【紫陽花と太陽・下】第0話 翠我遼介というひと
【紫陽花と太陽・下】第0話 翠我遼介というひと
(文字数 約5,500字 読了目安 約14分)
茜色した柔らかく細い雲が浮かぶ、西の空。
コツコツコツと規則正しい靴音。
ローファーの靴音は二人。私と、友達の。
西日の眩しさに目を細め、いつもの街並みをいつものように帰る。
見えてきた。私の住んでいる家が。
「日向、もう、ここで大丈夫だ」
「ん? そう? 玄関まで送り届けるけど?」
「……いつも、本当にすまない。でももう家はもうすぐだ。日向もあまり遅くなると……」
眼鏡をかけたショートボブの友達を見て、私は小さく呟いた。レンズの奥の可愛い瞳がニッと細くなり、日向はひらひらと手を振った。
(あまり遅くなると危険だ)
呟いた言葉は飲み込んだが、彼女は察してくれる。私が、過去に経験した恐ろしい出来事のせいで一人で外を出歩けないことを、彼女ともう一人の友達には伝えてある。だから毎日わざわざ回り道をしてまで、私を家まで送り届けてくれるのだ。
「じゃね! あずさ! また明日ー!」
「……あぁ。ありがとう」
うすいクリーム色の壁、緑の屋根とこげ茶色の扉のこの一軒家が、私の住んでいる家だ。
表札には『翠我』とだけ書かれている。
リュックサックから鍵を取り出し静かに帰宅した。透明で環状のキーストラップがキラリと煌めく。昔何かの折に贈られた紫陽花のドライフラワーが環の中に埋め込まれている美しい品だ。
苺柄の玄関マットの隣にあるスリッパ立てから一組出し、そっと床に置き、履いた。
「おかえりなさーい!」
奥からは、明るい女の子の声。
「おかえり、あずささん!」
少し手前の台所辺りからは、馴染みある少年の声。少年……いや、もう青年になる歳か。
ひょい、と予想通り台所にいた彼が顔を出し、満面の笑みで私を出迎えてくれた。
「ただいま」
私は微笑みながら返した。
ただの帰宅の挨拶。当たり前のこと。いつもの日常。
その、なんてことない一つひとつのことが、私には当たり前ではなかった。
私――霞崎あずさ――は、虐待されて育てられてきた。
彼――翠我遼介――とは、中学二年生の春に出会った。
私と彼は姓も性も異なり、生まれも育ちも違う人だ。でもどういう因果か十四歳の時に出会い、たくさん話をし、泣いたり笑ったりして一緒に過ごし、今一緒に暮らしている。居候というのが私の現状を示す適切な言葉だと思っている。
リュックサックを台所の向かいの階段下に一旦置かせてもらい、いつものルーティーンをする。手洗い、うがい、そしてトイレ。一通り終えてダイニングテーブル辺りまでやって来た。遼介はいつものクリーム色のエプロンを付けて、野菜を冷蔵庫にしまっているところだった。
「あ。あずささん、ありがとう」
「いや……。遼介こそ、たまの休日くらいもっと休んだらどうだ」
手を動かしながら私と彼は冷えた白い箱に食材を入れていく。この家には全部で二人の大人と二人の学生と一人の子供が住んでいる。子供というのは彼の妹の椿ちゃんだ。
「あずさお姉ちゃん! これ、見てぇー!」
その椿ちゃんが私を呼んだので振り向いた。両手で大きな画用紙を広げて立っていた。
「これはまた、立派な木の絵だな」
私は微笑んで感想を述べた。椿ちゃんは絵を描くことがとても好きだ。今見せてくれた絵はクレヨンを画材に使用しているみたいで、紙面いっぱいに堂々とした佇まいの大木が描かれていた。
遼介に促され、私は彼の手伝いではなく椿ちゃんの「今日の出来事」を聞くことになった。彼女は目を輝かせて日常の宝物を私に報告してくれた。
ちらりと壁のカレンダーを見ると、やはり今日は遼介の休みの日だった。
遼介は私と同じく高校二年生になる年齢だが、社会人だ。昨年、中退したのだ。
彼の職業は喫茶店のホールスタッフで、日々接客業務に従事している。気遣いが細やかでいつも笑顔溢れる彼にぴったりの仕事だと思っている。
遼介がまだ何か台所で作業をしていた。音から察すると電気ポットで湯を沸かしている感じがする。……私が帰宅したのでお茶でも淹れようと思っているのかもしれない。
「遼介。その、もしお茶を淹れるのなら……私がするが」
「ん? あー、確かに淹れようと思ってたけど、なんでバレたんだ」
「私がするから、休んでくれ」
自分がこの家にいてもいいと自信の持てない私は、ダイニングテーブルから慌てて立ち上がり台所に向かった。既に湯は沸かし終わり(電気ポットなら沸騰までもすぐなのだ)台所の作業台には人数分の茶器とカップの中には紅茶かハーブティーと思われるティーバッグが既に準備されていた。
