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【紫陽花と太陽・中】第五話 分岐点

 縁田えんださんの喫茶店で働きだしてから一ヶ月半は経ったかと思う。
 あくまで、学生の本業は学業だから、ということで勉強はしないといけない。もうすぐやってくる期末試験。高校一年生の一学期全ての範囲が出題される、大事な試験だ。
 店長の縁田さんには試験のことは既に伝えてあり、勉強を優先するために一週間はシフトから外してもらっていた。

「では、始めるか」
「あずさ先生、よろしくお願いします」
「真面目だな」
 自宅のダイニングテーブルに教科書や参考書などを広げ、勉強会が始まった。とはいっても、お互いの試験範囲は全然違うので、それぞれ自分の範囲に沿って地道に問題を解いていく。中学時代からやっていた「僕が自力で解く、丸付け、間違いの理由を調べる、分からないところをあずささんに解説してもらう」という流れは一緒だった。
 ウンウン唸っていると、あずささんが心配そうに僕を見た。
「あまりに唸るから犬みたいって、前につよしに言われた」
「すごい言われようだな」
「だから、わん、って鳴いて返事した」
 あずささんがふふっと微笑んだ。
 あぁ……この時間が永遠に続けばいいのにと思ってしまう。
 でもだめだ、あまりにも出来が悪いとあずささんですら微笑みが失笑に変わってしまう。
 高校によってこれほど授業スピードに差があることに、僕は驚愕した。進学校の試験範囲を聞くと、普段は一体どれほどのスピードで進んでいるのか……。想像したくない。

 自分なりに頑張ったとは思う。
 自分で望んで始めたバイトを、続けるためには勉強は必至だ。
 それでも……。

 期末試験。返却された僕の答案用紙は、どれもこれも散々な結果となったのだ……。


 最後の答案用紙が返ってきて、僕の足取りはずーんと重いままだった。両足に米袋がくっついているような……それくらい歩みが遅くなった。家に帰りたくない。
 顔を上げ、空を見上げた。もう七月になった。学ランの夏服は黒ズボンは変わらずに上半身がワイシャツの半袖か長袖で、黒い上着はとっくに着ていない。僕は長袖シャツを肘までまくりあげて着ている。暑い……。背中とリュックサックの隙間が蒸れてじっとりと暑い。
 高校へはバスで通学している。僕は自宅の最寄りのバス停で降り、しばらく立ち止まり、そのまままっすぐ喫茶店……縁田さんの店に歩いて行った。

 縁田さんの店はクローズになっていた。
 そうだった、もう昼間は営業を辞めてしまっていたんだった……。
 唇を噛み、それでもダメ元でいつも仕事の時に入る裏口の扉に手をかけてみた。……開いた。縁田さんが仕込みでもしているのかもしれない。
「んぉ? あれ、りょうくんじゃん」
「……こんにちは」
 大きな声で縁田さんが振り返って僕を見た。キッチンでちょうど何か書類を読んでいるようだった。
「どうした? 今日は仕事入ってなかったと思うけど?」
 曖昧に頷きながら僕は立ち尽くした。来てしまったけれど、これでは完全に縁田さんの邪魔になっている。買い出しくらいなら僕でもできるけど、わざわざ買い出しに来ましたなんて、そんな馬鹿な言い訳は言わない方がいい。
「外、暑かっただろ。何か飲む? アイスコーヒーならさっき作ったやつあるよ」 
 僕は目を瞠って縁田さんを見た。僕の返事を待たずに縁田さんはさっさとグラスに氷を二個カランと入れて、アイスコーヒーを注いだ。
「はい。勝手に入れちゃった。ガムシロ欲しかったら勝手に入れてね。……その顔じゃ、テストダメっぽそうだな」
 縁田さんがニヤリと凄みのある笑みを浮かべた。

