【紫陽花と太陽・中】第十話 告白
あずささんが好きだ。
それを、きちんと告げたい、と思って、覚悟を決めて、数日たった。
いろいろな出来事が重なって、僕は人を特別に好きになるという感情を知るのが、とても遅れた。他の人が幼い頃に自然と知るであろうことを、僕は全然知らなくて、話を聞いてもピンとすら来なくて。他人事だと思っていた。
ようやく好きだと分かっても、遺言が邪魔をした。
いや、それは嘘だな。
ただ、自分に全然自信がなかったからなんだ。
自信は、今もあまりないけれど。
伝えるか、伝えないか。
両者を天秤にかけて、どちらがあずささんを幸せにするのか、考えた。
でも分からない。
分かるはずもない。
幸せなんてものは、本人が決めることなのだから。
「あずささん」
雲ひとつない晴天、梅雨時期の中で珍しい日の朝、僕は心臓が口から飛び出るほど緊張していた。
僕は有給を取っていた。あずささんが振替休日だという、今日この日のために。
「き、今日……。お出かけしてもいいかな……」
「何かあるのか?」
「えっ? ええと、例えば、買い物……とか」
とにかく一緒にデートをしたい。なのに、僕の口は全然うまく開いてくれない。
「いい天気だな」
あずささんが窓の外を見やる。あぁ、天気の良い日だから洗濯物をガツンと一掃してしまいたかったのかもしれない。家事は分担して終わらせたほうが効率がいい。じゃあ一人で行ってくるよ、といつもなら言ってしまいそうだけど、今日はだめだ。
「洗濯を、とも思ったが」
やっぱりそうだった。
後ろで誰かの視線を感じた。ちらりと見やると、椿だ。
椿のやつ、僕がちゃんとデートに誘えるかどうか、見てるし。
「買い物は一緒の方がいいのか?」
ブンブンと首を縦に振る。できたらおしゃれなお店でお茶したい。家でほうじ茶とかではなくて(昔軽々しく誘った記憶がある)、いや日本茶や和菓子はあずささんが好きだし老舗の趣あるナントカ専門店みたいなところでもいいんだけど。縁田さんから教えてもらったオススメのカフェはチェックしたからその中からどこかいいところを……。
「ああ、そうか」
あずささんが僕を見つめて深く頷いた。
ではなく、僕の後ろのカレンダーを見つめて、頷いた。
「今日だったな。月命日」
「へっ?」
ツキメイニチ。誰の? ——父さんのだ。
「お供えの菓子はいつものお店でいいのか? 花屋にも寄らないといけないな」
「そうだね……」
あずささんの頭の中はすでにお供え買い物コースを思い浮かべている。間違いない。
「墓参りも、したかったのか?」
「いや……考えてないよ……まったくね」
「おそなえ」
ボソリと後ろで椿が呟いた。今日のお出かけは、ウキウキ気分ではなく故人を偲ぶ静かなものになりそうだ。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ。あずさお姉ちゃんはきっとどこだってよろこぶから」
僕の肩をポンポンと叩き、椿がそっとフォローしてくれた。小学二年生だろ? 一体どこで覚えてくるんだその仕草。おでかけの準備をし始めると、椿は親指を上にグッとあげてニヤリと笑った。その姿はどこかで見たことがある。……縁田さんだ。
そうして、僕たちは一緒に出かけることになった。
お出かけはとても素晴らしかった。
まず、あずささんがめちゃくちゃ可愛かった。お出かけの目的が父のお供物の買い出しだったからか、落ち着いたシンプルな服装だったのだけど、前に僕が贈った髪留めを付けてくれていて、それがすごく似合っていて嬉しかった。くすんだ色合いの紫陽花のアクセサリー。小さなお花の模様がついた紺色のワンピースに白いパンプスを履いた彼女と一緒に、花屋までの道をのんびり歩いた。
「それ、付けてくれたんだ。似合ってる。あと、嬉しい」
というと、照れながら小さく微笑んでくれた。