彼は仕事柄、茶を淹れるなど息をするように毎日していることと理解しているが、それでも……家にいる時くらいは肩の力を抜いて自分の好きなことをしてほしいと願ってしまう。
「おやつなのかっ!!!!!!」
大声で椿ちゃんが希望的観測を述べた。
私と遼介が顔を見合わせ、同時にぷっと吹き出した。茶器の隣には椿ちゃんお望みのおやつの小箱があったからだ。
「桐華姉には内緒だよ。晩ごはん前におやつなんか食べさせて、って僕が怒られるからね」
穏やかな声で遼介が妹に忠告した。
桐華さんというのは遼介の十二歳離れた姉のことだ。彼にはもう一人姉がおり、そちらの方とは十歳離れている。妹の椿ちゃんとは九歳離れている。四人姉兄妹なのだ。
そしてご両親はもう他界されている。昨年の春すぐに、彼の父親が病死した。母親はもっと前に同じく病死したと言っていた。
「はーいっ!!! お兄ちゃん、大好き!」
「……まったく、調子いいんだから、椿は」
口ではそう言っているものの、目は笑っている。幼い椿ちゃんに、親代わりに寄り添ってきたのは遼介なのだ。嬉しくないはずはない。
微笑みながら私は小箱を開け、中身を皿に出した。出来たてのハーブティーと牛乳のグラスを盆に乗せ、私と遼介がダイニングまでやって来た。
三人で食べるおやつの時間。
これを食べたら晩ごはんの支度が待っている。
先ほど炊飯器を確かめたら既に指定時刻で炊きあがるようセットされていたので、遼介が準備してくれたのだと分かった。彼が仕事の日は私が晩食を、その代わり朝食の支度は彼がいつも担当している。
帰りの遅い姉二人には頼めないからと、遼介は小さい頃から家事をしてきた。
椿ちゃんの手を引いて、買い物や保育園、家の雑多なことをずーっとやってきた。一人で。誰にも相談することなく。
だから遼介はあまり人にものを頼むことをしない。
とはいえ私自身も昔両親を事故で亡くしたことや厳しく育てられた経緯から、何事も自分でやれることはやってきた。それが当たり前で、彼も当たり前だと思っている。
いろんな話に花が咲き、笑っているうちにいつの間にか空の色が濃くなってきていた。何一つ言葉は交わしていないが、私が席を立つと――遼介は私の視線に気が付いたのだろう――彼も立ち上がってお互い両端から順番に窓のカーテンを閉めて行った。
椿ちゃんが満足そうな顔で宿題に取り掛かっているのが視界に入った。
お茶請けのリーフパイはとても美味しかった。
最後のカーテンを閉める時、私の左手と遼介の右手がコツンとぶつかった。
「!!!」
慌てて手を引っ込めて俯いた。たったそれだけでも私の心臓は激しく鼓動してしまう。
今更だ。
何を今更。
私と遼介は恋人の関係なのだ。今はただ手が触れただけなのに、本当に自分でもよく分からないので困ってしまう。
「あずささん?」
対する遼介はキョトンとして、あろうことか俯いた私の顔をわざわざ覗くようにかがんで見上げてきた。失礼とは承知で私は背を向けた。
「今日は三日月だね」
静かな声で遼介が言った。火照った顔を覗かれないように、ずるい私はそろりとカーテンの隙間から空を見た。
透き通るような白さの薄い月だった。ついこの前見た時はまぁるい形だったのに。
「困らせちゃって、ごめんね……」
「………っ!」
遼介の表情にはわずかな翳りが見えた。
この家で居候という立場の私が遼介と恋人、などと家族に知られることは絶対にあってはならないとお互い知っている。もともとは家族の一人としてここで暮らすことを受け入れてくれたのだ。ここに住めない場合はまた息苦しく暴力が待っている自宅に戻るか、見知らぬ場所での隔離か。それ以上、何を望むというのだろう。
受け入れてくださった遼介の父親はもういない。だから、私はいつもここにいていいのかどうか途方に暮れている。あの天に浮かぶ三日月のように、誰かがふぅと息を吹きかけたらどこかに飛んでってしまうくらい……それほど頼りない何かに縋って、ここにいる気がしてならない。
六月の、ご両親の月命日の日に私は遼介に告白された。それで、私が今ここにいる意味は、遼介が望んでくれるからだと自分に言い聞かせることができている。
だがそれすら遼介が「優しい」からしてくれているだけかもしれない、と思う自分がいる。
私には自信というものが欠落している。
遼介には、私よりもっとふさわしい女性がいるのだと、心の底から思っている。
家と仕事と買い物先とを日々往復している遼介は、彼の姉からすると行動範囲が狭すぎるらしい。お客様とはたくさん接するけれど、店員と客、それだけの間柄で、彼の生活の中で似たような年齢の女というのがたまたま私だけだった、という程度なのだと思っている。