 流れで僕はカウンター席に座り、ガムシロ入りのアイスコーヒーを飲んでいた。カウンターをはさんで縁田さんが人参を切っている。
「姉に、バイトを続ける条件として、勉強はしっかりやると言っていたんです」
「そうかい」
「しっかりやるって言っても口ではどうとでも言えるので、期末試験の結果を見せないとと思って……。でも、今日全部結果が返ってきたんですけど、どれもダメでした……」
「そうかい」
 僕は俯きながら続けた。
「せっかくあずささんが僕の試験勉強を手伝ってくれたのに、結局、姉の言う通り両立することができなくて……」
「あずささんって、誰だ?」
 縁田さんがすぐに聞いてきた。あぁ、そういえば縁田さんには父さんのことと姉のことしか、まだ言っていなかったような気がする。
 僕は簡単にあずささんのことを説明した。
「へぇ、A高校。そりゃあ優秀だね」
「A高校を知っているんですか?」
「知ってるよ。ここらじゃあの高校がトップじゃないか。女の子の制服も可愛いし」
 縁田さんくらいおじさん(……失礼かな)が、女子の制服のことを知っているのが可笑しかった。確かにジャケットが濃紺でスカートがグレー、胸のリボンも模様が入っていて、おしゃれな制服だと思う。僕の高校の女子の制服はセーラー服で、白と紺色だけのシンプルなデザインだ。高校一年生だというのに、入学してからすぐに女子たちはセーラー服の前のリボン? の長さを変えたとか、セーラーにブローチを付けてみたとか、なんか話していた気がする。
 あずささんがバイトの日は晩ごはんを作ることや、たまにお弁当も作ってくれると言うと、縁田さんがまたニヤリと笑って言った。
「なんだ、嫁さんじゃないか」
「違います‼︎」
 僕が真っ赤になって否定しても、縁田さんはニヤニヤしているだけだ。
 あーっ、もう、完全にからかわれている。
「血は繋がっていませんが、家族の一人です。ずっと僕を助けてくれているんです」
「勉強も教えてもらっているくらいだもんな」
「そうです。妹のことも、一緒に育児書を読んだりして、相談に乗ってもらっているんです。分からないことはそのままにしないで、本を読んだり実践したりして……そういうことも、あずささんと出会って教えてもらったんです」
「遼くんには妹もいるのかい? 家族構成がいまいちよく分からないなぁ」
 それで僕は縁田さんに家族の話をした。父だけでなく母も亡くなっていること。妹の椿つばきとは九つも年が離れていること。ついでに椿が一時期精神的な面で言葉を話せなくなったことなど、気が付いたら洗いざらい縁田さんにしゃべっていた。縁田さんは誘導がうまいと思う。話すつもりのないことまでしゃべってしまった。
「遼くん」
「なんですか」
「そりゃあ、泣くよな」
「はい?」
「京都で。出会った時。むせび泣いてたもんな」
「むせび泣くって何ですか?」
 縁田さんが迫真の演技をしてくれた。僕はそこまで激しく泣いていなかったはずだ。むくれた僕を見ながら、縁田さんはふっと真面目な顔になって言った。
「俺さ」
「はい」
「息子がいたんだよね。昔」
 ……昔? 嫌な予感がした。
「登山家で、しょっちゅう山に登ってた。山に登って飯が食えるのかって、就職の話になった時に俺と妻と息子がケンカをして」
 僕は驚いた。登山家という職業があるなんて知らなかった。
「それでも息子は登山家になった。それである日、山に行ったきり戻って来なかった」
「……」
「急な天候不順で遭難死。あっけないよな」
 あっけらかんとした表情で、縁田さんは語った。
 僕はなんと声をかけていいか分からなかった。黙ったままアイスコーヒーを啜る。
「俺は、失敗って好きなんだよ」
 縁田さんは続けた。
「失敗しない奴は、弱い。すぐにくじけちまう。いくら頭が良くてもくじけて這い上がれなければ、弱いままだ。俺は失敗ばかりの人生だった。職だって転々として、妻に心配ばかりかけさせて。息子ともろくに話さないままあいつは死んじまった。後悔ばかりさ」