あずささんが笑ってくれている。それだけですごく嬉しい。
ほんの数ヶ月前の出来事だけど、彼女は涙を堪えたり、泣いてしまうことばかりだったから。また笑えるようになって本当に良かったと思う。
父さんと母さんのお供えの菓子は、いつも同じ。その方が迷わない。
父さんはいつも「三色団子」。いつもにこにこ笑っている父らしい、幸せな色のお菓子だと思う。
母さんは「わらび餅」。ほうじ茶と一緒に、生前よく食べていた。
月命日の前後にお供えの菓子と花を買うことは、父の死後始まった習慣だ。父と母の死んだ日は、偶然なことに一緒だった。おじいちゃん、おばあちゃんの時はあまり思わなかったけど、父とは話したいことが多すぎて。お仏壇で手を合わせながら心のなかでそっと話しかける。毎日じゃなくても、自分の中で新しいことに挑戦する時とか、気持ちを整理したい時とか、手を合わせる。
まだ生きていた単身赴任の頃よりも話しているかもしれない。ちょっとおかしいよね。
……いつかは色褪せるこの習慣が、今の僕には必要な作業。
あずささんは分かってくれているような気がする。それで、買い物にいつも一緒に付き合ってくれるのだ。
お昼ごはんは蕎麦屋になった。
自然と笑顔になってしまう。
どうしたって、あずささんとは同じ思い出の数が多すぎる。
父さんと蕎麦を食べたあの日、一緒に作ったことや、交わした会話も、その時の温かさも、あずささんと僕は一緒にいたから分かっている。蕎麦、という食べ物に対する思い出の数々。今日一日(朝は忘れていたけれど)たくさん父のことを考えている。思い出に浸る。
あずささんは、僕を見守ってくれている。
「天ぷら蕎麦を、二つ、温かいので」
あいよ、と元気にお店のおばちゃんが注文を取った。
カウンターに隣り合って座った僕は、横目であずささんを眺める。あずささんは店の内装を興味深くキョロキョロ眺めていた。
「冷たい蕎麦でもいいけど、なんか、温かいのを頼んじゃうんだよね」
「今日はそんなに暑い日でもないし、ちょうどいいのではないか?」
「そうだねぇ」
「前に入った西区の蕎麦屋は、海老天蕎麦がすごく高くて、びっくりしたな」
「あー、あったね。それで結局、ただの天ぷら蕎麦にしたんだよね」
「学生には、高すぎた」
「……僕がおごるよって言ったけど、断っちゃったもんね」
「だってあれは」
「ははっ、働いてるんだし、毎日外食するわけじゃないから全然出すのに」
箸入れから箸をなんとなしに取り出した。店で注文を取るときの癖で、箸を指でペン回しのようにくるくる回す。
付き合っているわけじゃないのに、二人でごはんも食べに行くし、買い物もする。たくさん話して、たくさん趣味(?)の読書を通じて知識を共有して、朝起きたときも寝るときも、部屋ですら一緒な僕たち。
……これ以上は、望みすぎなのかな。
気持ちが乱れる。決意がゆらぐ。
数日前の夜、椿からあずささんも僕のことが好きだと聞いた。
伝えるつもりがないことも、椿から聞いた。
僕から動かないと、前に進めない。
進むことは、彼女のためになるのだろうか。このまま穏やかに月日が流れるのを待ったほうがいいのかもしれない。
……でも。
ほわりと湯気が立つ天ぷら蕎麦が来た。
いろんなお店の、いろんな蕎麦を見てきた。
蕎麦といっても、同じものは一つもない。
「いただきます」
「いただきます」
同じタイミングで挨拶し、これまた同じタイミングで箸を取った。あまりに動作が重なりすぎて、二人とも思わず顔を見合わせた。困ったようにくすっとあずささんが微笑んだ。
胸の鼓動がまた始まってきた。
僕は目の前の蕎麦に集中して、夢中で啜った。
数種類の(もちろん海老もある)天ぷらは、どれもサクッと軽い歯ざわりでとても美味しかった。
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