私は思わず遼介のエプロンを掴んだ。
「こ、困ってはいない……。は、恥ずかしいだけだ……」
ゆるゆると私は顔を横に振った。
「そっか。それなら、良かった」
遼介が少し表情を緩め、再度空を見上げた。彼の首に喉仏が見え、私達はもう中学二年生ではないことを改めて感じた。
彼の服の端をぎゅっと握りしめるのは、元々は椿ちゃんのクセだった。今はさすがに小学生になったので、しなくなった。私がこの家に来た頃の彼女はけっこう握っていた。
彼は私が同じようなことをしても怒らない。言葉は出てこないのに誰かに縋りたい、そういう不安な時に私は椿ちゃんのようになってしまう。
自然な流れで遼介が私の手を握り直した。
彼の手は骨ばっていて、大きくて、温かかった。
視線の先は、空。
彼の両親が遺したこの一軒家で、彼は幾度となく窓から空を見る。
空の先に、一体何を見ているのだろうか。
前に一度尋ねたことがある。黄昏時だったか、夜だったか。
――どうして、空を見るのか。
彼は目を瞬かせた。
親友のことを思い出しているのだろうと分かった。
唯一無二の、物心付いた頃からずっと隣にいたはずの、彼の幼馴染のことを。
遼介には大切な幼馴染で親友の男がいる。
ずっと一緒だったけれど、遼介が家のことで忙しくなるにつれ、会う頻度は減った。中学では部活動をしている親友と、それをしない遼介で生活スタイルがガラリと変わった。高校は別になった。会う頻度はもっと減った。
晩ごはんの支度を進めながら、私は作業の手を止めずに隣の遼介と話をする。
話題は親友のこと。学校で、私と遼介の親友の五十嵐剛は同じクラスなのだ。授業中のちょっとしたことや時々話す取るに足らない些末なこと、そういうことを私は時々遼介に伝えることにしていた。
「今日は気の強そうな女性と何か揉めていたな」
上靴のラインが私の学年とは違う色だったのでおそらくは年上だろう。遼介は私の言葉にくすくすと笑っていた。
「誰だろうねぇ。剛はしょっちゅうケンカする人がいるって、前に言ってたけどなぁ」
「そうなのか」
「一応ね。一応、剛にも、彼女さんがいるらしいよ?」
「な! ……なん……だと……⁉」
おたまを持ったまま固まってしまった。私のその様子を見た遼介が、もっと笑った。
食事の支度もあらかた終わった。盛り付けは桐華さんが帰宅してからにするつもりで、あと少しで帰宅予定だとメールが届いていたので私と遼介は台所でしばし休むことにした。椿ちゃんは今リビングでテレビに夢中だった。
きゅっ。
何食わぬ顔で、遼介が私の小指に彼の小指を絡めてきて仰天した。
「これは、あずささんにとって、困ることでしょうか」
顔は椿ちゃんの方を、視線だけ私に送り、小指を絡める許可を遼介が申請してきた。
「こ……! ここ、こ、困る……ことは、ない、が……」
「じゃあ、しばらくこうさせて下さい」
「う……」
一つ屋根の下にいるのだから、朝も夜も顔を合わせている身である。
本当に今更なのだ。それに、遼介と私はもっと深く肌をくっつけたことも実はある。
でも緊張してしまう。これも自信がないからだろうか。
一体いつになれば手を握ったり、キスしたり、触れ合ったりするのに慣れるのだろうか。
私は遼介の妹ではないらしい。それは戸籍上でももちろん事実そうなのだが、私は彼に甘えすぎていると自覚している。
自分の気持ちが分からない。
好きだ、ということは確信している。
でもそれは遼介が妹に接しているあらゆる場面――例えば泣いている時の言葉かけだったり、抱っことせがまれた時に抱き上げることだとか、時に諭し、時に諌め、時に寄り添って、全てを包み込む姿とか――に、自分が本当はされたかった親からの愛を重ねているのかもしれないと思うこともある。
育児書を読み漁り、学業ではなくて仕事にプラスになりそうな書籍を片っ端から読んで、試して、毎日何かを学んで次への糧としている。
私が出会った 翠我遼介 というひとはそういう男である。
私達は時々空を見る。
空の先には、どこかで日常を過ごしているであろう親友。
私を時々支えてくれる百合さんという高齢の女性。
もっと遠い遠い空の先には。
亡きご両親が、どこかに。
空はどこまでも続いている。
私が知らなかった当たり前ではない日常は、明日も続いていく。
第0話 翠我遼介というひと
(おしまい)
最後までお読みいただき感謝申し上げます。
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