 縁田さんほどの大人でも後悔することがあると知って、僕は驚いた。父さんも後悔することはあったんだろうか。僕も父さんとろくに話さないまま、同じように別れてしまった。
「失敗は好きだがやってはいけない失敗もある。誰かが死ぬような失敗さ」
 縁田さんが包丁をまな板の上に置いて、腕組みをした。
「遼くんは勉強を頑張った。バイトもしてみたいと思ってやってみた。それが失敗だったとしても、やったことは無駄じゃねぇ。試験結果が悪かったからと言って、そこまで落ち込む必要はないと俺は思っている。勝手だけどな。
 俺は遼くんがバイトしてくれて、一日で辞めないでいてくれて助かっている。俺は遼くんが初めての飲食店のバイトで頑張っているのを見てきた。メモだってめちゃくちゃ取ってるのを知ってる。遼くんはまだうまくできないとしょんぼりしているかもしれないが、俺にとってはすごい助かっている。それは本当だ」
 本当に……? 本当に僕がいて助かっているのだろうか?
 僕が働けば、時給が発生する。店にとってはお金がなくなる。お客さんはそんなにたくさんは来ないのに、店をオープンすれば電気代だって野菜とかの仕入れでお金はどうしたってかかるのに。
 僕は顔を上げて縁田さんを見た。縁田さんはニヤリと笑った。
「遼くんはご家族との約束で勉強を頑張らないといけなかったけど、今回のテストはあんま良くなかったんだろ? 頑張ってみて、それでも難しかったのなら、無理にバイトを続けなくたっていい。俺の店はなんとかするし」
 縁田さんはすごい。僕がバイトを続けるかどうか迷っている気持ちまで、分かってしまっていたようだ。
 全神経を集中させて縁田さんの言葉を待つ。
「俺は遼介くんの人生は遼介くんが決めていいと思ってる。遼介くんが選んだ道で、たとえそれが失敗ということになっても、他の人が決めた道を歩むよりずっとずっと素敵なことだと思う。……なんて、俺は息子にそう言えばよかったのに、言えなかった。人が死ぬような失敗はやっちゃいけないのに、俺は失敗しちまったな。息子には息子の人生があって、だから勝手な親の心配心で反対するより、寄り添えば良かったって思っているよ。
 でもあれだな、息子に対して失敗があったから、今ここで遼くんに偉そうにアドバイスできるってことを考えたら、やっぱり俺にとって必要なことだったのかもしれない。……ともかくだ、言いたいのは、遼くんが今日ここに来たのは迷いがあったんだろうなと思ってさ。バイトを続けたいのか、辞めたいのか、辞めたとして、俺に迷惑がかかるんじゃないか、俺に大丈夫だよって言ってほしかったのか。色々あるよな。
 店のことは大丈夫だよ。妻はもう店に立てないだろうが今は夜だけの営業にしているし、それもやってみて俺一人じゃ続かないようになったのなら、店は締める」
「それは閉店するってことですか? 奥さんは……そんなに悪いんですか?」
 僕は旅行の時に会った奥さんを思い浮かべた。朗らかに笑ってゆっくりと縁田さんと腕をとって、歩いていた。
「閉店。廃業。なぁに、するかもしれないし、しないかもしれない。遼くんとは関係のないところの話だ。気にすることは何もない。……妻は、あぁ、ふーちゃんっていつも呼んでいるんだが、容態は悪いね。女性に多い病気で治療もできるものなんだが、年齢のこともあるからね。無理はさせたくねぇし」
「ふーちゃん」
 僕は奥さんのことをあだ名で呼ぶ人を初めて見た。
「ふーちゃん。縁田藤えんだふじ。ふじのはなの藤。優しい紫色で滝のように垂れ下がり咲く、それはそれは美しい花の名前」
 縁田さんはうっとりと目を細めて奥さんの名前を説明してくれた。奥さんのことが大好きだということが、よぉく伝わってきた。
「本当は店の名前も藤にしたかったんだけどさ。ふーちゃんが恥ずかしいからやめろって。それで、同じ薄紫とか水色とかの花の『紫陽花』を店の名前にしたんだよ」

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