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境界知能に必要な支援と理解①

今回もAbemaPrimeから

全編はAbemaTVで観ることができます。番組を観ながらいろいろと考えたことを記録していきます。


大人の義務

當間ローズさんの「境界知能かもしれないことを本人には伝えずに配慮をしていた」という話。きっとたくさん悩まれただろうし、精一杯のケアをされただろうと想像する。

その一方で、第三者だから暢気に言えることかもしれないけれど、周りが配慮をするだけでは足りないのではないかと感じる。

境界知能のくくりだけに限らず、子どもが大人になるまでにどれだけ自己理解を深められるかが大切なんじゃないかと思う。周りが配慮するだけでなく、自身の「苦手なこと」「得意なこと」を本人が理解して、苦手なことに出くわしたときには「苦手なので手伝ってもらえますか」と説明できる力をつけさせる。これがとても大事なんじゃないかと。

周りが配慮しているだけでは、大人になっても「配慮されるのが当たり前」になってしまい、むしろ配慮されていたことにも気がつかないかもしれない。

社会は厳しいので、自分で理解を得る術を身に着けておかないと、精神を病む結果にもなりかねない。本人が説明できれば、相手も理解しやすくなり心地よく過ごせる可能性が上がる。あるいは説明できずとも、「苦手なことばかりのこの場所は合わないな」と自ら生き方を選ぶことができるかもしれない。

理解する姿勢、理解される姿勢

実際、私自身が理解できない行動をする人と一緒に働いたことがあって、どうしたらいいかわからず悩んだ時期がある。

こちらとしては丁寧に説明しているつもりでも、どうにも届かない。今思うと私は私の感覚で説明してしまっていて、彼の感覚を理解しようと話を聴く姿勢、彼自身を見る姿勢が足りていなかったんだろうなと思う。当時はここまで広い視野を持ってはいなかったから。

また私自身も自己理解が足りず、「どうして私はできないんだ」と空回りしていた時期もある。実はマルチタスクがめちゃくちゃ苦手なのに、どうにかしようと一人でああでもないこうでもないと苦戦していた。私は自分を責める癖が強いので、上司は怒るのではなく「まぁまぁそう焦らず」となだめていた。

大人の義務として、子どもが自立できるような指導、自己理解を促す指導をしていく必要があると思う。また上司と部下の関係であっても、理解すること、理解されることを求めていけたら、もう少し平和な関係性をつくれるんじゃないかなぁ。

支援のためのカテゴリー

番組内で太田先生がおっしゃっていた「支援のためのカテゴリー」に、とても共感した。

「障がい者」と書かれているものをよく目にする。「害がある人」なんてイメージを持つ人もいるかららしい。

個人的には「障害者」という言葉は、「この社会に障害となるものがあって生きづらさを感じている人」だと思ってる。そういう人たちには必要な支援がちゃんと届いてほしい。

番組内で「名前をつけなければ存在を忘れられて支援が受けられない」というような言葉があった。「HSP」が流行ったのもこの原理なんじゃないかと思う。「病名はつかないけれど、でもどうしてか生きづらい」を拾ってくれる、ようやく手に届いた取説、みたいな。

私自身も「HSP」がきっかけで、今なお継続しているカウンセラーさんに出会えた。結局私の場合は気質の問題も確かにあるものの、それよりも家庭環境の影響が強かったわけだけれども。

一人一人「その人」を見てじっくりと付き合っていくことがまだまだ難しくて、多数派が生きやすいようにつくられている今の社会。だからこそいろんな名称やくくりが必要だと思うし、「支援のためのカテゴリー」の考え方は広まってほしいなぁと思う。

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