の話を読みたいかというと、たいていの人はそうでないだろうから、いま考えれば不思議ないのだけど、その時はとてもがっかりした。

気持ちが折れそうになった日が、分岐点だったと思う。

近くの 「The Coffee Bean & Tea Leaf」に行った。「書いても仕方ないし、もうやめようか」とその時思っていた。

2020年の7月ごろ。今から1年半前だ。

Today's Brewを受け取ると、席に座りイヤホンを耳にさし、音楽を聴いた。

窓の外に遊ぶ子どもたちを見た。何人もがはしゃいでつつきあっている。私は、肘をついてぼんやりとそれを見ていた。

飲み終えたカップを見つめた。

その時、突然「書こう」と思った。

私は、手帳とボールペンを片付け、イヤホンを耳から外し、すくっと立ち上がると車に戻った。

「反応もどうだっていい、書き終えるまではやろう」そう思いながら、エンジンをかけた。

カフェインの興奮作用だったかもしれないと今、思う。あそこのコーヒーは濃くて、大きなカップになみなみと注いでくれるのだ。

だから、コーヒーを注文して、きっと良かった。

結局、連載を終えた頃から、多くの人が、過去記事に戻り1話から順に40話もの記事を読んでくれるようになった。

「泣きながら読みました」「一気読みで」「感動してしまって」「電車で読んだら泣きそうになってやばかった」というような声をたくさんもらった。

あの日、あの濃いコーヒーを飲まなければ、やめていたかもしれない。そしたら「ジミー」を書くこともなかった。


人生は思ったようには進まないのだけど、思ってもないことも起こる。


2ヶ月で書き終えたのだけど、たくさんの人からコメントやメッセージをもらったから、ここには何かがあるんだと思ってる。

過去記事になると読む人も面倒だろうから、新しくアップすることにした。

kindleで有料にすることも考えたけど、それより、このやり方が喜ばれそうかなと思う。

読むのは面倒だという人も忙しい人もいるだろうしと、朗読した。

料理を作りながらでも、ベッドに横になった時にでも、聞いてくれたら嬉しい。

いろんな人が、楽しんでほしいな。

1-2日おきに更新する予定。




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「クンダリーニヨガティーチャーになるまでの話」

(第1話)


私は、運動も英語も苦手だった。

ヨガを始めたのは遅かった。興味はあったけれど、身体が固くて運動も苦手だったから「ついていけなそう」と思い、なかなか始められなかった。

身体が硬いのは、前屈で指先がほとんどつかないぐらい。

体を動かす習慣はなかった。いつもぎこちなく体を動かした。子どもの頃だって、運動会は憂鬱だったし、通信簿の体育の欄は「ふつう」以上がついたことがない。団体競技では「なるべく迷惑をかけないように」と気にかかって楽しくなかった。運動部に入ったこともない。

英語にも自信がなかった。マレーシアに住むのが、初めての外国ぐらし。留学経験もなく英文科にいたわけでもない。

それだけど、マレーシアで、クンダリーニヨヨガのティーチャートレーニングを受けようと思った。

「ヨガを教える」のに有利な条件も、何一つなかった。

すでに若くなかった。

憧れるようなスタイルの良さや、人を引き付けるような魅力的な外見もない。

他のヨガの経験もない。クンダリーニヨガ以外では、クラスに参加したことすらない。

ダンスやピラティス、ボディワークなどの経験もない。飲み込みの早さや勘の良さもない。身体に関する特別な知識も全くなかった。

人前に出て話したりする経験もなかった。


ヨガの先生に求められそうなことを、私は、ほとんど満たしていなかった。

資格が取れたとしても、誰も雇ってくれないし、仕事が入る見込みもないだろう。「やめた方がいい」とアドバイスする人がいても不思議ではない。

無駄金になる、と思いとどまるのが、「真っ当」だ。

半年のトレーニング期間のうち、1ヶ月半は自宅に帰れない。

費用の面も大きかった。トレーニング費用だけではない。飛行機代や宿泊費も含めると大きな金額になる。

そもそも、やり遂げられるのか。挫折するのでないか。トレーニングを終えて仕事にできる見込みもないのだから、全て無駄になるのではないか。

当時の私は、そんな「真っ当」なことに、思い至らなかった。

だけど、今、思うのだ。

よかったのかもしれない。

「真っ当」を見なかったことが。

誰の意見も求めなかったことが。

無理かもしれないとか、これが苦手だとか、努力しても無駄だとか、自分にはできないとか、仕事にならないとか、考えなかったことが。


もう、ある程度の年齢になっていたからだろうか。

それとも、実は何かに、行き詰まっていたからだろうか。あの頃、自分の生活を「そこそこ幸せ」と思っていた。だけど、違ったのかもしれない。

社会や他人のいうことが、当たっていることもあるだろう。

だけど、それを聞きたくないほどに、私は、実は何かを求めていたのかもしれない。

「そこそこ幸せ」と思っていた。

だけど、心の底では、どこか嘘だと思っていたのか。


「なんのために行くのか?」

その時は、答えを持っているような気がしたけど、多分、違ったのだろう。


私は、ティーチャートレーニングに申し込んだ。


<1話おわり>


いつもありがとうございます。いま、クンダリーニヨガのトライアルを無料でお受けしているのでよかったらご検討ください。